大島教授は理系の学生の間では人気の人だということは知っていた。
授業は人気で、研究室に所属したいと希望する学生が毎年多数いるという。
結果、自然と成績上位者が集まるということも。
文系の学部にいる私は教授の授業を受ける機会はなく、蓮先輩の伯父にあたるというその人と実際に会って話すのは今回が初めてだった。
だから白衣を着た彼の姿を見た時、驚きの声をあげなかった自分を褒めたいと思う。
「初めまして」
そう言ってにこりと人当たりの良い笑みを浮かべた彼に慌てて頭を下げる。
「は、初めまして、大島教授。飯橋空と言います」
「よろしく。空さん、って呼んでもいい?」
「は、はい」
少しだけ緊張しながら改めて教授を見た。
蓮先輩の年齢からして少なくとも四十は超えてるはずなのに、その見た目はせいぜい二十代。下手すれば十代に見える。
しかし、その雰囲気は無邪気な少年のようにも、落ち着いた老人のようにも感じて不思議だ。
呆然と見ていると教授はくすくすと笑う。
「蓮と付き合ってくれてるだってね」
「いえ!私が付き合ってもらってるんです!」
「いや…二人とも言い方が可笑しいから」
呆れた表情でやり取りを眺めていた蓮先輩に突っ込まれた。
今日は大島教授の研究室にお邪魔している。
なんでも、私を連れて来てよと教授が駄々をこねるから(蓮先輩談だから実際はどうかは分からない)人がいない時間に少しだけ会うことになったのだ。
「えっと…会えて嬉しいです。私は学部が違うから受けたことないけど…大島教授の授業面白いって理系の友達が言ってたので、どんな方か気になってたんです」
「そうなの?それは光栄だな。あ、そうだ蓮」
突然、教授は蓮先輩へと顔を向けた。
急な呼びかけに先輩も首を傾げる。
「喉乾いたよね。何か買って来るでしょ?」
はい、とどこかから取り出した千円札を渡しながらなんの悪びれもなく話す。
その表情は清々しいまでの笑顔だ。
対照的に蓮先輩の表情は一気に険しくなる。
「……別に乾いてないし、行くとも言ってないんだけど?」
「行ってくるだろ?空さんは何飲む?」
「え…!?」
蓮先輩の文句も何処吹く風といった様子で私がむしろ戸惑ってしまう。
しばらくして先輩は大きなため息を吐く。
「幸せ逃げるよ?」
「大抵はあんたのせいでな……空、何か買ってくるけど何がいい?」
「え、あ、じゃあ紅茶で」
聞かれるがままに答え、お金を渡さなきゃいけないと気付いて財布を取り出そうとしたら、この人に奢られとけ、と先輩に止められる。
教授はいってらっしゃいとどこか呑気に手を振り、既に見送る体勢だ。
その姿に再びため息を吐き、先輩は研究室を一度出ていった。
大変そうだなぁ、と他人事のように思いながら先輩が出ていったドアを私は見つめた。
そして再び教授に向き直ると頭を下げる。
「あの、ありがとうございます」
「構わないよ。それにしてもさ、」
一度言葉を区切ると、そっと楽しげにその目が細められた。
「そうかなとは思ったけど…やっぱりあいつが好きになる子は君しかいないんだね、ソラ」
「…!」
その言葉に私は目を見開く。
全てを見透かしたようなその口振りはまるで。
「教授…記憶…」
「うん、あるよ。君と同じようにね」
さも当然のようにあっさりと話す教授に私の理解が追いつかない。
「なんで、私もあるって…」
「あんなに驚いた顔されたら分かるさ」
相変わらず分かりやすいね、と笑われる。
…そんなに顔に出てたんだろうか。
いやでも驚くに決まってる。
だって、一目見ただけではっきり分かるくらい変わってなかったから。
レンにとっての恩人であるその人と。
そんな人が今世で先輩の親族としているだけでも驚くというのに、記憶まであると言われたら混乱したって仕方ないと思う。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です…えっと、だから私に会いたかったんですか?」
「いや、それはただの興味本位。可愛い甥っ子に彼女が出来たって聞いたら伯父として気になるでしょ」
平然とした顔で言われて、これが冗談なのか本気なのか私には図りかねる。
「まぁ…ソラもそれなりに楽しく過ごせてるみたいで安心したよ」
ありがとね、レンを探してくれて。
その言葉とともに教授は優しげに微笑む。
やっぱり全て見透かされてるみたいだ。
嬉しさで胸がいっぱいになりながら、私は首を振る。
「私が探したかったんです。あの、蓮先輩は記憶…」
「なかったね。だけど、ソラのことは思い出したんだろ?」
