「…信じられない。記憶喪失だからって水面にうつ伏せで何十分もなんて絶対にあり得ない」
「じゃあなんて説明すんだよ。自分の名前や年齢すら思い出せないっつーのに」
「だからって水面にうつ伏せなんて。呼吸はどうしてたわけ?…もうっ、博士!はかせ!おかわり!」
「…お前なぁ…そんなんだから俺が持ち上げた時へぶっ」
不思議な水槽が大きく家の中を占領する研究所の一角に申し訳程度に置かれた椅子に座ったナマエが物珍しそうに水槽を眺めていた真っ黒の服に身を包んだ男を睨みつつ机の上に置かれていた妙に紫の色をしたパンを貪った。
「なんでそんなもん食えんだよ」とでも言いたそうな彼の視線をへともせず、けれど相変わらずデリカシーの欠片もないその台詞に条件反射か勢いよく立ちあがってつかつかとヒールを鳴らして近付くと紫のパンを握っていたその手で渾身の一撃をその腹部にはなってやる。
なんとも情けない声が聞こえたが、思った以上に硬いそこに鍛えているのか、とナマエは盛大に舌打ちをかました。
「ふむ。水面にうつ伏せでのう…。興味深い」
「わたしが見つけてからそれくらいの時間が経ってただけの話だから、もしかしたらその前からかもしれないけどね」
「…のうナマエとやら。時にそのパン、どんな味じゃ?」
「味?うんと…なかなか美味しいよ」
見た目は置いといて。と付け足してやると、みずうみ博士―――と言うらしい――はそれは満足そうに微笑んで古ぼけた棚から数個妙な色のパンを取り出してきた。
「お前味覚おかしーんじゃねーの」
「失礼な。これでもわたしの作るご飯はご近所さまから評判高いんだからね」
「ゴキンジョ?」
「お隣に住んでる方達のこと」
そんなことまで忘れちゃったの?眉間にしわを寄せて首をかしげたナマエにふい、と視線をそらす。銀の髪が揺れて、そこから覗く真っ赤な瞳が一際目立って見えた。
真っ黒な服に身を包んで、銀の髪に真っ赤な瞳。ナマエやみずうみ博士のようなハイリア人と同じように長い耳もとには瞳の色と同じ真っ赤なピアスが飾られている。
遠くから見ても目立ちそうな風貌に、同じ城下町出身なら彼のことを少しでも知っていそうなものなのに、全く知らないということはカカリコ村の住民か。はたまた数日前に城下町を訪れた緑の衣に身を包んだあの青年のような旅の人だろうか。
「それにしてもお前、いいのかよ」
「え?何が?」
あれ。水槽の横に置かれた小さなゴミ箱らしき箱の中。そこから僅かに覗くフリルの先からはぽたりぽたりと水が滴り落ちていた。
「…ああ…。うん、もういいの。わたしには似合わなかったの」
あんなかわいらしいワンピース柄にもなかったのね。そう呟いたナマエの瞳は曇っていて、手にしていた食べかけの妙な色のパンがコトリと音を立てて彼女の小さな手からこぼれ落ちた。部屋の隅でナマエの様子を伺っていたみずうみ博士からは僅かにため息が吐き出された気がする。
「まあそれはいいとして、キミ」
「俺?」
「記憶喪失なんでしょ?帰る家わかってる?」
「あー…」
家だけじゃなく家族がいて、もしかしたら恋人がいるかもしれない。彼の帰りを待って、今も心配しているかもしれないが、先程まで夕焼け色に染まっていた窓の外はもう既に月の明かりで薄暗く照らされている程度だった。
この辺りは人気のなくなる夜中を見計らって魔物が徘徊している話をよく聞くし、記憶喪失な上、何も戦うすべのない彼をそのまま帰らせるわけにもいかない。今日はこのままこの場所に泊まってもらうのが一番良い案だろう。
ふと、にこにこと何やら満面の笑みを浮かべたままナマエを見つめているみずうみ博士に視線を送ると、彼は理解してくれたのかそうでないのかうんうん、と何度も首を縦に振った。
「時間も時間だし、今日は泊めてもらったらどう?」
「……そう、だな…。湖も近いしな」
「湖って、そこの?」
「ああ。安心する。理由はわかんねえがな」
「そう。なら良かったじゃない。湖の近くにいたら何か思い出すかもしれないし」
窓の向こうを見たナマエの瞳に映る湖はキラキラと静かに月の光を反射している。…こんなにも穏やかな景色に、魔物が徘徊しているなんて想像しがたい話だ。
