わん。
その一声と共にそれはソラの前に現れた。
小さな街で物資の調達をしている時のことだ。
店の外でレンを待っている最中、大きな白い犬がいつの間にかそばにいた。
「……おっきな犬……」
白い犬は最初に一回吠えて以降、大人しくソラのそばで静かに座っている。
「……こ、こんにちは」
そう言ってしゃがみ込み、ソラはおずおずと白い犬へと手を差し出してみる。
白い犬は一度、ソラの手を嗅ぐような仕草をした後、ゆっくりと体を擦り寄せてきた。
その尻尾は左右に揺れている。
「……」
少しだけ考えた後、そっとその真っ白な体に手を乗せてみる。
ふわふわとした触り心地にソラの表情は自然と緩む。
「可愛い…!」
「何してんだ、ソラ」
「あ、レン」
わしゃわしゃと撫で回していたその時、後ろから声を掛けられて振り返る。
用事を終えたらしいレンがそこには立っていた。
「…犬?」
「気付いたら近くにいたの。人懐っこい子だよ」
そう言って再びソラは白い犬を撫で回す。
無邪気なその姿はまるで子供のようだ。
「ほどほどにしてやれよ……ん?」
肩を竦めつつ暫くその様子を眺めていると、ふと白い犬の首辺りから細い紐が微かに見えていることに気付いた。
「ソラ、そいつ首に何かつけてないか?」
「え?…あ、ほんとだ。ちょっと見せてね…えっと…木の、札?」
ソラが白い犬の首元に手を回して見つけたのは薄汚れた木で出来た札。
どうやら野良ではないようだ。
名前が書いてないかな、とソラはその木の札を熱心に眺める。
そして見つけた。
「『イイ シラセ アリマス』って書いてあるよ。…なんだろ、お店の宣伝とか?」
「え…」
「? レン?」
不可解な文章に対し、どこか驚いたようなレンの反応にソラは不思議そうに首を傾げる。
すると突然、白い犬が顔をあげたかと思えば、するりとソラから離れていき、そのまま何処かへと歩き出した。
「あ…飼い主さんのところに戻るのかな?」
「追いかけるぞ」
「…ん?…え!?」
少しだけ名残惜しく感じていたところにレンから告げられた予想外の発言にソラは一瞬自分の耳を疑った。
自分はともかくレンがそんなことを言うなんて何が起こったのか。
答えがわからないまま、すでに歩き出していたレンをソラも慌てて追いかけた。
そうやって追いかけ始めて、早数十分。
白い犬は街のあらゆるところを歩き回っていた。
人気のない石畳の通路、どこかの店の裏手、数多の洗濯物が干された細い路地、色とりどりの綺麗な花を咲かせた庭の横。
見失わない、それでも決して追いつけない速度で白い犬は先を行く。
案内してるのか、逃げてるのか、それともただ気まぐれに動いているだけなのか、ソラには分からない。
レンに対してもなぜ追いかけてるのか聞けないままでいるのでその考えは分からないままだった。
だがしかし、思いがけない冒険にソラは心躍らせていた。
例えこれが意味のないことだったとしても、ソラにとっては十分だった。
やがて白い犬は人のいない、建物同士の隙間の通路に入り込む。
狭い路を抜けると、あったのは猫の額ほどの空き地。
建物に囲まれ薄暗い空間の中でぽっかりと穴が空いたようにその部分だけ日の光が差している。
そこに、小さな露店があった。
様々な種類の野菜や果物が木箱に入って並べられていて、木箱の向こう側では恰幅のいい男性が一人、木箱の一つを椅子代わりに座って野菜の汚れを落としていた。
白い犬は当然のようにそこに向かうと、自分の役目は終わったとでもいうように店主の横で伏せる。
どうやら目的地はここだったようだ。
レンはずっと黙ったまま露店の方を見ている。
レンとソラの存在に気付いた店主からいらっしゃいと声を掛けられた。
「こんにちは、旅人さんかな」
「…ああ」
「こんにちは。えっと、この子は店主さんのところの子ですか?」
白い犬の方に目をやりながらソラが尋ねると店主は頷く。
