Nursemaid boy


「これと…、……ああ、あとこれも」


 しんと静まり返った教室にチェレンの声が響き渡った。

 綺麗に整頓された教員用のデスクの上に広げられた午後のうちに片付けようと思っていた書類をひとつひとつ手にとって反対側の脇に挟んでいくチェレンの耳に午後の授業終了を告げる鐘の音が届いた。

 視線を上げて丁度真後ろの位置にある壁にかけられた時計に目を向ける。本当ならば子供達は今頃まだ校舎内に居て帰り支度をしている頃だろうか。ちらほらと授業内でわからなかったことや宿題の事で質問を投げかけてくる生徒も出てくる頃だ。

 そこまで考えてまだ目覚めそうにないケンホロウとその親であろう少女の姿がチェレンの脳裏を過ぎった。何者かはわからないが、目覚めてくれなくては自分も家には帰れそうにない。盛大にため息を吐き出して、抱えて居た書類を持ち直すと教室を後にした。


 誰も居ない静かな廊下をひとり、小気味良く足音を響かせるチェレンの黒髪をわずかな隙間から入り込んだ風が遊んで消えて行く。揺れているカーテンを見つけて案の定開いていた窓の鍵を閉めると医務室のある方からカタカタと音がした。それと同時に聞きなれない女性の声も。

 それほど広くもないトレーナーズスクールの中はどこかで音がすればすぐにあちこちに響くのだ。医務室の彼女達が目を覚ましたのかもしれない。抱えた書類に反対側の手を添えて医務室のある方を見た。物音とぼそぼそと聞こえる声はまだ聞こえてくる。

 これならスクールに残って彼女達の目覚めを待たなくても済みそうだ。ほっと胸を撫で下ろしたチェレンは再び静かな廊下を医務室に向かって歩き始めた。


「…ふふっ、くすぐったい。ケンホロウったら…。…ああ、でも良かったここの人たちが治療してくれたのかな…」


 医療室のドアノブを捻ろうとしたところでチェレンの耳を柔らかなソプラノが擽った。思わずドアノブを握る手の力が強くなる。ケンホロウの甘えたくるくるという喉を鳴らすような鳴き声にそれは同じように幸せそうに声を弾ませている。

 優しい声だ。自分が想像していたよりもずっと。エンブオーの腕に抱えられていた彼女の姿を不意に思い浮かべていたチェレンの腕から書類が滑り落ちる。カサリ、音が廊下に響いてドアの向こうの彼女達の幸せそうな笑い声がぴたりと止んだ。―――しまった。

 ドアノブを握っていた手を離して、眼鏡の位置を戻すために手を伸ばしてはっとする。


「あの、……だれか、そこに居るんですか?」


 恐る恐る彼女がチェレンに向かって声を投げかける。意を決してドアノブに手を掛けなおすと、強く息を吸い込む。いくらか落ち着いたような気がしてドアノブを捻るとゆっくりと扉を開いた。

 ほのかな薬品の香りに包まれた部屋の左端に並んだふたつのベッドの奥。上半身だけを起こして警戒しているケンホロウの首を宥めるように抱き締めた少女と目が合った。


「………えと…、」
「…あ、…ああ。ごめん、ぼくはチェレン。きみは?」
「チェレンさん。わたし、ナマエって言います。…あの、ここは…」
「ここはヒオウギシティのトレーナーズスクール。きみはそこのケンホロウと一緒に空から落ちてきたんだけど…」


 覚えてる?と問おうとしたがやめた。今一状況がわかっていないのかナマエが首を傾げたからだ。ケンホロウの警戒態勢が解かれてチェレンも普段のペースを取り戻すとデスクの上に持っていた書類を置くために移動する。

 くりくりとしたナマエの丸い大きな瞳がチェレンを追う。彼女と目が合うのがどこか気恥ずかしくてデスクの上に広げた書類の文字を意味なく確認しながら椅子を引いてそこに腰掛ける。


