「…せんせい?」
「…ん?」
揺れるカーテンから覗く外の世界は、いつもと変わらない何の変哲もないただの住宅街。道路を挟んで目の前の家のカーテンは可愛らしい桃色で、そこから時折見える少女はこの間中学生になったらしい。
さらにその先に生える大きな木はなんて言う名前か分からない公園の一番大きな木でわたしがこうしてベッドに座るといつもてっぺんだけぎりぎり窓の中に入る。
「今度わたしはいつ学校に行けるの?」
窓から視線を戻して『先生』と呼んだ人物をまっすぐ見つめると、胸元のポケットに愛用のボールペンを差し込んで応えるようににこりと微笑んだ。
『先生』の名前は倖月。国はどこだったのか忘れたけれど、外国人と日本人のハーフで、金の髪がいつもきれいな、……わたしのいちばん、大切なせんせい……―――。
「ん、体調も安定してきてるな。この調子なら明日にでも学校へ行けそうだ」
「ほんと?」
「ああ。…でも無理は禁物だ。辛くなったらすぐに帰る事。体育は控えるようにな」
陽の光を浴びてきらきらと光るその髪が、窓から入り込む春風にそろそろと揺れている。笑みを崩さない倖月先生ににぎこちなくではあるが笑顔を返したわたしはゆっくりと視線を落とした。
「…?ナマエ?」
「…学校、楽しくないの。でも、行かないとお母さんが悲しむから…」
きゅ、と握りこぶしを作った。"悲しむ"という表現で合っているのか本当はわからない。そうして顔を上げた時、決まって先生は苦しそうな、悲しい表情を浮かべている。
「…先生が来てくれる時間がわたしにとって一番安心するよ?」
「はは、言ってくれるね。口説いてる?」
「ま!まさか!」
いつもの笑みを崩さずに両肩を揺らして笑う姿にわたしは慌てて胸の前で両手を強く左右に振った。
「先生には感謝してるけど、そんな風に思ったことないし…!先生は先生だし…!」
「…ナマエ、それは喜んでいいのかわからない…」
「……う、うう…」
すみません、と頭を垂れたわたしにくすくす笑った倖月先生はとても綺麗だと思った。きらきらと輝く金の髪と、色の白い肌はどこか中世的でたまに女である自分が恥ずかしく思う時がある。
「…ナマエ」
「なあに?」
「今度私に休みが出来たら泳ぎに行かないか?」
「泳ぎに?」
いそいそと机の上に広がっていた医療器具を下げていく倖月先生のきれいな手を見つめる。ああ、もうすぐ先生が帰ってしまう。そう思うと胸が締め付けられるように苦しくなって。
まるでそれがわかっていたかのようなタイミングで頭上から振ってくる優しい倖月先生の声に頭を上げたわたしはゆっくりと首を傾げた。暖かい季節になったとはいえ、今はまだまだ5月の半ばだ。泳ぐには少々寒いのではないだろうか。
「ふふ、さすがに外や普通のプールで泳ごうとは思ってないよ」
「じゃあどこで?」
倖月先生はゆっくりと微笑んでわたしの頭にぽん、と手を乗せると「君の体の事もあるしね」と零して机の上に転がっていたボールペンを最後に掴むと胸のポケットに押し込んだ。
「温水プール。いいところ見つけたんだ」
「温水…」
「そう。全く運動しちゃいけないってわけじゃないんだ。むしろナマエのそれはもう少し体力をつけた方が病気もずっと軽くなる」
「そうなの?…たくさん泳いで体力付けれたらわたし…わたしのおか………あ…」
ふわりと窓の外から入り込んだ風が桃色のカーテンを揺らした。うっかりしていたと思う。こんなこと、倖月先生には言ってはいけない。
「…わ、わたし…お友達できるかな…」
そう思うが先か、わたしは先生から顔ごと自分の手元へ視線を逸らした。揺れる視界は次第に滲み始めている。…ああ、だめだ。こんなところで泣くなんて。なんて自分は情けないのだ。
いつもならこれくらいの事でこんなことにはならないのに。きっと先生が傍にいるからだ。甘えられる存在だと勝手に思ってしまってからというもの先生の存在は日増しに大きくなって行っている。これ以上迷惑をかけるわけにはいかないのに。
「……っ、……出来るさ。大丈夫、君はとてもいい子なんだ。友達なんかすぐさ」
「ふ、ふふ…っ、先生わたしのこと買いかぶり過ぎだよ」
「そうか?少なくとも私は君が好きだよ」
「……え、」
柔らかな声が頭上から振ってくる。両ひざを立ててそれを抱きしめたわたしを、先生は気付いてしまっただろうか。どうか、お願いだから気付かないでほしい。
こんな情けない自分を見ないでほしい。一瞬の沈黙の後、緊張で冷たくなったわたしの手は優しい温もりに包み込まれた。
「…私は、君が好きだ」
一瞬わたしを包むすべての時間が止まったかと思った。あまりの事に零れてしまいそうだった涙は引っ込んで、顔を上げると先生のブラウンよりもブルーに近い瞳にまっすぐ見つめられていた。
「あ……、あっ…せ、せん…え…ええ……?」
「…ふはっ!」
「!?」
強く手を握られてどう答えたものかとうろたえていると、先生が突然噴出した。いつも浮かべる笑顔よりいくらか崩れた笑顔で肩を揺らしてくつくつと笑っているその姿を見ているうちにわたしの体はふつふつと熱くなっていく。…やられた。
「も、もう!先生のばかばかばかばか!ばかばかばかばか!!!」
「ははは!いて、ごめん。まさか君がこんなに初心だとは思わなかった。すまない、くっくっく…」
「ばかばかばかばかばか!!ひ、人をからかって遊ぶなんて…そのうち罰が当たるんだから!」
わたしの腕を掴んでいた先生の手の力が緩んだのに気付いて振りほどくと、出来るだけ力を込めて腕が届く範囲で先生の腕や胸を殴ってやる。
なおも楽しそうに笑っている先生はわたしの手を上手く避けながら荷物を押し込んだ医療用バッグを開いた手で引き寄せた。
「…あ、せん…」
「杳佳」
「え?」
「次の休みが取れたらすぐに連絡する。その時は、私の事を"ハルカ"と呼ぶこと」
意味が分からずに首を傾げたわたしの前に人差し指を一本立てた手をずい、と差し出した先生はどこか不敵な笑みを浮かべながらそう言って立ち上がった。
「ハルカせん、」
「だめ」
「…は、ハルカ、さん?」
「うーん…まあ、よし。…それじゃあまた来週。ナマエ」
「あ、…え?…う、うん…」
軽く胸の前で手を振る先生に呆気にとられながらも手を振り返すとにこりと微笑んだ先生は静かに部屋を後にした。
僅かに夕焼けが差し込もうとしている窓の向こうの空に目を向ける。家のどこかでは先生とお母さんの話す声が静かになった部屋に微かに響いた。
「……ハ…ルカ…さん」
なんとなく先生の名前を呟いてほんわりと暖かくなる体に心地良さを覚えた。
何も知らずにいて羊狩り