手負いの黒鳥
葵さんへ相互記念!
事務所のマンションで書類の整理をしていると、突如玄関のドアが勢いよくバーンと開く音がした。
「?」
私は首を振りながら席を立つとリビングの扉口から廊下の向こうを窺う。そこで玄関の段差にへたり込む折原の姿を見つけた。
「っはぁ……はぁ…、」
「どうかしたの?」
スリッパをパタパタいわせながら廊下を歩み寄り、まだ靴さえ脱いでいない背中に声をかける。
「…波江さん」
上司の声には明らかな疲労が滲んでいた。年がら年中纏っている愛用のコートは今日に限って見当たらず、何故かシャツも片方ずり下がって肩が露出しかかっている。
「もしかして取引先で何かあった?」
「っ…いや、そんなんじゃ、な…い、んだ」
彼は歯切れの悪い口調で言いながら靴を脱いでゆっくりと立ち上がった。そのまま私の前を通り過ぎていくが、無駄な軽口を叩かないばかりか目を合わせようともしない。変だ。
胡乱な視線を送っていると、その頑なだった背中が途中でふらりとよろけた。
私は咄嗟に手を出してそれを抱きとめる。
「っと…大丈夫?」
「うっ、波江さん…っ」
間近で見る折原の顔は真っ赤に火照り、目元にはうっすらと涙が滲んでいた。明らかに普通じゃない。
私は彼の額にかかる髪を掻き分けてかつんと額を合わせてみる。
「凄い熱じゃないの…」
発熱する頬にそっと手を添えながら、眉を顰めて彼の顔を再度確認しようとした――そのときである。
湿ったものがむにゅりと唇に押し当てられていた。
「! …!?」
あまり馴染みのない柔らかい感触が咥内に侵入してくる。あまりにも自然に、まるで恋人同士のそれのように。それが誰のものであるか頭で理解するのにたっぷりと十秒はかかった。
――無論、私が愛する誠二のものではない、
「んっ……ンー!」
ショックでフリーズしかけていた思考を何とかたたき起こし、力任せにぐいと胸板を押し返す。
――けれど
顔を離した折原の口元は予想に反して、笑ってはいなかった。
「う…ご、ごめ」
熱に浮かされたような顔して、こちらが責める前に謝ってくるなんてずるい。
「馬鹿。だったらなんでこんなことするの」
「あ…、なんでかな、分かんない」
折原の目はぼんやりとして今ひとつ焦点が定まっておらず、緩んだ口元からは唾液が一筋垂れ流しになっている。それを色っぽいだなんて一瞬思ってしまった私は馬鹿だ。
「もう、離れなさいよ」
どこからか募る苛立ちにまかせて再度胸を押すと、折原は苦しげに歯を食い縛った。
「ッ。な、…波江さん、そこ…らめ…あッ!」
「は?私何もしてないわよ」
「俺だってわかんな…けど、さっき変な薬飲まされ…て…、あひっ!」
「薬? 誰がそんなことを?」
「マイ…ル、が」
そこで私は存在を主張するようにつんと浮き立った折原の両胸の突起に気付き、首を傾げながらついと手を伸ばして触れた。シャツ越しに軽く撫でただけなのに、彼は眉宇を顰めて苦しそうな喘ぎ声を上げる。
「ィ、ん…!あっ、あう、あ、やめっ…あ、」
「へえ?男の人でもこういうの感じたりするのね」
面白いわ、と呟いてシャツの上から執拗に突起を捏ねる。くりくりと押しつぶすように捻ってやれば折原は口元をだらしなく開けて犬のように浅い呼吸を繰り返した。
「違っ!ひ、あン、感じてないからぁ…!」
必死の反論も虚しく、既に股間には卑猥なテントが形成されている。
「ふふ。あなた、こんな顔もできるんだ」
私は軽やかに笑いながら、涙と涎でぐちょぐちょに濡れた雇い主の顎を掴んで引き寄せた。
折原は潤んだ瞳をハッと見開き、次いで悔しそうに歪める。
「弱みでも、握ったつも…り?俺だって人間、なんだから。こんなのは、生理現象ってやつで…」
「ええ、それもそうね」
――怒った泣き顔がなかなか様になってるじゃないの。
私がそんなおかしなことを考えながらニヤリと口端をつり上げて微笑んだとき――玄関のドアがノックされた。
「イッザ兄ー!」
「げっ…」
折原が明らかに「しまった」という表情を浮かべる一方、ノックの音は回数を追ってどんどん大きくなっていく。
「開っけてー!そこに居るのは分かってるんだからねー!」
「ですって。…開けてあげたら?」
含み笑いながら腕の中を見下ろすと、紅い双眸が縋るように見つめ返してきた。
「ちょ、やだ波江さん、居ないって言って。お願いだよ…!」
「あーら、どの口がそんなことを言うのかしら?」
濡れた赤い唇を親指の腹ですうっと撫でながら問いかけると、折原はへにょりと眉尻を下げ、情けない表情になる。
「ッ…、酷いこと言わないでよ。ね…?」
上目遣いでお願いとは、さっきまで憤然とこちらを睨みつけていたくせに都合の良い奴だ。ぎゅっとしがみ付いてくる手の力強さと変わり身の早さに、私は思わず溜め息をついた。
「じゃあ…そうね。10枚で手を打つわ」
「やっ、波江さんそれぼったくり…」
「そうかしら。――無理なら身体で払ってくれてもいいのよ?」
髪を揺らして微笑みかけると、折原は赤面した顔を悔しそうに俯けた。
20100709
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