Blossom | ナノ


ああ、この場所はこんなにも、暖かい。




Blossom

千切れた子守唄が聞こえる




「ああ!そういえばナマエと話してきたぞ。意思疎通はまあ…まだまだこれからだろうがなかなかイイっぽそうじゃねーか」


 会議資料を片手に執務室に現れたディオが満足げにそうマグナスに言葉を投げかけると、当のマグナスはといえば見たことも無いほどに目を見開いてものすごい勢いで椅子から立ち上がった。

 マグナスが急に立ち上がったせいでガタガタという大理石の床を叩く椅子の音が響き渡る。


「ディ…ディオ、君…!」


 立ち上がって中途半端に持ち上げられた書類を持ったマグナスの手が自分に向けられる。ふるふると震えるその声に思わず噴出してしまいそうになったが、今までに見たことの無いようなマグナスの表情に今更ながら自分の発した言葉の間違いにディオは勢いよく首を左右に激しく振った。


「待った待った待った待った!!そういう意味じゃねーよ!!」
「じゃ、じゃあどういう意味なん」
「…マグナス。お前、ワシの話を聞いておらんかったわけではなかろうな」


 軽く咳払いをして立派に伸びた顎鬚を撫でるヒューゴーに思わずまたしてもマグナスの表情が固まった。よほどこっぴどく叱られでもしたのだろうか。物音もなしに席に腰掛けたマグナスは何事も無かったかのようにペンを手に取ると静かに紙の上を走らせ始めた。

 マグナスの隣でじっとペンの進み具合を見ていたヒューゴーが短くため息を吐き出すとそろそろとディオのもとに歩を進め、やっと聞き取れる程の声量で短く「これ」と諭した。


「あやつの前で今ナマエの話を持ち出すのはよくないとお主もわかっておるだろう」
「わ、悪い…あいつの反応が面白くてつい、な…」
「お前はこの状況を楽しむことしかせんのう…」
「なんだよ、みんなそんなもんだろう?」
「…まあ、否定はせんよ」


 む、と口の端を尖らせて言うディオに今度こそ、ヒューゴーは深々とため息をついた。

 戦火の真っ只中とは言え、マグナスやディオを含む騎士団内の人間の多くがそんな色恋沙汰に現を抜かす年齢であることはヒューゴーも承知の上だ。あちこちからちらほらと聞こえる"団長の想い人"の話には多少目を瞑るつもりでいた。


「それにしても、最近のあやつときたらちーっとも会議に集中せんわ」
「ま、それがあいつにとっての束の間の休息になるんだったら、俺は何にも言わねーよ」


 面白いしな。と付け足してにひにひと笑い声を上げるディオに心底疲れたように両肩を落としたヒューゴーのそれはそれは重いため息が執務室内に響いた。

 そうだ。驚くほど穏やかな時間の過ぎるこの毎日も、いずれは抜け出してまた死と隣り合わせの戦いに明け暮れる毎日に身を投じることになるのだ。少なくとも、今の問題が片付くまでは。



「そういえば」


 はっとしたように顔を上げたマグナスにぼそぼそと話し合っていたヒューゴーとディオが顔を上げる。彼の後ろに広がる長く大きな窓から差し込む日の光は時間帯のせいか心地のいい程にきらきらと輝いていた。


「ナマエとレイアはどこに出かけたんだ?」


 首を傾げて持っていたペンを置いたマグナスに本日何度目かの深々としたため息を放ったヒューゴーとは対照的に実に面白そうににやにやと笑みを浮かべるディオが揃って「お前なぁ」と言い放った。



* * * *



「えーと、これが普段着でしょ?寝巻きに櫛、化粧水…下着と」
「あ、あのう…」
「あ、普段着もう一枚くらい買ってもいいかしら!それと、髪を結うリボンもいるかしら!」
「レ、レイアさん」
「え?」


 人々の賑わう商店街を抜けた広場では中央に大きく設置された噴水がさらさらとさわやかな音を奏でて今日も美しく城下町を飾っていた。

 その周りを子供たちが弾んだ笑い声で駆け回る姿はどこか微笑ましい。隣ではレイアとその傍らに佇む本日の戦利品の山に視線を向けた。さすがに多すぎるのは気のせいではないだろう。通り過ぎていく人々からは揃って驚きのまなざしを向けられている。

