Lily bell | ナノ

ゆるやかに毒


「…じゃあ行ってくる。この時間帯は特に何かあったわけじゃないが…無用心にあちこち歩き回らないでくれ。…ああ、それからあの金髪の…セシル教官には気をつけてくれ。あの人は何を考えているかわからない」
「…は、はあい…」


窓の外は雲ひとつ見えない良い天気だ。換気のため、と開け放った窓からは清々しい緩やかな風が朝日の香りを運んでくる。

手触りの良い藍色の生地を慣れた手つきで右肩に引っ掛けたマグナスが念を押すようにナマエに言って聞かせる。本日何度目なのかわからない注意事項にナマエは苦笑いを浮かべて見せるとやっと満足したのかそれでもわざとらしく大きくため息を吐き出してくるりと背を向けた。


「あ、マ、マグナス…さん!」
「…"さん"はいらない」
「じゃあマグナスくん」
「…まあいいよ。それで?」
「三つ編みしないん…ですか?」


"くん"付けに納得いかなかったのかなんなのかあからさまに眉間に皺を寄せたマグナスにびくつきつつも無造作にただ結ばれただけの右に垂れ下がる藍色の髪を指差した。が、


「…?何故?」
「あ、う、ううん!なんとなくそのままよりはまとまっていた方がいいかなって…」
「面倒臭いんだ」


首を傾げたマグナスにナマエも釣られて首をかしげながら問うが、触れて欲しくないのだろうか。ぶっきらぼうに言い放つとすぐにまた背を向けて歩いていってしまった。

…それにしても未だに半信半疑でいる。自分が幼い頃からずっと焦がれて仕方なかった物語の世界でこうして今生活を送っている事が。

ナマエが居るこの場所は全寮制のイシュカ士官学校だという。物語の中で見ていたマグナスよりいくらか見た目が若い気がしていたがそういうことだったのか。マグナスとこの士官学校の教官だという金髪の男性にあれこれと教わって納得した。

ここは、ナマエが知る物語が始まる前の時代だ。


「………今、皆勉強中なんやんな。……うん、誰も居ない」


マグナスに怪訝な表情を向けられるのが嫌で気を付けていた方言がついぽろりと零れる。

部屋の扉を頭が通るくらいの幅だけ開けて廊下を確認する。しんと静まり返った廊下はこの建物が古い創りだからだろうか。左右に広がる廊下のどちらの先を見ても薄暗くふるり、と体が震えた。


「でも行かんと…一応確認しておきたいし…」


マグナスの部屋には鏡が無い。あちこち探してみようとも思ったが他人の部屋を荒らすなんて趣味の悪いことはしたくなかった。そもそも、荒らすほど物が置かれている様子もない。手っ取り早くトイレへ行けば鏡でなくともそれに変わるものが置いてある筈だ。

ざっと自分で確認できるところは確認を済ませてある。着ている服は数日前に買ったばかりの一目ぼれして買ったお気に入りの服だ。そこは大して気にはしていない。気になったのは髪の長さで、確かに胸元の辺りまであった髪は肩に届くか届かないかの位置まで縮んでいたのだ。

加えて昨日成人はとっくに迎えているという自分の主張を金髪の男性とマグナスが決して理解してくれなかったことに疑問を覚えた。


「外国の人に比べて多少幼く見えると言ってもさすがに10代半ばはおかしいよ…」


この学校の入学に必要な年齢はいくつかはわからないが昨日金髪の男性…セシル教官は自分のことを『新入生』か、と問いかけてきたということは彼らにとって自分がその辺りの年齢に見られているということだ。

髪型や長さのことも確認が出来れば何かわかるかもしれない。履いていた靴のヒールが地面を蹴れば薄暗闇に広がる廊下にカツン、と音を立てて響いていく。マグナスの部屋があるこの仕官学生専用の寮にいる生徒達は皆それぞれ授業に出ていてこの寮内にはいないとわかっているがあちらこちらで微かな音がするたび体がびくついてしまう。

もしマグナス以外の生徒に出会ったら自分は何と言えばいいのだろう。生徒ならまだ言い逃れが聞くかもしれないが、昨日のセシルのような教官に出会ってしまえば間違いなく自分はここから放り出されかねない。変える場所のないナマエにそれはどうしても避けたかった。


「…君は…何をしているんだ?」
「は、…ひっ!?」


廊下でひとり悶々と唸り声を上げながら考えているナマエに、物音もなく背後から男性の声がしてすぐにぽん、と両肩に大きな手が乗せられて全身が跳ね上がった。必死で視線を巡らせるがどこにも隠れる場所がなく恐る恐る首だけ振り返ると、薄暗闇のせいで見えないがぼんやりと宝石のような丸い飾りを散りばめた金髪の髪が浮かび上がってすぐ、セシルの姿が見えた。


