黒板とチョークがぶつかってかつかつと鳴る音と、先生の声。そんな授業中、俺はふと手を止めて、視界の端に少し映る彼女の存在を意識した。名字名前。席は俺の隣、同じクラスの女子。髪は短く身長は高くも低くもない。普段は明るくて、授業中もちょくちょく寝てはいるが積極的で、運動もできて。

そんな彼女が時折見せる切ない表情が一体何を示すのかは、未だにわかっていない。

(――何か つらいことでも あるのだろうか)

それからもう一つ、彼女の特徴。名字からは、林檎の香りがするのだ。香水を付けているのだろうか、彼女が動く度に空気が色づくように、ふわりとそれは漂う。林檎、というのが彼女らしい。派手ではないのに、地味過ぎてはいない香り。俺はいつしか、この香りに心地よくなっていたのだった。





そういえば神が初めて作ったと言われる人間のアダムとイヴは、禁断の実である林檎を食べた。そして、自らが裸であることに気付き、無花果の葉で体を覆った。
「お前ら、ここの用法は覚えとけよ。センター頻出だぞ」
土方先生の声ではっと我に返る。隣の席にはいつもと同じように授業を聞く名字がいる。俺はそれをちらりと見て、また元に戻りペンを動かしてノートを取る。真ん丸い目。綺麗な爪。
(届きそうで やっぱり届かない距離だ)
俺が恋に堕ちたのは、暑い夏の日のことだった。
「斎藤くーん!」
昼に部活が終わって、まだ真っ青な空の下、竹刀と胴着を担いで歩いていた俺を、後ろから声が呼び止めた。此方に向かって走ってくる彼女は目を惹いた。そういえばまだ、彼女の髪の毛は長かった。はあはあと歯が見える位に大きく息をして、玉の汗を落として、俺の所に走ってくる。ぬるい風がゆっくりと吹いた。
(――いつもと何かが違う)
どきり、心臓が音を立てて、頬に熱がぎゅんぎゅんと、おかしいぐらいに集まって。お前は彼女が好きなのだと、そう耳もとで誰かに囁やかれたような気になった。
「あっついねー!」
「……名字」
息を整えて、彼女はにかりと大きく笑った。そのとき、林檎の香りが微かにした。後ろで一つに束ねられた髪の毛の先が濡れている。
「部活?」
「ああ」
「私もなの。途中まで一緒帰ろ!」
その日その時、一体俺は何を喋ったのだろう。彼女の他愛ない話を聞いて、笑って。ぎこちなかっただろうか、それすらあまり記憶にない。だが彼女はあまりにも綺麗だった。時が経ち、彼女と別れたときに、初めて自分は彼女と一緒にいたのだと気付いた。もう、恋は始まっていた。





以来、俺の中で彼女が好きだという気持ちはどんどん大きくなっていった。それはまるで、イヴが我慢できずに林檎を食べてしまったのと同じように、俺にもどうしようもないくらいに、抑えられない感情になって。
(―――でも)
だからといって、気持ちを伝えることが出来ようか。向こう側にも迷惑かも知れない。その考えだけでも、俺が黙って彼女を見つめているのには十分な理由になった。
(本当は俺にも分かっている。これが言い訳で、逃げであることも)
午後の空はゆったりと空気が流れて、雲もゆるゆると進む。やがて隣から寝息が聞こえてくる。本当ならば起こすべきなのだろう。すうすうと聞こえる呼吸と、少し覗くうなじ。今だけは時間がゆっくりと流れる気がする。
もう少し、時間がほしいと思ったのは、俺のエゴイズムだったのだろうか。





「斎藤くん?」
「……っ、ああ…済まない」
「だから、ここの答え見せてってば。私寝てたの知ってるでしょ?起こしてって言ってんのに…」
「ならば寝るな」
「う……ごめん、なさい」
「ほら」
ノートを見せてやるだけで彼女の笑顔が綻ぶ。授業中起こせば、こんなやり取りもできないだろう。そっと名字を見て笑った。夏に長かった髪は、今はすっかり短くなって。不意に気になっていたことを口にする。
「そういえば」
「なーに?」
「何故、髪を切った」
俺がそう聞いたのと同時に、顔を上げた彼女と目が合う。焦ったように彼女は饒舌になる。
「ほっ、ほら。夏も終わったし、髪の毛括るの面倒だったし……それに」
「?」
「失恋……したの」
失恋。今彼女は失恋と言ったのか。
(好きな奴に…想いが届かなかったということか…?)
「なーんちって!冗談だよ。斎藤くんがあまりに深刻そうな顔するから、ちょっとからかってみただけ!」
俺にも、いや、俺ですらわかった。冗談なんかじゃない。彼女は本気だ。
でもそれ以上、何も言えなかった。俺が関わっていいことなのかわからなかった。ずっと、俺は俺のままだった。
「もうこの話はおしまい。ね!ノートありがと」
そう言い残して席を立った名字の後ろ姿は、なんだか寂しいという響きが似合っていて。そこには林檎の香りだけが、いつものように残っていた。