「そうだよ。私の相棒なんだ」
店主の言葉に応えるように目を伏せ寛いでいる白い犬の尻尾が左右に緩く揺れる。
その様子にソラは小さく微笑む。
「この子に案内してもらったのかな。よかったら見ていくといい。それなりに良いものを置いているよ」
特に買い物があったわけじゃないが、せっかくだし、とソラは並べられた木箱を順に見ていく。
そのうちソラの目が輝きを増していった。
「すごい、どれも新鮮で美味しそうなやつだよ!」
どれも色が濃くて艶があって、ずっしりと実が詰まっているように見える。
感激した様子のソラをレンは不思議そうに見つめる。
「分かるものなのか?」
「うん、教えてもらったことがあって」
「へぇ…どんなのが美味しいのかなんて気にしたことなかったな」
「ほら、これとか、ヘタの色がしっかりとした緑色でピンとしてるでしょ?美味しい証なんだって」
木箱から一つ手に取り、楽しそうに語るソラに対して、流石だな、と呆れたような感心したような表情でレンは返した。
「ね、少しだけ買ってもいい?今日の夜には使うから」
「…ま、いいよ。そっちは任せる」
「そっちは?」
「ああ、あともう一つ欲しいものがあって」
他に何かあるのだろうかと首を傾げるソラを横目にレンは再び店主の方を真っ直ぐ見据える。
店主も黙ったままレンを見る。
「あんたが持ってる情報も売ってもらいたい」
「え…」
その言葉に目を丸くするソラとは対照的に店主の口元はにやりと弧を描いた。
それからしばらくして。
買い物を終えて野菜が入った紙袋と次の街までの有益な情報を手に2人は最初の通りの方まで戻っていた。
「思わぬ収穫だったな」
「もー!一体何がどうなってるのかいい加減教えてくれるよね?」
ただの露店ではなかったらしい事実に驚かされたソラはレンに少し怒ったように詰め寄った。
悪い、と軽く謝ってからレンは説明をする。
「噂を聞いたことがあったんだよ」
「噂?」
「この街に凄腕の情報屋がいるって。その情報はかなり正確で多少高くても買う価値があるって言われてる。でもどこにいるかは分からない。犬が案内をしているらしいが、少しでも怪しまれると絶対辿り着けないとか」
「それが、あの店主さん…」
そんな秘密があったなんて、とソラは改めて驚いた。
確かにあんなに複雑で入り組んだ場所を転々とされては街の地形に慣れていない者が見つけるにはなかなか難しいだろう。
白い犬に案内させるのは一種の試験なのかもしれない。
「必死になって探す気はなかったし、犬すら見つけることはないだろうなと思ってたから俺も驚いた」
「通りでレンが追いかけるなんて珍しい選択すると思ったよ」
楽しかったからいいけど、と軽口を叩くソラにレンは肩を竦めた。
ふと、わん、と近くで吠える声が聞こえてレンとソラは揃って振り返る。
そこには店主の相棒である白い犬が再び2人の前にいた。
「お見送りに来てくれたのかな」
「かもな」
近くまでやってきた白い犬をソラはしゃがんで嬉しそうに撫で回す。
白い犬もぶんぶんと尻尾を左右に揺らす。
「……ソラがいなかったらそいつが案内してくれることもなかったかもな」
「え、そんなことないよ」
「そうか?」
怪訝そうなレンの声に白い犬が反応したように顔を上げた。
ソラから離れ、レンの左手を嗅いだかと思えばぐいぐいと頭を押し付けてくる。
撫でろということらしい。
「……分かったよ」
観念したようにその頭をそっと撫でてやれば、尻尾は嬉しそうに左右に揺れた。
ほらやっぱり。
その様子を見たソラはそう思いながら微笑む。
「レンだけでも案内してくれたと思うよ?」
「…なんでそう思うんだ?」
「だってこの子はちゃんとレンが優しい人だって見抜いてるから」
その言葉にレンは微かに瞠目した後、複雑そうな表情で黙る。
納得いってないのだろう。
ほんとなのにね、とソラが楽しげに笑えば、白い犬は同意するように一声吠えたのだった。