「……セ、シルきょう、かん…?」
「そうだが…何をそんなびくびくしているんだ?」


体を屈めて顔を覗き込んでくるセシルに一歩下がる。緊張からか強張った表情で身構えるナマエにセシルは「マグナスか」とだけ言って困ったように一瞬眉をハの字にして苦笑を浮かべた。顔を覗き込むのをやめて背筋を伸ばすとぽんぽんと豪快に頭を撫でてナマエが向かおうとしていた先に目を向ける。

薄暗闇の先、当然のことながら既に校内の地図が頭の中に入っているセシルは何があったかを思い出す。目の前で冷や汗を流しながらわたわたと逃げ出そうとあちこち見渡している彼女に気付かれないように噴出した。


「なんだ、手洗いに行きたかったのか。すまん、タイミング悪かった」
「あ、い、いえ!違います!ただ寮の中を把握しておきたかっただけです!」


妙な誤解をされたくないと慌てて声を荒げたナマエについに我慢できなくなったらしいセシルが喉の奥を鳴らしてクツクツ笑い出した。彼の態度にからかわれたのだと理解したナマエが真っ赤な顔で抗議しようとすると、それをわかっていたのか真っ赤な顔の彼女の前に片手を出すと一度気分を落ち着けるために深呼吸をした。

だいぶ落ち着いたらしい。ふう、と一頻り笑った後のため息を吐き出すと、まだ顔を赤くしたまま怒りを表しているナマエの手首を強引に掴むとそのままわき目も振らずに歩き出した。


「え、ちょ、な…っ!?ど、どこに行かは…っ!行くんですか!」


よろよろと大股で歩くセシル教官に腕を引かれているせいでふらつく足を何とか転ばないようにして付いていく。背の高いセシルを見上げながら言うと一度だけ横目で振り返った彼はただにこりとだけ微笑んだ。彼が何を言いたいのかがわからず首を傾げつつ抵抗も無駄だと諦めて付いていく。

廊下を真っ直ぐ進み生徒達の部屋のドアが並んだ場所から少し離れた所にトイレを見つけた。セシルの用事が済んだら時間を見てここに来ようと密かに決意した矢先、突き当りに立てかけられた鏡を見つけた。


「………っ、」


大股で歩くセシルのせいでしっかりとは見ることが出来なかったが、鏡の前で睨めっこしたせいですっかり見慣れた今の自分より多少の違和感を感じた。遠くてしっかりと確認を取ることはできなかったが、なんとなく。

廊下の突き当りを左に曲がり、階段が目の前に広がった。セシルに手首を掴まれたまま階段を降りていく。もう少しペースを緩めてくれと要求しようとしたところで足がもたついてしまった。


「セ…ッ…っ、わ……ぁっ!」


階段を一段踏み外して一気に前屈みになる。ぐっと近くなるセシルの金の頭の横を受身を取るために伸ばした腕がすり抜ける。転ぶ、そう感じた瞬間ナマエの視界の全てはスローモーションでコマ送りされだす。目を閉じようとした瞬間、目の前に立っていたセシルがゆっくりとこちらに振り返ったのが見えてすぐぼすん、という音と共に顔面に痛みが走った。


「ふう…危ないな。何をしているんだ、ナマエ」
「……ごめんなさい…。セシル教官歩くの早いから…」


緩やかに伝わる振動とくぐもったようなセシルの声に抱きとめられたのだとすぐに理解したナマエが慌てて顔を起こすと困ったように笑みを零すセシルと目が合った。何も言えずに固まっていると「どこも怪我はしていないな」といいながらざっとあちこち確認されて最後にぽんぽんと頭を優しく叩かれた。


「すまない、君にあちこち見せて回ろうと思ったら気持ちが急いてしまったようだ。以後気をつけるよ」
「いえ、わたしも…っ痛、」
「どうした?怪我でもしているのか?」


再び手を掴もうとしたセシル教官に付いていくから大丈夫だ、と伝えるために胸の前で両手を出そうとして走った痛みにナマエは表情を歪めた。先程どこかを痛めたのでは、と数段上に立つナマエの顔を覗き込んでくるセシルを気にせず痛みの走った手首を見やると、思っていた以上に青く変色していた。

ぐるりと両手首とも一蹴するようにして青く染まっているそこにセシルは思わず「うわあ」と声を上げた。「うわあ」とは何だ、と横目に睨みながらじんじんといつまでも尾を引く痛みを落ち着かせるように摩ってやる。