「…まあ、急に言われても飲み込めないと思う。調子はどう?どこか痛むところとか…」
「あ、えと、…あちこち、痛みます…」
「そうだよね」


 なかなかのスピードを保ちながらケンホロウと一緒に上空から落ちてきた彼女の姿を思い出してチェレンは苦笑いを浮かべた。いくらエンブオーが受け止めて地面と衝突は免れたとは言え、木の枝があちこちに相当な勢いでぶつかっているのだから。


「ケンホロウの調子は?」
「今のところ…」
「わかった。でも一応ポケモンセンターに行って診てもらった方がいいかもね」
「はい、いろいろと親切にありがとうございます…」


 どこか曖昧なナマエの返答を聞きながら目の前の書類に目を通し、必要な箇所にペンを走らせて行く。


「ケンホロウもそうだけど、きみも病院で診てもらわないと…」
「あ、わたしの方は必要ないです。あちこち怪我してるけど骨折も見られませんし…これくらいなら放っておけば治っちゃいます」
「……結構自信あるみたいだけど…医者?」
「……そう、なのかな…」
「そうなのかなって…」


 仕事の手を止めて椅子の背もたれに片手をかけつつ振り返る。ギシリと椅子の首から発せられた悲鳴が医務室内に響いて消える。ベッドに深々と腰掛けるナマエは膝の上で両手を合わせながら眉をハの字にして俯いていた。くりくりとした大きな瞳が伏せられて、代わりに長い睫毛が頬に影を落としている。

 心配そうに顔を覗き込んできたケンホロウに緩く微笑みかけると彼女をナマエは優しく抱き寄せた。


「…わたし、目的があってここまで来たんです」
「目的?」
「はい、とても大切なことだったんです、けど…」
「…」


 眉間に深く皺を寄せて眉をハの字にするナマエの様子にチェレンは嫌な予感を感じた。俯いたまま顔を上げない彼女の瞳は今すぐにでも泣き出してしまいそうなほどに膝上にかかった真っ白なシーツを捉えたまま震えている。

 暫くして長い静寂に医務室が包まれる。しんと静まり返った室内に男女ふたりと、そんなふたりを交互に不安そうな表情で見つめるケンホロウが寂しそうにクルル、と喉を鳴らした。


「………あの、ポケモンセンターはどこですか?」


 沈黙を破ったのはナマエだった。

 不安そうに眉をハの字にしたまま、指先で真っ白なシーツを弄る彼女はそろそろと視線を上げて上目がちに問うて来た。


「ポケモンセンターはこの隣だけど…」


 どうして?の意味も込めてチェレンが怪訝な表情を浮かべて浅く首を傾げるとナマエは苦笑いをひとつ浮かべてみせた。


「ケンホロウを診てもらいたいですし、…とりあえず今日の泊まる場所を確保しないと」


 あまり迷惑はかけられない、と言ったところだろうか。申し訳なさそうに、眉もハの字のままにそう言う彼女に聞こえないようにチェレンがため息を吐き出した。

 確かにポケモンセンターならあちこちを旅して回っているトレーナー達のために24時間休むことなく起動していて彼女の言う通り寝泊りするだけの場所はあるが、数は限られている。

 このまま彼女ひとりポケモンセンターへ送り出していいものなのだろうか。腕を組んでうんうんと唸り声を上げて背もたれにもたれ掛かっていると、ナマエの乗っていたベッドがギシリと音を立てた。痛む体を摩りながら地面に片足を下ろしたナマエの姿を確認してチェレンも慌てて立ち上がる。


「ちょっ……ストップストップ」


 今度はナマエが怪訝な表情でチェレンを見つめ返す。あちこちから感じる体の痛みに耐えながらも彼女は反対側の足も下ろして近くに置かれた自分の荷物を引き寄せた。

 このまま行かせてはいけない気がしてそのままナマエへ引き寄せられるようにチェレンは駆け寄った。ごそごそと支度を始めている彼女の髪が揺れて、チェレンは真っ直ぐに腕を伸ばした。


