病室のカーテンが風でそよいで、ふわふわと踊っている。もう夏も終わりだ。
少し前に交通事故で僕は名前を庇った。その結果、怪我で入院しなければならなくなって。カッコ悪い、なんて思ったけど、車に勝てるはずもなく。
でも名前が傷付かなくて済んだ。僕がその場にいてよかった。思ったのはそれだけ。彼女のためなら僕は盾にも剣にもなれる。
名前はいつも笑っている。少なくとも僕の前では。あの事故の日から毎日、雨の日も、テスト前も、どんなに遅くなってもお見舞いに来る。相変わらずにこにこして、僕が意地悪しても、やっぱりにこにこ笑う。僕は名前が泣いているのを見たことがない。





「一くん?」
「うん、隣の席なの」
花瓶の花を代えながら彼女は言った。彼女と同じクラスで、僕の幼なじみで、同じ剣道部の、一くん。
「私が寝てても起こしてくれないけど、ノートは見せてくれるよ」
「ふうん」
「だから総司も斎藤くんに感謝してね」
そういってノートのコピーを差し出す名前の表情は柔らかくて。長い髪から覗く白い首もとがまぶしい。
手元に目を落とすと、所々書き込みがしてある。名前の字じゃない、別の。
(―――誰の字かなんて、)
学校に行けないから、名前と一日中一緒には居られない。行ってもクラスが別だからそんなに会えないけど。それでも、僕だけあまりにも追い付かないでいる。
「つまらない」





それからしばらくして、名前が髪を切ったのは、僕が入院して少し経った、雨の日だった。クーラーが効いているのに空気はじめじめしていて、僕はやけに機嫌が悪かった。
本当なら名前と一緒に学校に行っているはずだったのに。なぜか僕だけ病室で、窓を伝う水滴をまるで脱け殻のように眺めている。
すると病室のドアが開いて。いつものように明るい声が僕を呼んだ。まるで翳りに陽が差すようだった。
「ごめん総司、遅くなっちゃった!」
彼女は昨日まで長かった髪をばっさり切っていた。彼女の目元が少しだけ赤い。他の人にはわからなくても、僕にわからない訳がない。
(誰が君を泣かせたの)
そのことと髪を切ったことは、何か関係があるの?思っても言えなかった言葉は、雨粒の音に飲み込まれて。彼女を助けたのは僕。僕の拠り所は彼女。もう依存と言ってもおかしくない。彼女がいないとイライラして、不安で、心臓がぎゅうと鳴る。でも今日は君の顔を見るだけで、胸が痛い。不安で、どうしようもなくて。それを掻き消すように言った。
「髪の毛、似合ってるね」
にこりと笑った名前の頬に、見えない涙の跡が、確かに見えてしまった。
それからの僕たちの間の会話は少なかった。結局名前は僕には何も言わなかった。僕も何も聞かなかった。





オリンポスの宮殿で何故か無くなってしまった黄金の林檎。その罪を着せられてしまった無実の女神は追放されてしまう。彼女は身の潔白を証明するために地上で犯人を探すけど、見つけることができない。
(僕は、)
彼女は辛さに耐えられずに最後には自分で自分を剣で刺してしまう。
(彼女を縛り付けている)
女神が抱いた感情は、自らを保つにはあまりにも大きすぎて。
僕が名前を助けたのが必然なら、名前がずっと僕の側にいるのも必然?
本当は何となくわかっている。彼女は僕に恋愛感情を持っていないこと。全て僕のために、黙って傍らで手を握ってくれていることを。
でも僕は、彼女が差し出したその手を、彼女のために振り払うことができない。捕まってしまう。すがってしまう。僕は強くないから、辛くても、自分を剣で刺すようなことはできないのだ。
女神は周りの神たちにすがることも、助けを乞うことも叶わなかったのに。





「退院おめでとうー!」
「ありがとう」
退院の当日に、名前が花束をくれた。白くて綺麗な花だけど、名前がわからない。
「明日からやっと学校だね!土方先生が待ってるよ」
「それは遠慮したいなあ」
そういえば小学生のころ、鳳仙花を育てていたことを思い出した。僕には鳳仙花は似合わないけど。