「さて、と」そういって腰を持ち上げたナマエにすかさず彼が口を開いた。先程魔物の話をしていたせいか、彼の表情に僅かに不安の色が見て取れる。
「おい、この辺は魔物が出るんじゃないのかよ」
「え?ああ…。そうね」
「そうね、ってお前…。どうすんだよ、帰り道に魔物に襲われでもしたら」
「その時はその時、じゃないの?」
「…お前なぁ」
どこか投げやりなナマエの言葉に、彼は思わずため息を吐き出した。湖に飛び込んでしまった時もそうだったが、どこか彼女は自分がどうなろうとどうでもいいようなそんな感情を言動の節々に感じるような気がする。
未だにゴミ箱からはみ出したワンピースのフリルの先から、既に床に出来上がっていた水溜りに水滴が落ちた。先程までの雰囲気とは打って変わってしんと静まり返った研究所の中は妙な肌寒さと一緒に僅かな物音さえも部屋中に響かせた。
「別に、キミには関係ないじゃない?」
「関係なくてもだ。魔物が出るって言ったろ」
「平気だよ。わたし、守ってもらうなんて柄じゃないもの」
「そういう問題じゃねえだろ。……おい博士!」
「おお、一人増えようが二人増えようが変わらんからの。ワシは構わんぞ」
断固として一人で帰るつもりの彼女をうまく引き止める術もなく助け舟を求めた彼の真意を悟ったのかどうなのか。博士は先程と変わらぬ表情で穏やかに頷くとゆっくりとした動きで戸棚の上を指差した。
「まだまださっきのパンはあるからの」
朝食には困らないぞ、とでも言いたいのだろうか。一瞬眉間に皺を寄せた彼が、でも椅子から腰を上げたままの体勢だったナマエを横目で見ると、彼女も複雑そうに表情を曇らせた後観念したように定位置に腰を戻していた。
「…いいよ。ご飯はわたしがする。お世話になるんだしそれくらいはしなきゃ」
「うんうん、好きにして構わん。さっきのパンは主食にでも使っとくれ」
「ありがとう博士。今晩だけお世話になります」
「今晩だけと言わずワシはいつまでだって構わんぞ」
「あんたはそのパンを食べる人間がいて欲しいだけだろうが」
大きな水槽が部屋の大半を占める研究所内に、再び大きな彼のため息が広がっては消えていった。
* * *
「おい。…おい、……おーーい」
「もっ…もうっ!煩いな!集中できないじゃない!!」
そう言って自分の身長の何倍もある釣竿を振り回してナマエは声を荒げた。「ぶぉん」という恐ろしい音を響かせて振り下ろされる普通のものよりも少々ふとめのそれが彼の鼻先を僅かに掠めていく。
避ける動作も見せず、ただ呆れた表情を浮かべて腰に手をやっている彼に気付かずナマエはまだ叫び足りないのか片手を竿から離してぶんぶんと振り回している。
現在ふたりがいるのはハイリア湖畔の西に位置する少々名の知れた釣堀だ。今は時間帯のせいか人が少ないが、昼間ともなればたくさんの人間で溢れかえる。
月明かりに照らされて輝く水面を、悠々と泳ぐ魚達が度々ぴょんと跳ねては弧を描く。ぐるりと堀に囲まれ、真ん中が突き抜けになっているおかげで隠れたデートスポットにもなっているこの釣堀で仲良く並んで釣竿を構えていたのだが、時間が経つにつれてじれったくなったらしいナマエが今にも池に飛び込んでしまいそうだと思わず声をかけたのだが、失敗だったようだ。
「全っ然釣れない。なんなの。おっきいのが釣れるようにしたのにまったく釣れない」
ついに釣竿を地面において座り込んだナマエは折り曲げた両足をぎゅっと抱き締めると、きらきらと輝く水面をじとりと睨んですぐ。隣で数分前の自分と同じように釣竿を構えて立っている彼の後ろに置かれた小さなバケツを恨めしそうに見つめた。
「………お前が単純に欲張りすぎなんじゃねえの…」
「大きいの釣りたいから大きい釣竿選んだだけじゃない」
それが"欲張り"だと言うのだ、と。喉まで出掛かった言葉を飲み込んで釣りに集中することにした彼は、出入り口でこちらの様子を気にしている店主の視線を感じながらそっと瞳を閉じた。
そもそも何故二人が釣堀にいるのかと言えば、話は数時間前まで遡る。
* * *
早速夕食作りに取り掛かろうと立ち上がったナマエが申し訳程度に設置されたキッチンへ案内されて保存食を入れる戸棚を確認したのだが、そこには食べ物と呼べるものは存在しておらず、なにやら黒くて小さな固形物が点々としているだけだった。
