君がいない



「頼むよシズちゃん、今日は見逃してー?」

「は、何言ってやがる。てめえがのこのこ池袋に顔出さなきゃ、俺だってこんなこたしねぇよ」

俺は凝った肩を一度ぐるりと回してから、ちょこまかと逃げ回る臨也めがけて抜き取った標識を投げた。

「おーらよ!」

「あっ、ちょ、しずちゃ…」

いつものように、躊躇うことなんてなかった。
最初はウザくてダルくて仕方なかった臨也との喧嘩も、今や俺の日常に組み込まれたパーツとして、習慣と呼んでも差し支えないものになっていた。
俺が怒鳴りながら手近な自販機や標識を取っては投げ、臨也は飄々とそれを避ける。いつもいつもその繰り返し、何一つ変わることなんてないはずだった。
それなのにその日、俺たちの日常は崩されてしまった。
臨也は俺の放った標識を交わしきれず、顎に食らって吹っ飛んだ。
――そんなはずはない。
俺は目の前で起こった事象を信じられずにぎょっと目を見開いたまま、二十メートル以上も離れた路面に頭から落下した宿敵を見つめた。




そして、その日を境に臨也が池袋に現れることはなくなった。




あの臨也が初めて喧嘩に負け、「調子悪いなあ」なんてへらへら笑いながらよろめく足取りで俺の前を去った日から、一月が過ぎた。
あれからあいつには会っていない。
元々連絡先など教えあうような仲じゃないから消息すら分からなかったが、多分それなりにはやってるんだろうと思っていた。仮にもし何かあれば新羅辺りから連絡が来るに違いない。
時が立つにつれて、脳裏に焼きついた臨也の弱々しい笑みは薄らいでいき、俺は罪悪感を忘れ始めていた。
――ああ。今思えば、俺はなんて冷酷な人間だったんだろう。
心配よりも億劫だという理由で、見舞いにすら行ってやらなかった。未だにあいつをぶちのめしてしまったことが信じられなかったというのもあったし、会ってかける言葉なんて思いつかなかった。もう「ごめん」なんて、素直に言える歳でも、そういう間柄でもなかった。
およそ一月後のその日、俺は取立ての仕事を終えた帰りに上司や同僚と夕食を共にした。
食事を済ませ、三人で店を出て飲食店の駐車場にとめたトムさんの車に乗り込もうとしたときのことだ。数十メートル離れたほの明るい街灯の下、歩道をゆっくりと歩いていく人影が何となく目に留まった。

「何か異常ですか、シズオ?」

先に座席についていたヴァローナが不思議そうに俺を見上げる。

「あ、いや…」

そんなことがあるのだろうか。
まるでゆっくりと老人のようなスピードで進んでいくその男のシルエットは、あいつに酷似していた。

「悪い。先帰っててくれ」

「え?ちょっと、静雄?」

トムさんが運転席の窓を開けて何か言うのが聞こえたが、俺はすみませんとだけ叫ぶように告げて駆け出した。

「なあ、おい!待てよ!」

距離に反してあっという間に追いついてしまったことを意外に感じながらも、俺は大声でそいつを呼び止めた。
その男は足を止めると、案外俊敏な動作ですっと振り返った。

「イザ…」

硬くて真っ直ぐな黒髪、男にしては白い肌に赤い双眸。夜道には相応しくない黒いコートに身を包んでいる。
その姿かたちは正真正銘、俺が何年もいがみ合ってきた折原臨也そのものだった。

「ええっと…誰ですか?」

薄い唇の紡ぎ出した言葉は、まるで電撃のように俺の胸を打ちのめした。
シルエットを目にしたときから何となく違和感には気付いていた。けれど直視することができない。認めてしまうことを脳が拒んでいた。

「あの…用がないなら俺もう行きますけど?」

かりかりとアルファルトをこする白い杖。
俺はごくりと息を飲みつつ一旦逸らしかけた視線を戻す。
臨也の白い顔は確かにこちらに向けられているけれど、その目は焦点を結んでいなかった。

「じゃあ俺はこれで…、」

「ま、待て…待ってくれ!」

俺は咄嗟に前に踏み出し、くるりと背を向けようとした臨也の手を掴んだ。
掴んだだけで、別段その後どうしようかなんて考えちゃいなかった。何も、ない。この一月の間一つも思い浮かばなかったように、かけるべき言葉が突然出てくるはずもない。

「何?…ちょっと、離し――」

「――臨也、」

臨也の唇が震えたのを見たそのとき、俺は一瞬にして、最早謝罪すら意味を成さないことを知ってしまった。
虚ろな赤い瞳には俺が大きく映り込んでいたが、その映像をこいつは見ていないのだろう。そう思うと俺の胸はまた苦しくなった。一ヶ月間連絡も寄越さず訴えることもしなかったこいつが、一度も俺を責めなかったわけがない。だって、今まであんなにいがみあっていたのだ。

「臨也…いざ、や」

「――シズ、ちゃん」

俺の声に頷きながら放心したように呟いた臨也の頬を、すーっと透明なものが落ちていく。そこにあるのは多分、怒りでも憎しみでもなかった。





20101012
これ、失明ネタって分かるよね?


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -