ずっと、このカフェを支えなければならないと思っていた。前の副店長…山南さんがいなくなってから、俺は副店長と紅茶の仕入れ、パティシエの三役をするようになる。それと同時に自分のたくさんの無知に気づく。そしていつしか俺は、外国でもっと勉強したいと強く望むようになった。まだまだ世界には、俺の知らねえ紅茶や菓子がたくさんある。
俺が学生だった頃、まさに今のなまえのようだった。やりたいことを探してひたすら考えたが、見つからなかった。
 そんなとき、この店の店長…近藤さんに出会う。初めて近藤さんの淹れた紅茶を飲んで、俺はこの人に着いていこうと決めた。やりたいことがやっと見つかった人間は、いつまでもその気持ちを大事にするもんだ。俺はひたすら勉強した。紅茶の淹れ方、ケーキの作り方、色彩の種類…。
 本当は誰にも言うつもりはなかった。ただ、置き手紙一つあれば、残ったあいつらならしっかり働く筈だと信じていた。それは今も変わらない。
「あんたがいなくなったらこの店のケーキ、誰が作るんだよ!俺だってまだ何も……なまえはそれ以上にまだ何もできねえんだぞ」
「ケーキは斎藤と原田に任せる。紅茶は向こうからも仕入れるし、総司にやらせる」
分かっている。まだ何も教えていない平助を置いて、俺がパリに行くことが、なまえの将来を考えずに縛り付けようとしていることが、どれだけ無責任か。
俺となまえは違う。
「…土方さんがそんな人だとは思わなかったぜ。がっかりだよ!」
平助の声が震える。…また無理をさせちまってるんだな。分かっている。お前の言葉が本音じゃねえことくらい。
 すまねえ、なんて俺には言えない。でもパリに行くなら今しかねえ。時間が…ねえんだ。
なまえにはこの店にいてもらいたい。なまえと平助なら、俺がいなくとも立派なパティシエになれると信じている。一気に、近くにあった冷たい珈琲を煽った。





 土方さんがパリに行くことを知ったのは、なまえがくる少し前のことだった。たまたま土方さんの部屋に行ったときに見つけた、山積みになったフランス語の資料。本人に問い詰めたら、苦笑いをして言った。
「このことは誰にも言うな。……いいか、二年後にこの近くに全国チェーンのカフェができる。そうなりゃ俺達は終わりだ」
「おい、まさかそれ…」
「ああ。風間グループだ。ここ数年で考えられないほど業績を出してる。間違いない情報だ」
この人はどこまで自分を追い込むんだと呆れた。正直、俺には考えられない。店を守るために海外で知識を身につけてチェーンに対抗だなんて。しかし俺には土方さんを止めることも、バカにして笑うこともできなかった。
「だから原田。お前には迷惑をかけることになると思う」
「何言ってんだ、水臭え。土方さん一人の溝くらい俺と斎藤でどうにかするさ。総司も、平助も頑張るだろうよ」
俺がそう言うと、土方さんは笑った。誰よりも大きな荷を背負って、あの人は生きている。
土方さんがなまえを連れてきたとき、土方さんは言った。
「あいつは若い頃の俺みてぇだ」
やりたいことを見つけられなくて、理想と現実の狭間で苦しんだ土方さんにしか、なまえの気持ちはわかってやれないんだろう。そして、救ってやりたいと土方さんは思ったんだろう。俺は土方さんとなまえに賭けてみたいと思った。


(苦く迫ってくる現実)