「…はい。でも多分、教授が言ったらそれをきっかけに思い出してくれるんじゃないかと思うんです」
蓮先輩の前世の記憶は断片的だ。
だから、教授の姿を見ていても何も言っていなかった。思い出してないんだろう。
自分にとっての恩人がこんなにも近くにいるのに。
「別にいいんだよ」
「え…?」
「前世を全部思い出す必要もない。この記憶は今の蓮にはいらないものだ」
思い出した時の蓮の顔は少し気になるけど、と教授は笑う。
はっきりとしたその明確な意思は、蓮先輩が恩人のことを思い出すことはないと私に確信させた。
「空さん」
唐突に名前を呼ばれ私は驚いたように顔を上げる。
「蓮をよろしく頼むね」
「!」
告げられた言葉はあの時と同じものだ。
「はい」
あの時と同じように、いやそれ以上にはっきりとそう返事をするとやっぱり楽しげにその目は細められた。
すると、教授はちらりと時計に目をやり、そろそろ蓮が戻ってくるなと呟く。
「この話、蓮には内緒ね」
口元に人差し指をあてて、悪戯っ子のような笑みを浮かべる教授に私は静かに頷いた。
その直後に研究室のドアが開き、蓮先輩が入ってくる。
「おかえり」
「…ん」
蓮先輩はぶっきらぼうに返事をすると教授へ買って来た飲み物とお釣りを渡す。
私にも紅茶をくれた。
「わ、一番高いやつ買ったな。お釣りほとんどない」
「何も言われてないから何を買おうが自由だろ?」
「仕返しのつもり?駄目だよ、教授の意図は例え本人が言わなくても分からなきゃ」
「一番分かりかねる人が何言ってんだか……何笑ってんだ、空?」
やり取りに思わず笑ってしまったら、蓮先輩に呆れた目を向けられる。
「仲が良いなって思って」
笑って率直な感想を言えば、眉を寄せられた。
でも、間違ってないと思う。
「お邪魔しました」
「また来なよ。今度は蓮の小さい頃の話でもしてあげる」
「余計なこと言わないで貰えるか?教授」
うわぁ、すごい気になる。
今度こっそり教えてもらおう。
蓮先輩の反応に教授は肩を竦めると、最初と同じように人当たりの良い笑みを浮かべてドアまで見送ってくれた。
「じゃあね」
「ありがとうございました」
だけど、と部屋を出る直前にふとした気持ちが引っかかる。
教授は本当に先輩に思い出してもらわなくていいんだろうかと。
これは教授の問題だから私が口を出すことじゃない。
確かに思い出さなくていい記憶だってある。
でも、教授との出来事はそうじゃないと、私は思う。
寂しく、ないのかな。
少しだけ気になって教授の方を振り返るとその瞳と目があう。
教授は私を見て綺麗に笑った。
その唇がゆっくりと動く。
「Das ist mir Wurst.」
その言葉を最後にパタンとドアが閉まった。
綺麗な発音で綴られた言葉は日本語じゃない。きっと、ドイツ語。
そして、私に向けられた言葉だ。
「…なんで今それ?」
閉められたドアを見ながら蓮先輩は怪訝そうにそう呟いた。
ドイツ語の言葉の意味が分かったんだろう。
「どういう意味の言葉だったんですか?」
「あー…直訳すると『僕にとってはソーセージ』でも、会話に使うと意味が違って…」
確か、と蓮先輩は話を続ける。
「『そんなこと僕にはどうでもいいことだ』」
「!」
私は目を見開いた。
それははっきりとした私の疑問への『答え』だ。
そっか、と納得する。
彼にとっては思い出しても、思い出さなくても変わらない。
変わらない立場で、蓮先輩のことをこれからも彼なりに見守っていくんだろう。
思わず笑みが溢れる。
「空?」
「ねぇ、蓮先輩。先輩は教授のこと尊敬してますか?」
突然の私の問いに先輩は微かに目を丸くする。
しかし、その答えは言い淀むことも躊躇うこともなかった。
「尊敬はしてるよ」
性格は問題ありだと思うけど、と続ける先輩は素直じゃない。
生まれ変わっても、変わらない関係になれるのは素敵だなと思った。
ーーーー*
花風番外編?です
教授もとい蓮の伯父さんとの話ですね。
ノリと勢いで書き始めた結果、思いっきり本編のネタバレになってることに気付いてぼかしにぼかしまくりました、が意味がない気がします
もはやしょうがないね(開き直り)
タイトルは作中で蓮が説明した通り
ドイツのことわざとか使わせたいと調べましたが、ちょっとジョークっぽいのが彼らしいかなと
一応ドイツ人とのハーフだしタイトルもドイツ語がいいよね、みたいな感覚でいきました。花風本編のタイトル英語なのにね
もし、蓮が思い出す時が来るとしてもそれは教授と今世では永遠に会えなくなる時だと思います
それさえも彼は分かってるのかもしれませんが