"elle m'aime"


 かつて私が最も愛した声が、ぼんやりとした意識の靄を揺らした。


 "un peu"

 段々と近づいてくるように、その声は大きくなっていく。ねっとりと、囁くように落とされる異国の言葉はしかし、私の愛した彼の喋り方とはまるでかけ離れていた。
 霧が晴れていくように、段々と意識がはっきりしてゆくにつれ、その声がやはり少し遠くから聞こえてきていることが分かった。うっすらと瞼を開けば視界にまず入るのは柔らかな白、肌に触れるシーツの色だ。南側の窓からの光が、遮光カーテンの隙間から薄く部屋を照らしている。もう昼をゆうに過ぎた時間だと焦りかけてから、手足の違和感に現実がなだれ込んできた。

 その行為が痛みを伴わなかったのは、彼の歪みきった愛情の為せる技だろうか。激昂した彼によって浴びるような量の麻酔薬につけられた、その後のことは覚えていない。ただ、見下ろした踝の下にもはや感覚は無く、それが私を名実ともに籠の鳥に仕立て上げたということだけは自明だった。

 "beaucoup"

 一体誰にむけて話しかけているのか、彼のかすれ声だけが衣擦れの音に混ざって不気味に部屋に響いていた。なるべく音を立てないように、布団をどけて声の源を伺う。壁を伝いながら、動かない足の代わりに膝で這うように、ずるずると。

 「おはよォ、名前チャァン」

 どきりと、心臓を鷲掴みにされたような心地に息がつまる。伺おうとした部屋から突然、彼が顔を覗かせたのだった。すっかり伸びてしまった黒髪に隠れて、その表情はうかがえないが、口元は三日月に歪んでいた。

 「お、おはよう、靖友君」

 震えそうになる声をどうにか抑えながら答えれば、だらしなく歪んだ口元がさらに深く笑みを刻んだ。何故かはわからないけれど、彼の言葉に答えないことは彼の中では地雷のようで、踏み抜いてしまえば最後、またあの消毒液と鉄の匂いの中ー。

 「ホラァ、そんなカッコで布団から出たりしたらダメって言ったよネェ?」

 猫撫で声で、彼が私の髪を梳く。白くて大きな、ハンドルを握ることを放棄してしまった手。こくりと頷いた私の頬を、透明な雫が伝っていった。あの青空の色に嫉妬したことはそれこそ数知れず、それでもロードバイクに跨る彼が大好きだった。どうしてだろう、と内心問う。「アッチの靖友クンも、 スッゲー嫉妬深いんだヨ」あの日の彼の言葉が、責めるように私のなかでわだかまり続けていた。靖友君を、私の愛した人をこんな風にしたのは、誰だ。

 「passionnément」

 頭上からこぼれ落ちた言葉に顔を上げようとすれば、するりと長い腕が私を抱えこんだ。彼の表情は見えないのに、その声から伺える高揚感に、おのずと体が強張る。靖友君、と呼ぶことすら憚られる、この『もう一人の靖友君』が上機嫌である時は大抵何かが裏にあり、私がここにいる限り彼がもう殺人をしないであろうということが分かっていても、その不安感は容易に拭い去ることは出来ない。

 「名前チャン」

 どさりと私をベッドに乗せて、彼が呟いた。さらりとこぼれ落ちた黒髪から、あの日の靖友君と同じ匂いがして視界が軽く眩む。当たり前だ、どちらも靖友君なのだから。しかしそれを認めようとするたび、殴られたような眩暈が私を襲うのだった。

 「知ってるゥ?本場の花占いの意味ィ」

 花占い。およそ荒北靖友という人間が口にしなさそうな言葉に、目を見開いた。こんな風になってからは初めてかもしれない、その瞳を直視すると、黒い瞳が揺れた。その目にどうしようもなく重なる愛しい誰かの影にまた、ざらりとした吐き気にも似た眩暈が私を襲った。

 「à la folie…って。狂っちまうほど好きって意味らしいよォ」

 オレたちにピッタリだネェ、なんて笑う靖友君の声色から、微かに自嘲の色が滲む。意味など教えてもらうまでもなく知っていた。フランスの花占いってちょっと怖いんだよ、なんて、授業で教わった知識を彼に話したのは、まぎれもなく、私自身だったのだから。
 昏い目の中に、荒北靖友はまだ生きているのだろうか、と問いかける。粗暴で、優しくて、速くて、不格好で、かっこよくて、不細工な、私の愛した靖友君は。
 その目がどこか助けを求めるように細められて、ふいにぐっと近づいた。触れた薄い唇から鉄のような味がして、思わず小さくうめき声が漏れた。


 「pas du tout」

 縋るような唇が離れると共に小さく呟いた私を咎めるように、靖友君が目をすがめた。花占いの最後はこの言葉で締めくくられるが、靖友君はその意味を知らない。


 「なァに、ソレェ」

 先ほどとは打って変わって不機嫌そうな彼の目の数センチ下を見つめて、私は笑った。


 「世界一、愛してる、って意味だよ」

 
 その言葉の意味を彼が知る時、お前はきっといなくなるのだと、ベッドサイドの萎れた花が告げていた。

誕生日祝いにこはちゃんがこんな素敵な初期北をくれました!これな、「悪夢で閉じて召し上がれ」の続きなんだぜ…?花占いとの絡め方も本当好きでこはちゃんの初期北〜;;;って咽び泣いてます…;;;本当に本当にありがとう!

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