Girl has been falling from the sky.


 心地の良い春の香りが一面に広がるヒオウギシティは今日も暖かな陽の光に包まれて穏やかに昼下がりを迎えようとしていた。

 子供達の笑い声が耐えないこの町の西に位置するトレーナーズスクールのグラウンドから少し離れた小さな庭に一人、分厚い本を抱えた少年がゆっくりと体を起こした。


「……寝過ごした…」


 何とも情けない声で誰に向けるでもなくぽつりと彼から呟かれた言葉を、彼のすぐ傍でスボミーと一緒に花冠を作っていた少女が拾った。


「せんせい、おはよう!」
「ああ…おはよう。いつの間にか寝てたみたいだ…。そろそろ皆を集めて授業を再開しよう。スボミーを帰してきてあげてくれるかな」
「…えー…もっと一緒に遊びたいよー」


 明るく弾んだ声で少女が、でもつまらなさそうに唇を尖らせると隣で楽しそうにぴょんぴょんと跳ねていたスボミーを抱き寄せる。そんな彼女の気持ちを察したのかスボミーもどこか寂しそうにチェレンを見上げて小さな鳴き声をひとつ上げた。

 よほどこの少女とスボミーは仲が良いらしい。そういえば以前もふたりで仲良くグラウンドを走り回っていたのを目にしていた気がする。

 口元を緩めて ぐ、と少女に顔を寄せるとふたつの小さな頭に触れて喉元まで来ていた「しかたないなあ」と言う言葉を飲み込んだ。


「授業が終わった後は下校の時間までポケモンハウス内でならスボミーと遊んで大丈夫だから」


 その間までは我慢して。そう伝えると、それまで唇を尖らせていた少女は納得したのか唇を元に戻して強く頷いた。小さく短い腕で強く抱き締めたスボミーに別れを惜しむように頬を寄せると、気持ち良さそうな嬉しそうなスボミーの甘えた声が聞こえる。


「スボミー、かえる前にまたあいにいくからね」
「…うん、じゃあぼくは他の皆にも声をかけてくるから、君はスボミーと先に行ってて」
「はーい。チェレンせんせい、また後でね!」
「うん、また後でね」


 緩められた少女の腕の中からスボミーがぴょんと飛び降りる。並んでポケモンハウスに歩き出す小さな後姿を見送った後、さて、と立ち上がったチェレンは分厚い本を片手に持ったままぐぐ、と背を伸ばした。

 目の前に広がったグラウンドを楽しそうにポケモンたちと駆け回る子供達の姿にどこか懐かしさを感じながら風に靡く髪を押さえた。あの頃より幾分か伸びた自分の黒髪に目を細める。


「…そろそろ2年が経つのか。……早いな」


 自分を含め幼馴染3人で足並みを揃えてカノコタウンを出発してから無我夢中でイッシュ地方を駆け巡って、気が付けばやって来たトレーナー達を鍛える為の教師であり、ジムリーダーになっていた。あの頃から思えば想像もつかないことでほとんどが不安でしかないが、少しばかり楽しみでもある。

 校庭の脇に子供達が誤って近付かないように建てられた簡易のついたての向こう側にはまだジムとして工事をしなければならない為の機材が置かれている。


「ぼくは、上手く出来るだろうか…」


 仰ぎ見た空はどこまでも雲ひとつない快晴だ。そこをマメパトが数匹悠々と羽ばたいている。その後ろをふらふらとした様子で一匹のケンホロウが見えた。姿からしてメスのケンホロウで間違いないのだが、今にも落下してしまいそうなほどにふらついているその姿にチェレンは目を見開いた。

 上空を飛んでいるケンホロウはゆっくりと降下をする仕草を見せるが、飛行のスピードは落ちていないように見える。混乱しているのだろうか。なぜ。片手に持った分厚い本を先程まで自分が座っていた場所に放り投げ、落下してくる場所を想定しながらわたわたと歩を進める。校庭のど真ん中に堕ちて来やしないだろうかとチェレンの背筋が一瞬凍ったが、その心配はなく、代わりに校庭をぐるりと取り囲む木の上辺りに落ちてきそうだ。


「みんな、学校の中に戻るんだッ!」


 子供達への被害だけは避けたい。チェレンはすぐさま声を張り上げると、それまで遊んでいた手を止めてその場に居た子供達が一斉に建物に向かって駆け出していく。その姿を見守りつつ、生徒達とは逆のケンホロウが落下してくるであろう場所まで全速力で駆けていくが、目の前のケンホロウはもう既に頭が木々の天辺にまで到達しようとしていた。


「……っ、くッ!受け止めてくれ、エンブオーッ!」


 ふらふらと落下しながらも先へ進んでいるケンホロウはチェレンの頭上を通り越し、予想通りグラウンドを取り囲む木の上へ移動していく。放り投げたモンスターボールから勢いよく飛び出したエンブオーが激しくひと鳴きし、ズシンと重々しい音を響かせて着地すると、見た目とは打って変わった速さで目的の木々の下まで駆け抜ける。