「えっと…」


 彼女の柔らかなソプラノが響いて思わずはっとする。彼女の手首を掴んでいたからだ。ぱちぱちと数回瞬きをしたナマエは瞳を大きく見開いて真っ直ぐにこちらを見つめてくる。何と言い訳をしたらいいのかわからず目の前がまっしろになりそうだ。

 ナマエの手首を掴む自分の手を見つめながら身動き一つせず固まるチェレンに、どうしたらいいのかわからないナマエはそのままの体勢で目を見開いたままのチェレンを覗き込むようにして首を傾げた。


「チェレン、さん…?」
「…ぼくも、行く」


 やっとの思いで搾り出した言葉に再びナマエがぱちぱちと数回瞬きを繰り返した。


「口にしなかったけど きみ、どこか不調なんじゃないか?…思い出せないことがある、とか…」
「!」


 ナマエの両肩がびくりと跳ね上がる。彼女の反応を見て確信する。やっぱり。そう心の中で呟いて掴んでいた彼女の手をゆっくりと解放する。荷物の方へ戻らないあたり、話してくれる気になったのかもしれない。

 次第にハの字に戻っていく彼女の眉が見えた。離した手を下ろしたナマエが太ももの前で手を重ねるとゆっくりと首を縦に振った。


「ここまで来る目的と……自分がどこから来たのか…思い出せなくて…。…それに、」
「?」


 太ももの上で重ねられた手がぎゅ、と強くシーツを握り締めたのがチェレンの視界の隅に映った。


「大切なことを忘れてしまっているような気がするんです。…とても。それが思い出せなくて…」


 今にも泣き出してしまいそうなナマエの声色にチェレンの胸も締め付けられるような感覚に陥った。彼女に寄り添うようにして立っているケンホロウがくるくると喉を鳴らすと、まるで「泣かないで」とでも言いたげな表情で頬に擦り寄って見せた。

 2年前の事件以来この辺りで不安になるような事件は耳にしないが、それでもこんな状態のナマエをひとりポケモンセンターまで送り届けて終わりでいいのだろうか。傍にはポケモンが居るものの、何かあってからでは遅いのだ。俯いたまま強くシーツを握るナマエの姿を見た。

 そもそも、地理は覚えているのだろうか。手持ちのポケモンのことは?その他多数。考えるたびにチェレンの頭がハンマーか何かに殴られたような痛みを覚えた。


「……あの、わたしやっぱり…」


 やっと顔を上げたナマエの大きな瞳と視線がぶつかった。窓から差し込む日の光は昼間よりも傾いていて、真っ白な医務室をほのかなオレンジに染めていた。

 どこからか子供達の笑い声が聞こえてくる。帰宅した子供達が集まって街の中を駆け回っているのだろう。ふと、おずおずと口を開いたナマエを見て、イッシュのどこかを駆け回っている幼馴染達の姿が重なった。


「……その、……、危ないから、送っていく」
「でも、ポケモンセンターは隣…」
「いいから。待ってる間暇だったらこの部屋を出てすぐの場所にあるポケモンハウスで待ってて」
「あの…」
「中に居るポケモンたちにもう今日は子供達が来ないのと、ぼくもそろそろ帰ることを伝えてあげないと」


 ナマエから「結構だ」と言わせない為にも少し前まで腰掛けていたデスクに座りなおして仕事と向き合うように彼女に背を向けながら彼女の言葉を遮った。

 それ以上言葉が見つからずにもくもくと書類の上にペンを走らせていると、背後に感じたナマエの気配はゆっくりとした動きで廊下に向かっていた。ドアの開閉音がした後、恐る恐る振り返ったチェレンの瞳には、ナマエが先程まで使っていたベッドの上にちょこんと置かれた可愛らしい鞄が映った。

 ここに居ることを決めたらしい。半ば強引に彼女を引き止めたような気がする。ペンを握っていた手の力を緩めれば、それはあっけなく手から逃れてころころと机の上を転がっていく。


「何をしているんだ、ぼくは」


 らしくもない先程の自分の行動に頭を抱えながら、ぽつりと呟いた言葉は誰に届くでもなく吸い込まれるようにして医務室の中に消えていった。
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