総司が退院したと聞いた。見舞いには何度か行ったが、それでも長らく会っていなかったので顔を合わせたのは久しぶりだった。
「もう良いのか」
「うん。部活にも出るよ」
「そうか」
ならば手加減はできんな、と俺が笑うと、総司も笑った。同時に見たことのない、名状し難い表情をしていた。それは悲しみでも怒りでもない。
わかっていたことだが退院後、やっぱり総司と名字は常に一緒に居た。もしかしたら総司が入院する前からそうだったのかも知れない。だが、このことは俺の心中に大きな波を立てた。
既に総司より自分の方が出遅れている。そして彼女は総司しか見ていない。総司は彼女を危機から救った。彼女はそれに応えるように総司に寄り添う。その当たり前の構図に俺は頭がおかしくなりそうだ。
(きっと何もかも 正しくないのだろう)
俺が口に出さずにただ見守るように名字を思う気持ちも、総司と名字の二人を応援することができないのも。
でも抑えられない。短い髪の毛も、明るく笑う声も、全て自分に向けられていればいいと、心がそう傾いていく。なんと弱い心なのだと、俺は自分を恥じた。

 


「もう私おかしくって、寝る間際までずっと笑ってたの!」
さっきからずっと彼女は笑顔のまま、昨日のバラエティーの話題を俺に投げ掛け続けている。
正直話題はどうであれいいのだ。この時間が続きさえすればいい。
「ねえ斎藤くん、聞いてる?」
「…ああ。ウメコ・デラックスだろう」
「そうそう!それでね、」
総司のことが気になったが、今は移動教室なのか姿を見せない。ころころ変わる名字の表情を俺はただ見ていた。話を軽く聞き流していることを軽く心中で詫びる。
「…お前は本当によく表情が変わるな」
「えっ、そう?」
喋りつづけるのを止めて、名字は自分の頬に手を当てた。
「ああ。喜怒哀楽がはっきり分かる」
「そうかな……総司にはいつも笑ってるって言われるんだけどな」
ははっと彼女は笑った。それは特別な総司の前だからだろう。そう思ったけど言わなかった。
しばらくして、ちょっと職員室行ってくる、と立ち上がった名字の口元が歪んでいたことにも、彼女が泣きそうな表情をしていたのにも、俺は気付くことができなかった。



廊下を全力で走る。どこか遠い場所に行ってしまいたい。……もう無理かもしれない。
斎藤くんと話してたら、このまま時間が止まればいいんじゃないかとか、自分は今すごく幸せだとか、そんな感情が溢れてくる。だめなのに。
私の好きな人は総司。
助けてくれた恩人。
(絶対に 絶対に離れちゃいけない)
総司が私を助けてくれたのは、強く私を想ってくれているからだと、私は知ってる。そして助けてくれたあの日から、総司が私を想う限り、私はそれに応えることを誓った。
でも私の心は脆いから、そんな誓いがなかったかのように、斎藤くんを見たら高鳴ってしまう。もっと斎藤くんに触れたいと、欲張ってしまう。それは罪悪でしかなくて、私は背徳感の隙間からもれだす抑えられない気持ちに苛まれる。
「……っ、どうして…?」
どうして総司はこんな私を想ってくれるのだろう。そしてどうして私はそんな総司じゃなく、斎藤くんを見ているのだろう。
誰も幸せにならない。斎藤くんはかっこいいから、きっと彼女もいるだろうし、いなかったとしても私に振り向くことなんか無いのに。
それでも、私がくだらない話をして、それに斎藤くんが笑ってくれて、それだけでもいいやって。思ってたのに。
(私の表情が変わるのは、誰のせいでもない。あなたのせいだよ)



女神イドゥンの林檎。神々はその林檎がないと、生きていくことが出来ない。
(総司がもし、)
(それほどまでに私を必要としているのなら?)
やっとの想いでイドゥンと林檎を取り戻した彼らは、歳をとることもなく、もとの姿に若返った。
しかしもう1人の私が静かに諭す。神々はしたことは本当に正しかったのかと。
(もう、わからない―――)
斎藤くんのいない教室。周りが騒がしいのに、まるで私ひとりぼっちみたいだった。ノートの隅っこに、小さく林檎を描く。小さいときに絵本で見たような、まるで泣き出しそうな林檎。そっと指で絵をなぞる。涙がノートに落ちる。自分勝手な私を、神様は許してくれそうにない。