 そんな視線を知ったことか、とでも言うように見惚れるほど綺麗なブロンドの三つ編みをゆらゆらと揺らしては楽しそうに戦利品を見つめている彼女にナマエは苦笑いを向けた。


「レイアさん、こんなにたくさん…」
「ああ、いいのよ。女の子には、これくらい必要でしょ?気にしないの!」


 ナマエが聞き取りやすいよう、ゆっくりとしたペースでできるだけ区切りって話すレイアはにっこりと微笑んでぽんぽん、と戦利品の山の中で丁度いい高さに置かれたブーツの入ったケースを軽く叩いて見せた。

 今の季節は冬なのだろうか。昼夜問わず肌寒い日が続いているが、この城下町を包む今日のこの時間帯はほのかに暖かく上着も必要ないほどだった。アイーシャから渡された薄桃色のワンピースを揺らしてレイアの隣に並んだナマエは改めて深々と頭を下げると精一杯の笑顔を浮かべた。


「ありがとう、レイアさん。こんなにしてもらえて、うれしい」
「ふふ、どういたしまして。なんだか妹が出来たみたいだわ」


 ぽやんとしたナマエの笑顔にレイアがくすくすと笑う。その姿がとても綺麗で、ナマエには思わず町を歩く大半の男性が振り返ったような気さえした。

 あちこちに広場を囲うようにして飾られている花壇に揺れる花がかわいらしい。あたりをぐるりと見渡したナマエが大きく伸びをすると、入り込んだ空気は少しだけ冷たくて心地がよかった。

 花壇と花壇の間には、小さな屋台のような店がひとつぽつりと立っていて、数組の親子がそこに並んでいた。


「………」
「ナマエ?」


 しっかりと繋がれた母と子の手に、仲良く微笑みあうその姿に、視線を奪われた。何も言わずただ一点を眺めていたナマエを疑問に思ったレイアが覗き込むようにしてその表情を伺ったが、当のナマエは気付く気配もなくただまっすぐに親子を眺め続けていた。


「ナマエ…?大丈夫?喉、渇いた?」
「あっ…!ご、ごめんなさい!だ、だいじょうぶ!」


 心配そうなレイアの紫の宝石のようにきらきらと輝く瞳が自分を見つめていることにやっと気付いたナマエがわたわたと両手を振って必死に"なんでもないアピール"をして見せたが不審に思ったのかレイアが目をしかめた。

 ナマエが見ていた先に映るものたちに目線を送る。城下町に来て目に映るもの全てに物珍しそうな視線を送っていたナマエを見ていたが、この場所には彼女にとっての"新しいもの"は見かけず普段と何も変わらない光景だった。

 花壇の上を揺れる可愛らしい花に、中央を飾る大きな噴水。そこからまっすぐと青空に伸びる時計。噴水の周りを駆け回る子供たちの姿とそれを微笑ましそうに見つめる母親たち。

 レイアが小さく首を傾げると、子供たちを見つめている母親たちの中で更に仲良さげに手を繋いでどこかへ向かう親子の姿が見えた。―――もしかして。


「…もしかして、あの親子?」
「―――え、」


 そこでナマエの両肩が跳ねたのをレイアは見逃さなかった。ああそうか。隣でくりくりした瞳を大きく見開いてなにやらわたわたとしている彼女を見てレイアは呟いた。

 言葉も通じないようなこの場所で不安に感じないほうがおかしな話だ。ましてや外見からして自分よりいくつか年下だろう。今どの場所にいるのかさえわからない母親を想って感傷に浸ることくらい彼女にだってあることだ。

 何か話を変えるべきだろうか。あちこちに慌てて視線を巡らせるが、どうしても先程の親子が気になってつい目で追ってしまうことに気付いたナマエは観念したように苦笑いを零した。


「……おもい、だせない、から…」
「ご家族の、こと…?」
「ううん、えと…ぜんぶ?」


 思い出そうとすると体中が拒否という形で反応してしまう。

 目覚めたこの世界の、視界に入るもの全てが真新しく感じるのは記憶がないせいなのかどうかはわからないが以前カーディガンのポケットから出てきた自分の名前が書かれた紙切れをアイーシャとマグナスが声を揃えて知らない文字だ。と言っていたことからなんとなく自分はこの世界の人間ではないのではないかと感じていた。

 自分の言葉に目を丸く見開いたレイアが徐々に眉間に寄せた皺を深める。


「ごめんなさい、記憶喪失、だったのね…。何も知らなかったとは言え辛いことを…」
「あ、…あ、れ、レイアさん。謝っちゃだめ。わたし、ここが、すごく住みやすい、から」
「けれど…」
「思い出そうとすると、ここが、ね。気持ち悪くなる」
「気持ち悪く…?」