 木々の隙間から僅かに見えるエンブオーの動きが止まると同時にガサガサという何かが激しく擦りあう音や、木の枝の折れる音が何度か重なって聞こえてきた。ケンホロウ一匹落ちてくるにしては妙に音が大きいような気がする。


「エンブオー!」


 その場で立ち止まっているわけにも行かず、はっと我に返ったチェレンがエンブオーの元に駆け寄ると、チェレンの声にゆっくりと体ごとこちらを向いたエンブオーの両腕には先程のケンホロウともうひとつ。

 春の風がふわりと柔らかそうな髪を巻き上げる。少々小柄だが同い年かチェレンより少し年下の少女だ。ところどころ落下でついてしまったのだろう、傷口からは僅かに血の痕も見えた。エンブオーの腕に抱かれたケンホロウとその少女は意識さえ失っているが呼吸も規則正しい。ざっと見たが外傷は少ないようだ。


「……ひとまず医務室に移動して。彼女達の手当てをしよう。目覚めるまではここの医務 室のベッドで寝てもらおう。ありがとう、エンブオー」


 ポケモンセンターに運ぶかを一瞬考えたがもう暫く様子を見てからでも問題ないだろうと判断したチェレンはもう少し頼むよ、の意味も込めてエンブオーの肩をぽんぽんと叩いてやると、エンブオーは満足そうにつぶらな瞳を糸のように細めて微笑んだ。



 * * *


 薬品の香りがほのかに香るいつもは静かな医務室が今日はばたばたと騒がしい。エンブオーがそっと壊れ物を扱うような手つきでベッドに寝かせる少女の髪がさらりとシーツの上に広がって思わず視線を奪われた。

 少女の反対側のベッドに寝かされたケンホロウが少々窮屈そうに見えるが、エンブオーがゆっくり離れたのを見計らって消毒液ときずぐすりを両手に抱えた生徒達が手際よくあちらこちらに見える傷口に塗っていく。傷口に塗られた傷薬に反応して目を覚ますかと思ったがそんな様子もなくケンホロウはその大きな瞳を開ける様子は見られなかった。

 ポケモンセンターへ運んでやる方が良かっただろうか。しかしスクール内の教員は自分とあと男性がもう一人いるだけだ。その男性も何やら予定かある、と出かけたきり夕方までは戻らないらしい。すぐ隣とはいえスクール内の子供達からあまり目を離すべきではないと判断したチェレンはベッドの上で眠っている少女とケンホロウに心の中で深く頭を下げた。

 廊下からはスクール内の生徒達が心配そうに顔を覗かせている。


「…みんなごめんね、ありがとう。おかげでこのケンホロウも、この女の人も無事だけどぼくはここから離れられないから今日は授業できそうにないんだ」
「ええ、じゃあ今日はもう帰るのー?」
「そうだね、明日はいつもどおりできると思うんだけど、…ごめんね」


 生徒達全員と視線を合わせるように中腰になったチェレンは眉をハの字にして言うと、どこからともなく声が上がった。そういえば、今回の騒動前に話しをしていた少女を思い出した。

 帰る前にポケモンハウスでスボミーに会うのを楽しみにしていた彼女には申し訳ないが、今回ばかりは彼女を初め、ポケモンハウスを楽しみにしていた生徒達には家に帰ってもらわなければならない。

 未だに残念そうな声があちらこちらから聞こえるが、状況を理解してくれたのか彼らは「また明日」とチェレンに言い残して教室に荷物を取りに戻っていく。隣に立っていたエンブオーもほっとした様子で一度にこりとチェレンに微笑みかける。


「…君もありがとう。お疲れだったね。戻ってくれ」


 エンブオーのモンスターボールを手に取って見せると、こくりと頷いた大きな体が次第に透けて奥の真っ白な壁が見える。シュン、と軽い音が響いてエンブオーの姿が消えると、モンスターボールがカチリと音を響かせた。

 エンブオーの入ったモンスターボールをひと撫でしたあと腰に仕舞いこんだ。気付けば生徒達の姿はなく、遠くで弾んだ声が僅かに聞こえてくる程度だった。

 回りを確認し、残っている生徒がいないか確認してから廊下に背中を向けて少女の眠るベッドのすぐ傍へ、立てかけてあったパイプ椅子を引っつかんで体を寄せる。先程まで寄っていた少女の眉間の皺がなくなっている。どうやらあまり心配する必要もないのかもしれない。早ければ夕方には起きてくれるだろうか。


「………残りの仕事を片付けるか…」


 規則正しい呼吸がチェレンの耳を擽る。このままただ無駄に時間を過ごすわけには行かず短くため息を吐き出した後のそのそと教室へと歩き出した。
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