私には毎朝の日課がある。朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて……。鏡を見ながら短い髪を整えたら、最後に香水をひと吹き。しゅっと音がして、辺りには林檎の香りが漂う。私はこの香りを纏い続ける。今日も、明日も、明後日も。





友達は、私の香水をいい匂いだと言う。家族も、原田先生や永倉先生さえも。私はあまりそうは思わないけど。
(……ただ甘いだけで なんか物足りない)
私にはもっと、甘酸っぱいオレンジとかレモンとか、青春!みたいな香りが……なんて言っても仕方ない。
隣の席をこっそり盗み見る。うん、斎藤くんは今日もかっこいい。ああいう人をイケメンって世の中では言う。これはもう授業中の日課だ。ちなみにこの時、先生の話はあんまり聞いてない。
ちょっと骨ばった、ペンを握る手。その手にたまに傷が出来るのは、彼が何より剣道を愛しているから。でもね、斎藤くん。剣を握りたくても握れない人がいることを、決して忘れてはいけない。
授業中、先生の話をじっと聞く彼はいつだって真剣で、それはあの人の生きざまそのものなんじゃないかって、ちょっとドラマみたいなこと考えてみちゃったりして。
でも斎藤くんは決して私の好きな人じゃない。だって私にはもう運命の人がいる。そう、あの人は私の運命の人なのだ。だから私みたいな小さな存在が運命に逆らうとか、運命を変えようだなんて大それたことはしてはいけない。考えることすらいけないのだ。





小さい頃にテレビで観た白雪姫。彼女が食べた林檎、それには毒が入っていて―――。ついに姫は眠ったまま目を覚まさなくなる。そして王子さまのキスで、再び目を覚ますのだ。
(現実はそんなには美しくないし きっともっとどうしようもない)
今になって悟る。いつもいつも都合よく王子さまは現れない。しかも死んだ人間はキスで甦ったりもしない。ここが現実と違って、童話の優しいところだ。
学校が終わったら、私はすぐに病院に向かう。そこは私の中ではずっと、暗くて怖い場所で、まさにどうしようもない場所。それでも私は毎日病院へ通う。あの人が、待ってる。あの人の周りだけはきらきらと明るい。そうでなくてはならない。
「そーうじ!」
「……名前」
「ごめん、起こしたかな。今日は体調どうだったの?検査痛くなかった?」
「大丈夫だよ」
総司は、ある夏の日に、たまたま一緒に帰っていた私を庇って交通事故に合った。何で私なんか守ったんだろう。そのことを総司に聞くと、いつも眉を下げて笑う。その表情がなんだか寂しげだから、私はあまり事故の話題に触れない。ただ償うように、そっと彼の手をなでる。
「君が来たら落ち着く」
「ふふ」
「林檎の香り、好きだな」
「総司が好きな香りだからつけてるんだよ」
「…うん」
花瓶の水を新しいものに替えて、そっと花を差す。ベッドの脇の椅子に座ると、総司がそっと私の髪をとかす。
(私は 総司が すき)
あの日だって、私が暑くないようにと、自分は日向を歩いて私を影に入れてくれた。後ろから車が突っ込んできた時だって、私を突き飛ばして自分が犠牲になった。私を守らなければ、総司は多分、高3の大事な時期に入院することもなかった。
「実は来週で退院なんだ」
「ほんとに!?よかったー!じゃあまた一緒に学校行こう」
「うん……本当に名前がいると僕は生きてるんだって実感する」
「私、ずっといるよ。総司がおじいちゃんになるまで、傍で、ずっと」
そう言って笑って見せる。総司は笑った。私の頬に触れた彼の指先は温かかった。私が笑ってないと総司は悲しむ。
私より一回り大きな体に抱きつく。それでも服から覗く包帯が痛々しくて、私が身代わりになれたらどんなにいいか。胸に顔を埋める。総司の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。私はこの人のお陰で今日も学校に行けたし、好きなことを自由にできる。やっぱり運命のひとなのだ。





入学してからガチガチに緊張した私に、初めて話しかけてきたのが総司だった。
「ねぇ、君さ」
「はっ、はい!?」
「緊張しすぎじゃない?…顔色悪いけど。名前ちゃん」
初めは何なのこいつ馴れ馴れしい!と思った。でも段々話せば話すほど、おもしろい人だなあと思うようになった。総司のいろんなことを知った。
それから、誰より剣が好きだということも。そして今、私のせいで彼は剣が握れないのだ。それどころか学校にも行けない。
毒林檎を食べた白雪姫はすぐに起き上がったけど、総司はしばらく目を覚まさなかった。このままだったらどうしようかって、ずっと思った。
運命のひと。
意識を失った白雪姫と、それを助けた王子さま。
例えばそういうことなのかな。