「ありえない…」
戸棚の前で固まること数分。ナマエから搾り出された言葉だった。一体これで博士はどうやって生きていたのだろうか。固形物に触れることも出来ず、静かに戸棚の戸を閉めるとがっくりと肩を落としたナマエは大きな水槽の横で何が楽しいのか満足そうに中を見つめている博士を睨んだ。
兎にも角にも食材が無いのでは腹を満たすことも出来ない。だが、残念なことに日のとっぷり浸かったこの時間帯ではとてもじゃないが商店街など開いているわけもない。
しょうがなく相談するためにキッチンを後にしたナマエの目に、いつの物かわからないほどボロボロの状態で放置されている釣竿が飛び込んできた。
「釣り…」
「何してるんだ?」
こんな時間に?月明かりだけで魔物たちが我が物顔で徘徊する湖畔周辺で、なんて考えられない。ましてや、魚達の姿を確認できたことのない場所だろいうのに。
釣竿を見つめながら固まっているナマエを見つけて不思議に思ったのか、水槽の傍にいた彼が思わず声を掛けた。
「戸棚が悲惨な状況だったの。変わりに釣竿を見つけたけれど…湖畔は魚の姿なんて見たこともないし…」
「深刻な食材不足ってわけか」
「この時間帯じゃ城下町の商店街も開いてないしね…」
どうしたものか。そう付け足したナマエが片頬に手を添えてうんうんと唸り始めた。博士から出されたおもてなし用のあの紫色のパンだけではさすがにお腹は満たされないし、何より栄養が偏ってしまう。
広間で水槽を眺めていた博士がことの次第に気付いて二人の下へ歩み寄ったのはそれからしばらく経ったあとの話だった。
* * *
がちゃん。用意された銀色のバケツにまた一匹。そこそこ体の大きな魚が飛び込んだ音がしてナマエがはっと顔を上げた。
隣に立っている彼から「これで2匹目か」と言う声が耳を掠めた。狭いバケツの中で少ない水を必死にかきわけ逃げ出そうとしている姿を見ると少しばかり胸が締め付けられたがそうも言っていられずナマエはすぐさま視線を逸らした。
「……なんだよ。もう諦めるのか?」
「キミに任せることにしたの」
ぎゅっと両足を抱き締めて体操座りを決め込んだナマエに目を向けず竿の先を見つめながら口を開いた彼に、同じくナマエもまた彼に目を向けず水面をただじっと見つめたまま答えた。
訪れる静寂。出入り口では相変わらず店主が脇を掻きながらこちらの様子を気にしているようだった。その隣には店主の手書きか、達筆で書かれた「時間無制限、本日のみ釣り上げた魚50cm以上であれば3匹までプレゼント!!」の文字。
そんなに気にするのならあんな企画やらなければいいのに、なんてコメントは今は控えておくことにしてナマエはゆっくりと頭上に広がる夜空を見上げた。
「……わたし、振られたの」
「…は?」
「久しぶりに彼から呼ばれて、何も知らずにおめかしをして。…何も考えずに弾んだ気持ちのまま待ち合わせ場所に行ったわ。…プロポーズしてもらえると思ってたの」
「………」
「そしたらどうだったと思う?待ち合わせ場所で待ってたのは、深刻そうな顔で、でもしっかりと女の人と手を繋いだ彼だった」
僅かに鼻を啜るような音が聞こえた気がした。
まっすぐ釣竿の先を向いたまま横目で先程よりも縮こまって自らの両足を抱き締めているナマエの表情は隠れていて確認できない。どう返したらいいのかわからず黙ったまま、静かにぽつりぽつりと話すナマエの言葉にだけ、彼は耳を済ませた。
「…ごめん。こんな話」
「…いや…」
「あ、」
「ん?」
「引いてる」
「は?」
「ほら、釣竿!」
くんくん、と何度も跳ねる釣竿の先を指差したナマエが立ち上がった。慌てて釣竿に意識を集中して釣竿をタイミングよく引き上げると、それは月明かりに照らされてきらきらと輝きながら宙を舞った。
遠目から見ていてもなかなかの大きさだ。これは今晩の夕食を何にしようか。考えるだけでも楽しくなってしまいそうだ。手首を返してぶら下がった魚を彼が引き寄せるとその大きさを改めて実感してしまう。
こちらの様子をずっと気にしていた店主からもついに悲鳴めいた叫び声が聞こえた気がするが、大して気にも留めない二人はバケツの中に連れた魚を入れると、そそくさと帰り支度を始めた。
確かに恋だった