「なまえちゃん!」
久しぶりに見かけたなまえちゃんに、声をかけずにはいられなかった。その背中がびくりと動いたのを、僕は見逃さなかった。
「なまえちゃん」
「すみません…私、急いでるので」
「待って。僕、君に何かした?」
振り返ったなまえちゃんの大きな目が僕を捉える。口がへの字みたいになっている。
「沖田さんは何も悪くないです」
その言葉に少しも安心できなかったのは、なまえちゃんの顔がさっきとは全然違ってあまりにも辛そうで、今にも泣きそうだったから。でもそれがどうしてかなんて、僕にはわからない。
「私、来週引っ越すんです。もう…きっと会うこともほとんどなくなる。だから私に構わないでください」
僕は何も言わなかった。否、言えなかったのかも知れない。
どうして僕を避けるの。どうして何も言わないまま引っ越してしまうの。そう聞きたい。やっぱり僕が何かしたのかな。君を傷つけた?でもそう問えば、きっと君は泣いてしまう。
もう僕は君のおとなりさんですらいられないんだね。
僕は、君が……。





結局、千ちゃんにお願いして新しい家を案内してもらうことにした。千鶴が近くにいる。壁も薄くないから、好きなだけ騒げる。
「よかった、これで」
ひとりぼっちの部屋にぽつりと呟いた。ばかみたいだと思った。
あの日平助先輩に助けてもらった時、心のどこかで、助けに来てくれたのがどうして沖田さんじゃなかったんだろうと思った。私はなぜか知らない先輩から目をつけられて、嫌なことをたくさん言われた。同時にどうして私がこんな目に合わないといけないのかと思った。でも私は沖田さんにそのことを言えなかった。私が沖田さんを好きだったから。それは今も変わらない。
この部屋で、一緒のソファーで、お揃いのマグカップを持ってアニメを見た日、ほんの少しの間だったけど確かに私は幸せだった。
でも沖田さんにとって、私はただのおとなりさんで。私がこれ以上を期待すれば、もっと辛い思いをたくさんしなくちゃならない。
引っ越すのは自分なりのけじめ。いつまでもおとなりさんという関係に引きずられないで、断ち切るための。そう思った。
結局私は沖田さんのこと、何もわからなかった。きっと隣の部屋の沖田さんは、まだ帰ってきてない。今なら泣いてもいいかな。私はほんの少しだけ、声を出して泣いた。





「よっ、総司」
「なんだ、平助」
「なんだとはなんだ!」
平助くんは相変わらず元気だなあ。じっと緑の瞳を見ると、平助くんは何かを思い出したように、ああそういえば、と僕を見た。
「お前…今なまえとどうなってる?」
「…別に。どうもなってないよ」
僕がなまえちゃんの話題から逃げようとしてることに、平助くんは全く気付いてない。
「総司に言おうか迷ってたんだけど…一応言った方がいいかなって思ってさ」
「何が?」
「こないだ、総司が呼び出しされてたときのことなんだけど…」
そう言って平助くんが話したことが、僕には信じられなかった。今すぐになまえちゃんに謝らなければいけない。全部全部僕のせいだ。
「それで、それでなまえちゃんは……」
まだ、間に合うかな。


(糸が綻ぶまで)