ひょっとしなくてもこれは昨日の痕だ。赤く腫れてはいたが一晩寝れば何とかなるだろうと思っていたナマエの予想を無視してそこは青く変色を遂げてしまっている。

改めて一呼吸置いたセシルから治療を申し出られたが丁重にお断りしておいた。授業を終えて帰ってきたマグナスに気付かれたくなかったからだ。幸い着ていた服が長袖だったことで普通にしていれば気付かれなくて済みそうだ。


「嬉しそうだな」
「…はッ!?…へ!?……えッ?!」


手首を一蹴する青く変色した痣をまじまじと見つめているナマエを不振そうに、でもどこか面白そうな様子で覗き込んできたセシルに彼女の心臓がどきりと跳ね上がった。


「違います!!痛いなーって思っただけです!」


手首の痣を長袖で隠して片手で摩りながら言い放つナマエに、わざとらしくじと目で「ほーん??」と言ってにやつくセシル。もう既にいろいろと見破られてしまっているような彼にこれ以上傍に居てはいけない、と本能が察知して踵を返すがすぐさまがしりと肩をつかまれてしまった。

カツン!ぐらついた体を支えるために仕方なくとはいえ一際大きく階段と、廊下中に響き渡った自らのヒールの音にナマエはしまった、と慌てて口を両手で塞いだ。

セシルの勢いに負けてすっかり忘れていたが今はマグナスの部屋から抜け出して廊下を暫く歩いた先の階段だ。もしも誰かが自室で休んでいたとして自分の叫び声や物音でこちらにやって来たら。すぐ傍にセシルはいるが、彼は何を考えているのかわからず信用することが出来ない。


「待った待った。あちこち見せて回りたい、と言っただろう。まだ帰すつもりはないよ」
「…い、いやです。離してください。わたし、帰ります…」
「だーめ」
「帰ります」
「嫌だ」
「勘弁してください…!」


こうなったら話を聞かず帰ってしまう他ない。「嫌だ」の一点張りを貫き通しかねないセシルに肩を竦めながらナマエがその場から何とかして逃げ切る方法を頭で考えるが何も浮かばない。士官学校の教官というのだから走って逃げる、なんていう体力勝負は運動の嫌いな自分が到底叶うはずがない。

それでも、授業から帰ってきたマグナスにこれ以上迷惑をかけるわけには行かない。一方のセシルはと言えば必死に逃げる方法を思案しているナマエに笑いを堪えながら持ち上がって行く口の端を空いた方の手で隠しながら最終手段に出た。


「この時間は生徒達が"訓練"に出ているんだ」
「く…訓、練…」


ナマエの喉がごくり、と鳴ったのをセシルは聞き逃さない。


「訓練というよりは"稽古"かな?彼は頭もいいが剣の腕もなかなかのものだ。次々と向かってくる生徒達を一瞬で負かす姿は教官の俺から見ても関心するほど、なんだがナァ…?」
「………それはマグナスくん本人が見ても良いって言ってから」
「俺はマグナス、なんて一言も口にしていないけれどね」
「!!」


驚きで体ごと振り返るナマエをニヤニヤと見つめるセシルは実に楽しそうな顔をしている。

やられてしまった。あまりにも自然すぎて気付かなかった。数秒前の自分を殴りたくなる。どうしてこんな単純なことに引っかかるのか。がっくりと肩を落とし逃げる気力さえも失ったナマエを見てそれはそれは楽しそうに手を引いて歩き出すセシルは実に清々しい表情で颯爽と階段を下りて行った。


* * *


軽い足取りで階段を下りていくセシルとは裏腹に重い足取りで引きずられるようにして階段を降りきったナマエ。

すぐに今度は右に曲がるとマグナスや他の生徒達の部屋への扉が並んでいた廊下と同じ造りになった場所が広がっていた。先程までセシルとナマエが居た静かな廊下とは違いこちらの廊下はどこか騒がしい。松明の火がチリチリと音を立てて煌いている。

ふわふわとなにやら足元が柔らかく視線を落とすと寮の廊下にはなかった真っ赤な絨毯が敷いてある。端には金の糸で飾られたそれは見るからに豪華で堂々と踏んで歩いていいものかと戸惑うほどだった。

くすくすと相変わらずこちらを見ては楽しそうに笑っているセシルに「何をしているんだい?」と問われて顔が熱くなる。意を決して柔らかく真っ赤な絨毯に足を乗せると今度は遠くの方で鉄のような金属のような交わる音が微かにナマエの耳をくすぐった。


