キミと奏でるアラベスク | ナノ





日の光を反射してハイリア湖畔の水面がキラキラと輝いている。

いつもなら綺麗ね、と何も考えずに頬の筋肉を緩めていただろうけれど今は目の前に映る全ての景色が憎らしい。

ハイリア湖畔の端にて、崖ギリギリの位置で両足を投げ出して座るわたしは、盛大にため息を吐き出した。昔誰かが"ため息をすると幸せがひとつ逃げる"なんて言っていたけれど、たった今さっき。わたしは幸せの全てを逃がしてしまった。


「今更そんなこと気にしたって…ね」


誰に話すでもなくぽつりと呟いたその言葉はどこに届くわけでもなく静かに消えて行く。ざぷん。風に遊ばれた湖畔の水面が小さく音を奏でた。

なんとなく草原の上に手を滑らせるとこつりと手のひらに当たった小さな小石を拾い上げて音を発した水面目掛けてひょいっと投げてやる。すぐにとぷん、と言う何とも言えない小石が沈む音がすると思ったのだが、それはゴツリという奇妙な音とともに僅かな悲鳴が聞こえてきた。

声色からして男性だろうか。手のひらに収まる程度の大きさの小石とはいえ、自分のいる位置から石が当たったであろう男性との距離を考えてさあっと血の気が引いていくのを感じた。

慌てて四つん這いになって崖から落ちないように声のした方を覗き込む。―――ああ、今日はなんて日なのだろうか。

あろう事か目の前に広がっていた光景は先程まで憎たらしいくらいに輝いているものとはかけ離れた光景だった。


「う、う、う、う………うそうそうそ!ちょっと!あの!」
「……」
「あの!あの!…そ、そ、そこの人!ねえ!」
「…………」
「嘘でしょ…!………っ!」


水面に浮かぶ真っ黒な服を着た男性。その姿はあまりに不自然で、だらりと伸ばされた両手足は水底に向かっている。このまま放って置いたらいずれ沈んでしまうかもしれない。

何度声をかけようが反応の無いその男性を目の前に急激にナマエの両手の体温が失われていく。

今、何が起こったというのだ。ぴくりとも動かないその体にふるりと体が震えたが、何とかその場を立ち上がって水面に浮かぶ黒い服を着た男性の一番近くに寄れる場所まで移動しようとしたときだった。

ぐらり、目の前が歪んだ用にゆっくりと斜めに傾いた。あまりの不自然さに傾いた方へ目を向けると、体はあっという間に水面に近付いた。黒い服の男性を通り過ぎ、ドプッという鈍い音とともに沈んだナマエの目の前をいくつもの気泡が覆う。


(だめ、上がらなきゃ―――)


そう瞬時に判断して水面を目指して水中をかこうと両腕を水面へと伸ばそうとしたが、ずしりとまるで何かに掴まれているかのように体が重くうまく身動きが取れない。


(―――そうだった、)


珍しくおめかしをしてきたんだった。店に並んだひと目で気に入った、いつもの服よりもいくらかレースの多いふわふわのワンピース。それが不幸にも手足に絡み付いては動きを鈍らせる。

情けない。こんな服、さっさと脱ぎ捨ててしまえば良かったのに。光の差し込む水面に手は伸ばしたが、抗うことをやめた。苦しむのは承知の上。このままハイリア湖畔に溶けて沈めばいい。それくらい、全てがどうでも良くなっていた。

それにしても、地上はあんなに色鮮やかだというのにここはなんて静かで薄暗い世界なのだろう。澄んだ綺麗な水で、飲み水にも使われるハイリア湖畔には魚が一匹もいないからだろうか。そこまで考えたが面倒になってやめた。どうせ考えたところで何かが変わるわけでもない。


ごぽ、ごぼぼぼ。


水中に沈んでいくのを感じながら瞳を閉じようとしたときだった。

水中で何かが動く音がして思わず目蓋を持ち上げると、すぐさま水面に向かって伸ばしていた手を大きくてごつごつした手がしっかりと掴んだ。


(…だれ…?)


