アクリル板越しの面会室を見ながら、彼の名前を小さく呟いた。目の前の唇は開かれず沈黙を貫き、横にいる監査官か何かしらの男のノートに綴られるカリカリという会話の記録音だけが部屋を満たす。時間はない、会話内容さえだだもれ。何ともまた極限の状態にたたされたものだ。窓も冷房もないせいか、ハタリと零れた汗の雫が掌に乗り酷く現実を遠ざける。私は夢を見ているのか、と錯覚さえ覚えそうだ。だってあれだ、こんな現実はとても似合わなかった。かつてはさらさらと零れるようなツヤをしていたその髪がくすみ、程よく体格の良かった肉が削げ、派手すぎもせず、地味すぎもしない彼に似合った服が作務衣に変わってしまった姿など。見たくなかった。

「風介くん、」

もう一度呼ぶ。結果に変わりはない。ただただ、何かを訴えるように私を射抜くその瞳だけがそこにはあった。死を恐れる姿など見られなかった。いや、彼がうろたえ怯える姿は私の乏しい頭じゃ想像出来ないけど、逆にこれだけ気丈に座っているとどうしていいのかも分からなくなる。まさか自分の死刑執行日を伝えられていないわけではなかろうに、何故こうも平然としているのか。人前だから強がっているだけというのも有り得るかもしれないが、何か違う気もする。彼は受け入れたのか?彼は受け入れたうえでこうも自分の死を見つめているのか?私にとっては理解しがたい何かがそこには潜んでいる。だが取り敢えずは何か言わねば、何か言わねばと己を振り絞り、震える口を呼吸が漏れる程度に開き言葉を並べてみた。

「…死刑執行日が決まった後だと、すぐ面会は出来なくなるって、今日が出来る最後の日だって聞いた、から」

ああ、だからなんだと言うのか。そんな言葉しか出なかった自分を殺してやりたくなる。馬鹿か。同情の言葉は彼を不快にさせるだけ。日常話なんか面白くもなんともない。どうしたらいいんだろう。私は今、何をすべきなんだろう。否、こうなることを分かっていながら何故私は彼に会いに来てしまったんだろう。自分の事さえ不明瞭で、彼への言葉も分からなくて、汗に混じって思わず一つ目から汁が零れた。時間だけがコツコツと過ぎて面会時間を削っていくのに、何もできない、何もできない。どうしようもできない無力感で唇を噛み締めれば、じわり口内で滲む血の味に無性に自分の生を覚えた。覚えた途端無意識に出た言葉は「死ってなんだろう」。彼じゃなくても誰にでも聞けるような今にしては下らない疑問。何故死ぬ人間にあえてこんなことを聞いたのか。そもそも私は彼が死ぬという事実をきちんと理解しているのだろうか。口に広がる血の味が生のように、白く白く生気を感じない彼の皮膚の下にも確かに私と同じように生が巡っているのだ。どんなに呼び掛けても微動だにしない彼のその下を透かすように見つめながら、必死に彼の生を探した。お腹が少し動いて呼吸をしていた。一定のリズムで目が閉じられ瞬きをしていた。彼は生きている。ああ、そうだ。私は彼に死刑執行日が決まるまで会いにきたことがなかった。ひどく別の場所で生きていたのだ。死刑囚になったことは聞いていたけど、その収容所で彼が生きているかも死んでいるかも知らず私は生きていたのだ。息を一つ飲み干して、再度彼を見つめ直してみた。生きている。彼は生きている。そしてあと数日で、死ぬ。目を向けず、触れようとしなかった結果がそこには堂々と横たわっていた。死という一文字が手に取るように今理解された。これが死か。これが終わりか。なんとも言えない虚無。ひどく泣きたくて堪らなくなるが、死を受け入れたように座る彼の前で私が泣くのは間違いのような気がして今度はぐっと力を込める。なんとも絶妙なタイミングで「時間だ」と告げる男の声を耳にしながら、私は立ち上がった。ドアが開かれ、私を待つ外を一瞥してから再び彼に向き直り一度目を閉じる。忘れない。

「あなたは、確かに生きていた。私は忘れない」

ドアを抜けた間際、数年ぶりに聞いた彼の声は昔と変わらぬまま堂々と「ありがとう」を返してくる。廊下の先、だんだん近づく空は雲一つない快晴で、風が頬を撫でた瞬間私はやっと子供のように泣き狂うことができたのだった。




風介とクララ






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