クランベリー・ラブ | ナノ



いつもより少しだけ早く目が覚めたナマエは時計を見つめてため息を吐き出した。いつもならもう少し、と二度寝出来るはずなのに今日はもう浅い眠りにすら就けそうにない。

カチカチと無機質な時計の針が進む音だけがしばらくナマエの部屋を占める。こうしていても仕方がない。それならいっそしなければいけない仕事を先にしよう、とベッドから体を起こしたナマエは服を着替えた。





静かな廊下はやはりと言うべきか、午前5時半頃を指した時計を思い出してナマエは誰に向けるでもなく苦笑いを零した。洗面所で顔を洗ってキッチンを目の前にして立ち止ったナマエは早速本日二度目のため息を吐き出した。

つい昨日、そうつい昨日なのだ。ナマエの悩みの種であるダンテとふたりで街中へ繰り出したのは。あの時は何も考えていなかった。街からの帰り道スラム街をうろついていた悪魔に鉢合わせたダンテとナマエはそのまま戦闘になった。

当然のことだが悪魔と戦えないナマエは物陰に隠れる最中、運悪く悪魔の残党に見つかって転んでしまった。それからすぐに助けに来てくれたダンテによって無傷だったのだ。なのに、それからだ。ダンテがどこかよそよそしい態度をとるようになったのは。


「……ダンテ…」


いつもみんなで食事をする机の上に飾られたガーベラの花を支える可愛らしい小瓶にそっと指先で触れたナマエは静かに目を伏せた。服に擦れたのか右膝に出来た擦り傷がほのかに痛んだ。少し早いが朝食の支度でも指定用とガーベラから視線を持ち上げた。

朝日が照らす教会の庭の花に目をやったのと同じくらいのタイミングでかたりと背後から音が聞こえて振り返ると、そこには気まずそうに苦笑いを零したダンテの姿があった。


「…よ、ナマエも早いな」
「あ…はい、なんだか目が覚めちゃって…」


ダンテに釣られるように苦笑いを返したナマエは出来るだけダンテの視界に入らないように右足を下げた。どうにも気まずい雰囲気は感じるものの昨日あれからまともにふたりで話が出来なかったせいか、ナマエは必至で言葉を探した。


「俺、」
「…、はいっ」


先に沈黙を破ったのはダンテだった。はじかれたように顔を上げたナマエから気まずそうにうなじに手を当てて体ごと彼女から視線をそらした。


「………洗濯してくる」
「え、…あ…。はい、ありがとう、ございます…」


言ってリビングからゆっくりと出て行ったダンテの背中を見送ったナマエはまたひとつ深いため息を吐き出してキッチンに向かうために踵を返した。擦れてもいないはずの右膝がぴりりと痛んだ。


「…やっぱり、わたしのせい…ですよね…」


切なく呟かれたナマエの言葉は誰に届くわけでもなくキッチンに吸い込まれるように消えた。





* * *



朝日もある程度登り始めたころ。洗濯物を干し終えたダンテはひとりベンチに座ってぼんやりと空を眺めていた。真っ白な雲がゆっくりゆっくりとダンテの視界を移動していく。そよそよと吹く風は以前と変わらず心地良い。

ベンチにすっかり背中を預けてだらりと座ったまま動く気にもなれずにいたダンテに影が落ちた。


「……珍しく早起きだな。ナマエならキッチンだぜ」
「…誰がいつナマエに用事があるって言ったのよ?この捻くれ者」
「…なんだよ俺なんかしたか?」
「別に。隣いい?」


太陽の光を背に見るからに不機嫌そうな表情でダンテを見下ろしていたソフィアは返事を待たずに少し間を開けて隣に腰を少し大げさに落としたソフィアもダンテと同じように背もたれにもたれ掛るとだらしなく手足を放り投げた。


「…もう少しおしとやかには出来ないもんかね」
「お生憎様。あたしはナマエとは違うわ」
「…はっ、違いねぇ」


嘲笑うかのように笑ってそう口にしたダンテにソフィアが軽く横目で睨み付けた。アイスブルーのソフィアの髪が風に揺れる。それだけだというのにダンテの脳裏を横切ったのは少し癖のついたハニーブラウンの髪だった。