逆光のせいかその姿はしっかりと確認できない。ぼんやりと見える骨格と、自分の手首を掴む力の強さでこれは男性なんだとなんとなく悟った。

揺れる彼の髪が銀色に輝いて見えて思わず綺麗だ、と見惚れてしまった。何の抵抗も見せないナマエを彼は何も言わずにその力強い腕の力で一気に引き上げる。途端に近くなる距離。横目で見れば真紅の何かが揺らめいていて、それがとても綺麗だった。

胸の下辺りに回された腕が今度はがっちりとナマエの体に巻きつけられる。そうすれば今度は頭上からやってくる水圧に、ナマエは耐え切れず彼の肩口に額を押し付けた。



* * *


「…ぷはァッ!!………ゲホッ!ゲホッ!」


額を押し付けて水圧に耐えること数秒。あっという間に目の前が色鮮やかに染まった。水中から顔を出せば、体は勝手に酸素を求めるせいで大きくむせ込んだ。


「…こんな所で身投げなんかしてんじゃねーよ」


不機嫌そうな男性の声が頭上から降りかかる。目の前に広がった布地は真っ黒で、太い首筋に張り付いた髪は逆光でそうなっていたのではなく本当に銀色のようだった。


「ご……ごめんな、さい…。ここでうつ伏せで浮かんでる人がいたからその…心配………に…」


そこまで口にしてナマエの瞳が大きく見開かれた。目の前の不機嫌そうな声の主は真っ黒な服に身を包んで、珍しい銀色の頭は何かの尻尾のような帽子がかぶさっているのだが、こちらも真っ黒だ。

湖畔に足を滑らせて落ちる寸前、自分はこの真っ黒な服の男が不自然な状態で水面に浮いているのを見つけて慌てて駆け出したのだ。あたりを見渡してそれらしい人物が見当たらないこともあって、今まさに自分を水面まで引き上げてくれたこの青年が先程の男性なのだろう。

だが、『そんな事など知ったことか』とでも言うような表情で首を傾げる目の前の男性に思わず怒りを覚えた。


「そういうあなたは誰なんですか?…あんな、うつ伏せになって水面に浮かんでるなんてただ事じゃありません」
「………別に。寝てた」
「別にって…あなたまるで死んだように浮いていたのに、そんな言い方…ッ!」
「あーーあーー。うるっせーな。本人が別にいいっつってんだからいいだろ。何なんだあんたは…」
「何なんだって!わたし!あなたのせいで死ぬところだったのに!!」
「あんたらなにをしとるんじゃー?」


まるで二人の口論を遮るように、崖の上から聞こえた力の抜けるような声と一緒に顔を覗かせた老人にナマエは思わず口をつぐんだ。

このまま湖畔に浮かんだままではどちらも風邪を引いてしまう。この真っ黒い服の男が風邪を引くのは今となってはどうでも良い話だが、自分まで巻き添えを食らうわけには行かない。


「………っ。……、………ちょっと」
「何してんだよ?」


いまだにがっちりと体に巻きつけられた男の腕を何とか振りほどいて自分だけでも岸に上がろうと試みたが、男女の力の差だろうか。まったく解ける気がしない。それでも必死に身じろいでいたナマエに、男は眉間に皺を寄せながら首を傾げるものだから困ったものだ。


「これ!いつまでこうしてる気!!」
「ああ」


強く抱き締められていた腕が離れて更に肺へ流れ込む酸素の量が増える。肩を怒らせながらもすぐ傍にある岸に腕を伸ばして力を込めるが、水を吸って重くなった服のせいかまったく体が持ち上がらない。

それでも何とか一人で岸に上がろうとしているナマエの姿に口元を若干緩ませた男はわざとらしくため息を吐き出すと、自分の体を持ち上げることに奮闘している彼女のすり抜け軽々と岸に上がった。銀色の髪から零れる水のしずくが日の光を反射する。何か文句のひとつでも言ってやろうかと顔を上げた途端。ナマエの体がふわりと宙に浮かびあがった。

下を見ればどっぷりと湖畔に沈んでいた自分の体は目の前の黒い服の男に持ち上げられていて、ワンピースの裾から滴る雫が水面にいくつもの波紋を描いていた。


「………あ、……ありが…」
「あんたさ。もう少し食べる量でも減らしてみたらどうなんだ?さすがにこれはな―――――…」


にやにやと意地の悪い表情を浮かべて何を言うのかと思いきや。まったくこの男は何を考えているのか。

夕焼け色に変わろうとしていたハイリア湖畔に、小気味の良い音が響き渡ったのはそれから数秒後のことだった。


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