初心



「…静雄さん?」

杏里が髪を拭く手を止めてふと視線を上げると、そこには呆けたように口を開けっ放しにして立ち尽くす静雄がいた。

「いや。…わ、悪いな」

彼は少女の視線に気付くと慌てて目を逸らし、まるで言い訳でもするかのようにもごもご言った。
喧嘩人形とあだ名される日常からはまるで想像もつかぬその仕草を見て、おかしいようなくすぐったいような気持ちになる。杏里は自然と朗らかな笑顔を浮かべた。

「? いえ、気にしないでください。静雄さんがお風呂貸してくださったんですから」

それはつい半刻ほど前のこと。
学校を出ていつもの交差点で帝人と別れた後、急な夕立に遭い困っていたところでちょうど彼に出くわした。
こんな状況で声をかけるべきかと迷ったのだが、意外にも向こうから見つけて声をかけてくれた。少し前にセルティ宅で鍋を囲んだ仲だったため、向こうもこちらの顔だけは覚えてくれていたようだ。
既に髪から上半身にかけて雨を被っていた杏里を見て気遣ってくれたのか、じゃあうちに寄って行けよと勧められるままにひょっこり付いてきてしまったのだ。
――ああいうときは普通遠慮して断るべきなのだろうか。
ひょっとしたら少し悪いことをしてしまったのかもしれない、と今更ながらに杏里は思う。
図々しくも風呂を使わせてもらったばかりか彼の服まで借りてしまい、たった今まで髪の水分を拭き取っていたタオルからは柔軟剤とシトラスのシャンプーがふわりと香った。
梅雨時の蒸し暑い時期だ。
濡れ髪のまま当然のようにリビングへ顔を出した杏里に対し、女性慣れしていない静雄は目のやり場に困っていた。貸した服はなるべく小さいものを選んだつもりだったが、髪の間から覗く色白の首筋は危うい色香を放っている。
けれど自身の魅力に自覚のない杏里は、そんな些末な問題には至らない。

「あの…服、ありがとうございます。助かりました」

華奢な身体をすっぽりと包むジャージを指で引っ張って示し、その場でペコリ頭を下げた。

「! うッ、あんた…そんな下向くなって!」

「え?」

杏里が不思議に思い顔を上げると、何故か静雄の頬はうっすら赤らんでいた。
彼は困惑したように視線を彷徨わせながらぼそりと呟く。

「いや。だから、見えちまうだろうがよ。その…む――胸」

それを聞いた少女は一瞬驚いたように瞠目し、やがて嬉しそうに眇めた。

「静雄さんって優しい人なんですね」

「な、何言ってやがる…!じ、じゃあちょっとそこ座っとけ。今何か飲み物淹れるから、な!」

「あ、待ってください…」

杏里は慌てて一歩踏み出し、顔を隠し気味にキッチンの方へ入って行こうとした静雄の袖をきゅっと掴んだ。

「ん?」

静雄は足を止めて振り返る。長身の彼の場合だと、頭一つ分以上高いところから少女を見下ろす形になる。
すると、どうしたって大きすぎるジャージの襟元からキメ細やかな白い肌が丸見えになるわけで。

「うおっ!?なにいッ、ちょ、だから見えるって…!」

「? じゃあ、目をつぶっててください」

「はぁ!?」

思わず盛大に眉を顰めるも、上目遣いの円らな瞳と可憐な声でお願いされてしまっては仕方がない。大人しく従ってすっと瞼を閉ざす。
と、杏里はそんな静雄を見て柔らかな笑みを溢しつつ、カッターシャツの胸をぎゅうと握り締めて自分の元へ引き寄せながら、頬に一つキスをした。





20100707


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