短くため息を吐き出したダンテの姿に、ソフィアも気付かれないようにため息を吐き出した。空を仰いで目の前をゆっくりと過ぎていくまっしな雲を見つめる。とても穏やかな景色だ。


「…あたしは笑ってるナマエが好きよ」
「……」
「ついでに言うなら、あんたの隣で、あんたと幸せそうに笑ってるナマエが好き」
「…じゃあ……どうしろって、」


ソフィアの話を黙って空を見上げながら聞いていたダンテは重々しく口を開いた。切なく吐き出されたダンテの声は震えているように聞こえて耳を疑ったソフィアは少しだけダンテの表情を伺おうとしたが、その表情はうまく読み取れない。

ダンテの大きく息を吸い込む音がソフィアの耳をかすめた。


「じゃあどうしろって言うんだよ!俺が傍に居ればナマエやお前らだって危ないんだぞ…!」


身体を起こしたダンテは強く握りしめた拳を睨み付けた。考え込むようにがくりと肩を落としたダンテにソフィアは何も言えずにただ彼の背中を見つめる。朝日の当たる赤いコートに包まれた背中が妙に寂しげに見えた。


「でもおかしいだろ。離れたくねーんだ。この場所も、お前らからも…ナマエからも」


切ない色に染まったダンテの横顔とブルーの瞳がゆるゆると揺れているように見えた。ひゅう、と軽い音を立てて早朝の心地いい風がきらきらと輝くダンテの銀の髪で遊んでは消えていく。どこからか香る甘いパンの香りがソフィアには切なく感じた。

そろそろ朝食の時間だろうか。いやに静かな庭で、それ以上何も言わないふたりの間にも沈黙が訪れた。沈黙に耐えきれず口を開こうとしたソフィアのアイスブルーの髪を風がいきなり弄んだ。髪で遮られてまともに前が見れず目を凝らして見れば目の前には息を切らしたノアの姿があった。


「ノア?どうしたのよ。朝食ならそんなに急がなくても…」


両膝に手を当てて荒く肩で息をするノアにベンチから降りて駆け寄ったソフィアは心配そうに彼の背中をさすると、ふるふると首を左右に振ったノアは息がまだ整わないまま顔を上げてベンチでだらしなく座っているダンテを見上げた。


「ダンテ、たすけて!ナマエが…!」


その言葉に弾かれたようにダンテはベンチから飛び降りた。耐えきれず溢れた涙を驚いたソフィアが拭っているが止まることなく流れ続けている。それでも強くダンテを見上げているノアと視線を合わせるためにダンテは腰を下ろした。嗚咽交じりのノアを落ち着かせるかのように落ち着いた穏やかな声で。


「どこも怪我してないな」
「う、ダンテ…」

ノアの小さな頭にダンテの大きな手が乗せられた。それまで涙でぐちゃぐちゃだったノアの顔は少し安心したように緩み目の前のダンテにしがみついた。

必死にしがみつくノアの背中を擦るダンテの表情が険しくなる。


「ノア、ナマエはどこだ」
「リビング…!逃げきれなかった子を守ってる」
「わかった、…よく頑張ったな」


それだけ言うとノアをソフィアに任せてダンテは駆け出した。生憎部屋に置いたリベリオンを取りに行っている時間なんてない。裏口から教会内に入ってまっすぐ伸びる廊下を無我夢中で駆け出して行くダンテの鼻を嗅いだことのある嫌な臭いがこびりついた。

やはり自分はここに居るべきではなかったのかもしれない。それまで考えていたことが一気にダンテの脳内を駆け回った。強く頭を左右に振って廊下を駆け抜けるダンテは突き当りを曲がると開けっ放しになっているリビングの出入り口に飛び込んだ。


「ナマエ…ッ!」
「…ダンテ…!」


恐怖に顔を強張らせた子供たちを庇うようにして大きな鎌を持った悪魔数体から距離を取ろうとするナマエの姿が視界に飛び込んできた。そのすぐ傍に配置された窓から入り込んできたのか窓のガラスの破片があちこちに散らばっている。今にも飛びかかりそうな悪魔に瞬時に反応したダンテは低く体制を構えてすぐ距離を詰めると黒い布に包まれたその体を蹴り飛ばした。

