「玲名、」

小さく名を呼ばれた。声が鼓膜を刺激して、脳で処理され奴と認識される。沈黙しか流れていなかったこの部屋で、ほんとに蚊の鳴くような声だった彼の声が私まで届くのは造作もないことだった。彼自身それをわかってつぶやいたのか、ただの独り言なのかは定かではない。しかし今この場においてみれば、どんな疑問だろうととても些細なことにさえ思える。…すべてがひどくどうでもよかった。まだ半そでですごせるむわりとした空気も、熱いのにずっと乗せられ続けている汗ばんだ手も、同じ空気を吸うのもいやな奴の存在も。ひどくどうでもよかった。円堂達に破れ、父様に裏切られて胸にポッカリ空いた穴はまだ上手に修復しきれず汚くドロドロした醜い血液を垂れ流し続けているし、みんながみんな複雑な思いでいるせいか園内もひどくギグシャグして休まるところがない。その上、その上だ、奴を散々罵倒して、罵ることでやっと安定を保ち、みなの世話をしてこれた私の何かも今奴がここから去るという形で崩れ去ろうとしている。進むのだ、と奴はいう。足を前に伸ばし前へ前へと進むのだ、と。逃げ道を求め、変わることを恐れ、自分から動こうともせず、傷ついたのは自分たちのせいではないのだからと逃げ逃げ、地べたにはいつくばって逃げようとする私たちを置いて、奴は先へいくという。

「…明日、出発だってな」

私の声にうつむいていた顔を上げた奴が「そうだよ」といつもの調子で答える。殴り飛ばしたくてたまらない。平然とするその調子も貼り付けられた笑顔も、全部憎い。殺してやりたい。そう思うだけでまた穴から血液がゴポリと出てくる。

「玲名も男だったらよかったのにね」

そしたらまた一緒なのに。赤がゆれる、ケラケラ、嗤う。

「…たとえ男でも、私はいかない」

気がつけば握りしめていた拳が痛かった。前へ進むことの変化より、私は緩やかな後退を望む。怖いのだ。進んだ先に何があるかもわからない事実も、自分が変わる現実も。私は怖い。今だってまだ逃げている。現実から目をそらし、逃げ、逃げ、逃げ延びる。受け入れられる日は来るだろうか。いや受け入れられ、奴のように前に進むことなどもしかしたら逃げるのが得意な私には一生かかっても無理かもしれない。

「サッカー嫌いだっけ?」

「嫌いでも好きでもない」

好きなものは父様。嫌いなものはこいつ。サッカーなど父様と私をつなぐ手段であっただけだ。

「…昔は楽しそうにやってたのに、」

玲名、変わっちゃったね。吐き出された言葉が洪水のように私をおそい、水が穴を突いてきた。血がとめどなくあふれ出し、鈍器で頭を思い切り思い切り殴られた気分だ。目の前がチカチカして、呼吸が無意識に浅くなる。変わった?誰が、私がか?違う、違うだろう、

「変わったのは、お前のほうだ」

私をいらつかせ、私を安定させ、私を諭し、私が私でいられるよう隣にいてくれたお前は、

「お前はどこだっグラン!」

「…俺は、ヒロトだよ」

ひん曲がった顔で辛そうに小さく呟く奴をみて、私の顔もひん曲がった。





ヒロトと玲名






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