白のルチフェル:05



「あっ、竜ヶ峰くんっ、そ…その手!」

同じ班の園原さんに急いた声で名前を呼ばれて、僕はハッと我に返った。
今まで何をしていたんだっけと周りを見回してみると、熱心に彫刻に取り組んでいるクラスメート達が目に入る。あれ、今って美術だったんだ。

「竜ヶ峰くん、その、手!手!」

何だろう。園原さん、今日はやけに落ち着きがないみたいだけど正臣の生霊でも乗り移ってるんだろうか。
僕は眉を潜め、首を傾げる。

「…手?」

「あの、だから血!血が…!」

「…?」

ゆっくりと園原さんの目線を追って、顔を下に向ける。

「!! あっ!う、ぅわっ」

現在進行形で指先からぼたぼた滴る血液が目に入り、どっと危機感が押し寄せる。僕は「ひゃっ」と上ずった声を上げて血だらけになった彫刻刀を放り出すと、猛スピードで美術室を飛び出した。






「ししし、失礼します…!」

「あ、帝人くんじゃない。正臣くんならさっき教室に戻ったと思うんだけど…って、え!」

デスクで書き物をしていたらしい折原は緩慢な動作で顔を上げたが、忙しなく足踏みしながら入ってきた僕を見るなりぎょっとペンを取り落とした。一瞬にして夢から覚めたように顔つきが変わる。

「帝人くんその手、どうしたの!?」

慌ててこちらに歩み寄り、酷く驚いた表情で血まみれの手を取る。鈍くさい怪我をしてしまった自分がみっともなくて、何となく恥ずかしい。

「や、あの、美術でちょっと切っちゃって…」

「あーっ!駄目駄目!傷口は高く上げっぱなしにして!」

「え…こうですか!?」

「そうそう、ちょい待ってね。ガーゼがこっちに…」

勝手が分からずどぎまぎしながら立ち往生していると、折原は薬棚の一番大きな引き出しからもっさりした白い塊を引っ張り出した。業務用といった感じのする大詰めのコットンの中から一掴みほど取って、僕に手渡してくれる。

「はい、切り口の上からこれで抑えて。強く、ね。そっちのソファに座ってくれていいから。あとその体勢だるいだろうから、この台に腕を乗せて」

「あ、どうもすいません…」

キャスター付きの台を引き寄せ、言われた通りにする。
彼はストンと同じソファのすぐ隣に腰掛け、白衣に包んだ身を屈めてこちらを覗き込んできた。

「うーん、どうかなあ。傷口もそんなに深くはないみたいだし、十分もすれば止まると思うんだけどね」

「そうですか」

それから少しの間、二人並んで雑談をした。
後になってから考えれば何を話したのかよく思い出せないのだが、多分他愛もない世間話だったような気がする。クラスの友達の話とか、体育祭のマスコットキャラクターのこと、駅前に新設された雑居ビルに入っているテナントのこと、折原が学生時代にやらかした悪事なんかについて。彼は色んなことを幅広く知っていて、歳も性格も違う僕とでも話が弾む。正臣が保健室登校をしている手前、これまでも接点は少なくなかったが、こうして二人っきりで話す機会こそあまりなかった。

「あ、もうそろそろかな?」

約十分後。はたして折原の言った通り、僕が恐る恐るガーゼを剥がしてみると血はすっかり止まっていた。あんなにだらだら滴っていたのに、と返って拍子抜けしてしまったほどだ。
良かったね。彼は傷口にぴったりとテープを貼ってくれた後、軽く僕の肩を叩きながら微笑む。

「あーけどその制服、だいぶ汚れちゃったねえ…」

「――うわ、本当だ」

「傷口を洗ったら、あとで予備を貸すから今日はそれを着たらいいよ。Lサイズはシズちゃんの所為でボロボロだけど、それ以外は無事だから」

「ありがとうございます。――あの、折原先生?」

「何?」

ふと、見つめ返してくる彼の目の下に濃い隈ができているのに気付いた。
――寝不足かな?
僕は軽く首を横に振りながら曖昧な笑みを作る。

「いえ、あの…。改めてこんなこと言うのも変ですけど、僕が先生に手当てしてもらったの、これが初めてだなって」

「え?ああ、そう言えばそうだったね。まああれだ、保健室なんてそうそう世話にならないに限るよ」

「?」

「ん?だって怪我なんか嫌だろう?」

「あ、普通はそう、ですよね。だけど…、僕はときどき、先生に手当てされる静雄くんが無性に羨ましいです」

「へえ…?」

折原は綺麗な赤い瞳を不思議そうに見開いた。

「帝人くん、面白い事言うね。なんで優等生のキミがシズちゃんを…」

「先生」

すっ、と怪我をしていない右手を伸ばして肩を掴むと、彼は驚いたのか口を噤んだ。その目がゆらゆらと泳ぐのを見て、僕は少し意外に感じた。もっと余裕のある人なのかと思っていた。

「先生…もし僕が、貴方を好きだと言ったらどうしますか?」

「帝人くん、いきなり何言って…――んふっ!」

ぐいと痩身を抱き寄せ、遂ぞ断りもなく唇を押し付けた。もがく『先生』を無理矢理ソファに縫いとめれば、乱れた白衣がはらりと広がる。
言葉を失って震える口唇をなぞるように、そっと指で触れた。
いつからだろう。僕の中で、彼はいつの間にか先生ではなくなっていた。
オリハライザヤ。
欲しい。ただ、貴方が欲しいのだと。たった一つ、胸の奥に潜む欲望が叫ぶように鳴り響いて止まない。今僕はこの人だけを求めていた。
白く艶やかな首筋に手を置き、そっと皮膚の上を滑らせる。
彼は初めて抗議の声を上げた。

「ちょっと、何さ…。帝人くん、変だよ?」

言葉の調子に反して、それは驚くほどに小さかった。

「先生は、静雄くんが好きなんですか」

僕は静かに尋ねる、すると彼はまるで糸が切れたように笑い出した。

「あっはは!ひは、あははは…何、言ってるの?俺は男だよ?シズちゃんだって。分かってる?悪い冗談のつもりか知らないけどさ、もしそういう意味で言ってるならホモってことなんだよ、ねえ!」

「そんなこと、知ってます。だけど僕は、貴方が――」

折原の顔面からすっと笑みが消えた。

「い…、嫌だ」

「先生?」

「俺は、違う。俺は――思春期の男の子の玩具じゃないから。嫌、嫌嫌。馬鹿にするのも、大概にして」

僕はハッと我に返り、自分の影の下で彼がさめざめと泣いていることに気付いた。

「先…生……?」

「やめて。俺のことなんか、ほっといてよ!」

彼が泣いている、僕の所為で。
ああそう、僕がそうさせたんだ。この人の気持ちなんかお構いなしに、ただ自分のためだけに。

「あ……、僕は、そんなつもりじゃ…」

取り返しのつかないことをした。逃げ出したい、ここから。今すぐに。
僕は慌てて彼を開放すると、立ち上がった。
もうどうやったってこの状況を修復できないことは、傍目にも明らかだった。何もかも自業自得。僕は、僕は一番大切なものを見失っていた。

「ご…ごめんなさいっ!」

取り繕う言葉すら口にできない自分が憎らしくて、でも他に何も見つけられぬまま風のように部屋を飛び出した。
何て酷いことをしてしまったんだろう。もう先生の目、まともに見られそうにないよ。




20100924


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