蹴り飛ばされた勢いで悪魔がナマエ達の目の前を通り過ぎて壁にぶつかってがくりと人形のようにその場に崩れ落ちた。動きそうな気配を見せない悪魔を見てナマエが駆け出そうとした気配を感じたのか「来るな」と声を荒げたダンテは彼女の方へ振り返らず悪魔を割れた窓から放り出すと自分も一緒に外へと飛び出した。




* * *



「……!ダンテ!」
「ナマエ…うわ!」


悪魔を倒したまま戻るに戻れず、教会の壁にもたれながらしゃがみ込んでいたダンテを見つけたナマエはその場から慌てて駆け出すと勢い良くダンテの胸元に飛び込んだ。


「おい、ちょっと…」
「どこも怪我をしていませんか!?痛むところはないですか!?」


ダンテの言葉を遮って勢いよく顔を上げたナマエの瞳にはこぼれそうなほどの涙が浮かんでいた。丸い彼女の瞳がゆらゆら揺れて見渡せるところ全部に目を向けて、怪我がないのを確認するともう一度強く抱き付いてきた。


「………っ、おいっ!ナマエ…!返り血…っ」
「…よかった、どこにも怪我をしていないみたいで…。本当によかった…!」
「ばっ…!お前…!」


強くダンテを抱き締めるナマエの全てで分かるほどに彼女は震えていた。柔らかく香る彼女の香りが心地良い。柔らかくて華奢な彼女の体をそっと抱きしめかえすと、震えていた体は徐々におさまって行った。

きらきらと輝くナマエのハニーブラウンのさらさらとした髪がダンテの頬を掠める。お前だってどうなんだ、そう聞こうとしてその言葉を飲み込んだダンテはため息をひとつ吐き出すと鈍色に染まった空を見上げた。


「…わたしね、」
「…?」


耳元でぽつりと呟いたナマエに首を傾げたダンテの顔を覗き込むためか、ダンテの体から少しだけ離れたナマエは弱々しい笑みを浮かべた。


「ダンテのお仕事、素敵だと思います。こうして、たくさんの人の命を救ってきてたんでしょう?」
「…んな大それた事なんかしてねえよ」
「でも、現にわたしたちはダンテに助けてもらってこうして無事なんですから。それを負い目に感じたりしてほしくないです」


柔らかくて小さなナマエの手がダンテの頬をなぞる。さっきの悪魔との戦いで付いたのであろう砂埃を払ったナマエは一度照れくさそうにはにかむと、喉の奥にツンとした何かを感じた。


「…ありがとうダンテ。…大好きです」


次第にまた震え始めるナマエの声に、黙っていたダンテが彼女の腕を掴んで強く引き寄せた。微かに漏れたナマエの声がスラム街に響くことなく消える。ダンテに腕を引かれたことでバランスを崩したナマエはその逞しい胸元に倒れ込むと背中に回ったダンテの腕の力に瞳を閉じた。瞬間、頬を伝う生暖かい何かがぱたぱたと音を立てて地面に染みを作ったのを視界の隅で見つけた。

鼻をすするような音がナマエの耳に届く。先程よりも強く伝わるダンテの腕の力に、ナマエも応えるように背中に腕を回すと強く抱きしめかえした。鈍色だったスラム街の空に浮かぶ雲の間に出来た僅かな隙間から差し込んだ日の光が優しくふたりを包み込んだ。


どれくらいそうしていただろうか、もうすっかりナマエの涙も収まって彼女の耳を掠める鼻をすするような音も聞こえなくなった。とても穏やかで静かな時間の中ゆっくりとダンテは口を開いた。


「…お前が嫌がっても離してやんねーぞ」
「……ふふっ、わたしだって離してあげません」
「…そら光栄だ。………愛してるぜ。俺の可愛いベイビーちゃん」


自分の胸元に埋まっていたナマエの顎を片手で持ち上げたダンテはその桃色に染まった頬を親指でひと撫ですると、ゆるゆるとはにかんだナマエの小さな唇にそっとキスを落とした。





(永遠にきみとずっとこうしていよう。)


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