 まるで思い出すな、とでも言われているようなのだ。マグナスやアイーシャ、そして今まさに目の前で(申し訳なさそうにして眉間に皺を寄せているが)レイアの顔を見ているとそれは落ち着いてくるのだが。

 早く思い出さなくてはいけないのは百も承知だ。でなければ、いつまで経ってもマグナス達の世話になったまま迷惑をかけてしまう。


「レイアさんたちの傍は、心地が良いから…わたし、甘えてしまってる。わたしの方が、ごめんなさい」
「……何言ってるのナマエ。あなたのような娘を守るのも私達騎士の役目よ。あなたが私達の傍を安心する、と言ってくれるのならそれはとても嬉しいことだわ」
「…レイアさん」


 ね、と首をかしげたレイアの綺麗なブロンドが揺れる。長く編みこまれた三つ編みが揺れて足元に伸びた影が見えた。

 柔らかな風が二人を包んでは消えて行く。子供達の楽しげな笑い声が聞こえてくる。とん、と軽くナマエの肩に、レイアの細くて長い手が乗せられる。落としていた視線を持ち上げると、自分の目線と同じくらいの高さに見えた彼女の紫色の瞳が優しい光を放っていた。


「ここに来るまでの記憶を無理に思い出そうとしなくていいの。自然に体が思い出す時まででも、思い出してからもずっと…でも私達は構わないのよ?」


 寧ろそうしてくれた方が喜ぶ人間がいるのだから。しかもそれが、これからのこのパラティヌスを背負って生きていくかも知れない男なのだ、と思うと。

 けれどこれは言葉にするまいと微笑んだまま口を閉じたレイアに、ナマエは何も知らずただ嬉しそうに微笑んだ。―――ありがとう。そう伝えようとしたタイミングで、ふと、耳を掠める心地のいいソプラノの歌声が二人の耳に届いた。


「…あら、」


 先に口を開いたのはレイアだった。視線をナマエから離し、心地の良いソプラノが奏でる曲が聞こえてくる方へと向ける。それに釣られるようにナマエもそちらへと顔を向けると、丁度広場の出入り口あたりの一番人通りの多い場所にスラリとした細身の女性の姿が視界に飛び込んできた。

 薄く、この地では少々肌寒そうではあるが肌触りの良さそうな生地で出来たショールを体に巻き、更に顔を覆うほどのヴェールはそのまま足元まである長さだ。僅かに隙間から覗く口元からはレイアに負けずとも劣らない美女を思わせるほどだった。


「……懐かしいわ、この歌…」
「なつ、か……しい…?」


 女性を見つめながら口元を綻ばせたレイアの横顔に首を傾げたナマエに「あ」と一言漏らしてもう一度レイアはナマエを見た。オレンジに輝く瞳はゆらゆらと、それでもまっすぐ自分を見つめるナマエにレイアが軽く微笑んだ。


「ええ。小さな頃、母さんに歌ってもらっていた気がするわ」


 小さな頃。だからなのだろうか、やっとこちらの言葉を覚え始めて来たナマエにも聞き取りやすい。優しい歌。見れば、女性の周りには噴水の傍を駆け回っていた子供達がいつの間にか集まってきていた。中には一緒に口ずさむ子まで居るほどだ。伸ばされた細く白い腕がそっと女性の一番近くに居た子供の頭に乗せられた。

 なんて優しい声で、なんて優しい歌なのだろうか。彼女が歌い終わるまでその場から動けずじっとその姿を見つめたまましばらく時が止まったような感覚に陥った。

 彼女が歌を歌いきる頃には日も傾き始めていて、広場のあちこちでは母親らしき女性が子供達の手を引いてそれぞれ別の方向へ向かって消えていった。そんな光景に気を取られていたからなのか、いつの間にか女性は姿を消していて。


「さ、私達も帰りましょう、ナマエ」


 いくらか静かになった広間にレイアの声が響き渡った。大きな荷物を軽々といった様子で持ち上げて歩き出したレイアにおいて行かれないように慌てて頷いたナマエも、あの女性が立っていた場所に一度だけ振り返ってみた後その場から離れた。

 よく通った心地の良いソプラノが奏でるあの歌は頭の中でずっと響いていた。

 あの時、母親を思い出していたであろうレイアの表情はとても穏やかで暖かい感情を感じられた。―――自分の母親はどうだったのだろうか。自分が小さな頃レイアのように傍らで歌を歌ってくれていたのだろうか。レイアの後を追いかけながらも胸に手を当てて自分に問いかけるが、当然のように答えなど帰ってくることは無かった。