「この音…」
「ああ、もう始まっているみたいだな。…こっちだ」


手首を掴まないよう気を使ってくれたのだろうか、セシルは先程よりも優しくナマエの腕を掴むと少しこちらに気を使いながら足早に歩き出した。

真っ赤な絨毯の敷かれた廊下を過ぎると底は吹き抜けの廊下になっている。今は授業や抗議で姿を見かけないが、休憩時間にもなればここをたくさんの生徒達が行き来するのだろうかとセシルに腕を引かれたままナマエは思わずほう、とため息を吐き出した。

吹き抜けの廊下を抜けてすぐ、中庭へ続く渡り廊下へと移動したナマエの耳に届く金属のぶつかり合う音が次第に大きくなる。


「ああよかった。間に合った」


セシルの立ち止まった場所に並んでその視線の先を見る。広い中庭の端で円を描くようにたくさんの生徒達がいる。彼らは静かに集中した様子で一転を見つめていた。

そこをぐるりと囲うように植えられている木々のせいでよくは見えないが、金属のぶつかり合う音はあの生徒達の視線の先でしているようだ。見たい。その先にマグナスが居るというのであればなおのこと。

隣に居るセシルにはその様子が見えるらしい。「ほう」やら「やはりさすがだな」となにやら楽しそうに言葉を漏らしている。

周りを囲う木々が絶妙な高さでナマエの視界を邪魔するせいでどこに移動しても見えない。どうにかならないものかと考えた末に渡り廊下の柱を掴んで出来る限り背伸びすることにしたナマエがやっとの思いでその光景を目にする頃には大方決着が付きかけた頃だった。


「あれは…―――」


マグナスの向かいで肩を揺らしている金の髪を後ろで緩く三つ編みでまとめた少女の姿を見てナマエの息が詰まった。レイア・シルヴィスだ。

物語の中でマグナスの士官学校終業式後に南部でゴデスラスとアリオーッシュの話を聞いていた姿を覚えている。同じ仕官学生だろうとは思っていたがこんな昔から剣を交えて互角に戦っていた仲だとは思わなかった。


「彼女の腕もなかなかいいね。東部のお嬢様と聞いていたがなかなか…。それになかなかの美少女だ」


顎に手を当ててまじまじと彼女を見つめるセシルにナマエはただ苦笑いを浮かべた。物語の中で彼女を目にするたびに思ってはいたのだが実際にこうして目の当たりにして思い知らされる。

絶世の美女、とは彼女のことを言うのではないだろうか。

揺れる金の三つ編みに見惚れていると、ガギィンという今まで聞こえていたそれとはまた違った激しい音が聞こえてきた。空中を高く舞うレイアの長い槍がひゅん、と空を切る音が数回響いて地面に付きたてられた。

すぐさま「そこまで!」とマグナスでもセシルでもない男性の声が響く。腰の鞘に剣をしまったマグナスが地面に突き刺さった槍を抜いてやってきたレイアに向かって浅く一礼をするとレイアが一礼をするのに目もくれずすぐに踵を返した。

これで訓練はおしまいなのだろうか。生徒達を見れば片付けに取り掛かっているものちらほらと見かける。それならば、見つかる前に早くこの場を抜け出さなくてはならない。セシルの服の裾を引張って「もう帰りたい」の合図を送って見せたがそんなことなど知ったことかといった様子でその場から動かないセシルにナマエは焦った。

それどころか「おー…」と零して拍手までしているではないか。血の気が引く、とはまさにこの事だ。このままでは生徒達に気付かれかねない。ナマエは慌てて体を引っ込めようとしたが既に遅かったらしい。数人の生徒達と、更にその奥に居るマグナスと目が合ってしまった。

あれだけ何度も念を押されてというのに。これ以上他の生徒達に自分の姿を見られてはならない、と慌てて来た道をひとりでも引き返そうとしたしたナマエのすぐ横に既に移動していた生徒がまじまじと見つめていた。


「女の子!新入生?珍しい服着てるね!名前は?いくつ?」
「え?!あ、…あのっ、えっと…!!!」


矢継ぎ早に質問を繰り出してくる元気いっぱいの男の子がにこやかに、しかしぐいぐいと距離を縮めてくる。

どう答えていいかわからずしどろもどろになりながらも横目でセシル教官を睨むが、彼もまた別の生徒達に囲まれて質問攻めに合っているようだ。これでは助けてもらえない。何とか抜け出す手を考えているナマエに生徒達の隙間からやっとの思いでこちらに視線を向けたセシルは精一杯の笑顔を浮かべて口を開いた。


「服装のせいかな…。まさかこんなに目立つとは。すまん、ナマエ」


言って生徒達の波に飲まれていくセシルをその目に焼き付けながらナマエは彼を少しでも信用して付いていってしまった自分を激しく恨んだ。

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