 代わりに感じる居心地の悪さに強く首を左右に振り払ったナマエは考えることをやめて開いてしまったレイアとの距離を縮める為に小走りで広場を後にした。


* * *


 西日が差し込む広く静かな廊下に引かれた真っ赤な絨毯の上をコツコツと鈍く足音を響かせて歩くマグナスの脇にはつい先程まで行われていた会議の資料がさらさらと僅かに音を零した。

 そろそろ夕食の時間だからだろうか、普段そこそこに騎士団の人間が行き来しているこの廊下もどこまで行こうと人影は見当たらない。そのまま真っ直ぐ窓から差し込む西日からの温もりに目を細めながら進むと間もなくして見えてくる階段を軽い足取りで降りていく。


「…夕食は終わっただろうか」


 いや、そもそもレイアと出かけているのだからもしかしたらどこかで食事をして帰ってくるのかもしれない。階段を半分まで下りたところで少し右に視線を向ければ、すっかり行き着けになってしまった医療室へのドアが見えた。

 会議資料を抱え直す。そうだ、そもそも今日はもう会わないつもりでいたのだ。実際この後も今まで溜めていた書類に目を通さなくてはならない。

 自分が率いている騎士団員や、この国、パラティヌスを想っていた今は亡き親友、パラティヌス国第二王子であったユミルの意志を引き継ぐためとはいえ、あまりの書類の多さに目が眩む事すら多々ある。

 国王と言う立場になったフレデリックに全てを任せて自分は戦いのみに身を投じる、と言うことがなんとなく出来なかったのだ。

 このところそのフレデリックですら顔色がよくない気がしてならない。


「……うん、やっぱり少しだけ、会っていこう」


 空いている手を手すりに乗せて、一度強くきゅ、とそこに力を込めると止めていた足を進めたマグナスは素早く階段を降りて医療室のドアノブに手を掛けた。

 ―――ふと、どこかで聞いたことのある歌がマグナスの耳を掠めた。

 ドアノブに触れたまま耳を澄ませれば僅かにだが、それは少々かすれたように聞こえる。どこで聞いたのかは思い出せないが不思議と心が安らぐ歌だ。このままもう少し聞いていたい。瞳を閉じてその歌声だけを聞こうとしたときだった。


「お!マグナスじゃねーか!こんな所で何してんだよ。中にいるナマエに会いに来たんだろー?さっきレイアも帰ってきてたからもういるんじゃねーか?」


 がっしりと肩を掴まれたせいで思わず全身が跳ね上がった。脇に挟んでいた会議資料がばさばさと派手な音を立てて床に散らばっていく。


「オイオイ…。何してんだよお前…」
「ディ、ディオが後ろから脅かすからだろ!」
「ああ?!オレが悪いのかよ?!…ってうわ、オマエ顔真っ赤だぞ。大丈夫かよ」
「…もう、ほっといてくれ…」


 気付けばドアの向こうから聞こえていた歌が止まっている。ディオの声の大きさも相俟って聞いていたことを気付かれてしまった。

 床に散らばった資料を拾い上げて立ち上がったマグナスに更にディオが大きな口で、豪快に笑い声を上げている。一瞬殴りたくなってしまったが今はそれどころではない。


「…入りづらくなったじゃないか…」
「ああ?ナマエのいる医療室だろ?別に何も入りづらくねーじゃねーか」
「…っ、そうじゃなくて」


 ああもう。あっけらかんとしているディオにどう説明すべきか悩んでいると隣で首を傾げていたディオが不意に医療室へのドアノブを握ると簡単に捻ってしまった。

 待て、と言う言葉すら発することも出来ずに必死に伸ばしたマグナスの手はあっさり宙を掴んだ。ディオの手によって開けていくドアの向こうの世界がふわりとした柔らかい光に包まれて現れる。

 甘栗色の髪が僅かに揺れたのが見えてすぐ、オレンジに輝く大きな瞳と目が合った。


「……や、やあ…ナマエ…」


 この時やっとの思いで搾り出した自分の声が今までに無いほど情けないものだったと、後になって振り返るたびマグナスは頭を抱える事になったのだが、同じく医療室のベッドに腰掛けて顔を真っ赤に染めていたナマエもまた同じく頭を抱える程の思い出になったのだが、それはまた別のお話。


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