(※流血表現&特殊設定注意です) 目が覚めれば隣に靖友君の姿は既になかった。ガサゴソと手探りで枕元のスマホを掴み液晶を見れば時刻は7時半を少し回っている。確か靖友君、今日は一限からって言ってたなと寝起きの脳味噌でぼんやりと考えた。きっと今頃朝食を作っているはずだ。
寝室として使っている洋室のドアを開けば香ってきたのは焼き魚特有の匂い。ちょうど焼き魚をテーブルの上へと運んでいたらしい靖友君はすぐ私に気づいたようだった。
「おはよォ」
「おはよう」
相変わらず無駄に早ェなァと小さく笑う靖友君に曖昧な笑みを返す。確かに二限目からならもう少し睡眠時間を確保することだって出来る。けれど私には、そうしてまで起きたい理由があった。
この朝の挨拶を交わす瞬間が、実は私は堪らなく好きなのだ。
誰よりも早く靖友君の言葉を聞けるのは私の特権。
だからこうして靖友君が出て行く前までに起きている、なんて。何だか恥ずかしいから言わないけど。
「お前の分も作っといたけど」
食う?と問いかける靖友君に勿論だと頷けば顔洗ってこいと促される。素直に従い顔を洗えば水の冷たさにだいぶ目が覚めたような気がした。
テーブルの前に座ればン、とお椀に入れられたお味噌汁が机の上に置かれる。
他には焼き魚に卵焼き、そして昨日の夕飯の残りであるほうれん草の胡麻和え。
どうやら今日は和食のよう。靖友君の甘い卵焼きは私の大のお気に入りだったりする。
いつも思うけれど、やっぱり人の作ってくれたご飯は自分のものより美味しく感じるものだ。
「なァにニヤニヤしてンだヨ」
「んー、靖友君料理上手になったなぁと」
ワカメとジャガイモのお味噌汁を啜りながらしみじみと呟けば昔を思い出したのか「るっせ、黙って食えバァカ」と怒られてしまった。(これが彼の照れ隠しだということくらいとっくに知っている)
同棲始めはお米も碌に炊けなかった靖友君だけど、生来の負けず嫌いのせいかびっくりするくらい料理の腕を上げていった。今じゃ私よりも上手いんじゃないだろうか。
大学進学を機に同棲を始めて二年。幾度か喧嘩はしてきたものの、修羅場と呼ばれるようなものはなくこうして順調に同棲生活を送っている。
いつまでもこんな日常が続けばいいと、そう願っていたのに。
「……今日もニュースで特集やってたな」
ピタリ、と箸を進める手が止まる。
靖友君の言う"ニュース"とはここ数週間この市で起きている連続殺人事件のこと。被害者は三人。全員行方不明になった後刺殺された姿で発見された。犯行手口から一連の事件は通り魔の犯行だと言われていて、犯人はまだ捕まっていない。
怖くないはずが、ない。箸を持つ手は無意識に震えていた。
明日自分が新たな被害者としてニュースで騒がれているかもしれないのだ。自分だけは大丈夫、だなんて思うけれどそんな保証はどこにもないのが現実だ。
名前、と名前が呼ばれ顔を上げればいつになく真剣な表情の靖友君がこちらを見つめる。
「帰る時は絶対ェ、連絡入れろヨ」
迎えに行く。
靖友君のその言葉にコクリと頷いた。怖いけど日本の警察は優秀だし、もうすぐ解決するはず。他の事件だってそうじゃないか。
その時の私は、そう信じてやまなかったのだ。
:
今日は二限から。教室に入った私の姿を見つけ一つ横にずれてくれた友人達にお礼を言い、二人の間に座る。
「そういえば知ってる?」
そのうちの一人、右に座る友人が口を開く。こうして彼女の入手してきた情報を聞くのは最早恒例行事のようなもの。いくつになっても女の子は噂話が好きなのだ。
そんな彼女が口に出したのは一人の男の先輩の名前。私と同じサークルに所属するため、彼の名前は聞き覚えがあった。
「あの人、ここ二週間くらい大学来てないらしいよ」
「え、」
それどころか連絡も取れないんだって、と彼女は続ける。
目を見開いた私が口を開くより早く「バカッ!なんで言っちゃうのよ!」と左から鋭い怒号が飛んだ。
困惑する彼女に「あの先輩が名前と何があったか知ってるでしょ!?」と説明が入る。
そう、一ヶ月ほど前に私はその先輩に告白されたのだ。もちろん私には靖友君がいるため丁重にお断りしたけれど。
どうやら思い出したらしい彼女はハッとしたように目を見開き、青ざめた顔で「ごめんっ!!」と両手を合わせる。
もともと、そんなに真面目な人ではなかった。もし普段だったらサボっているのかくらいにしか考えなかっただろう。けれど、今は時期が時期なのだ。それは私の不安を煽るのには十分すぎる要素だった。
「あんなニュースもあるしさ……」
「うん……」
どうやら友人も同じことを考えていたらしい。
自分に好意を抱いてくれた人に何かあったのかもしれないと考えて気分が良い人間なんているわけないだろう。
「名前、アンタ顔青いよ。帰った方がいいんじゃない?」
俯いた私の顔を心配そうに覗き込まれ、眉を顰められる。そんなに顔に出ているのかと冷えた指先で意味もなく自分の顔に触れた。
「本当にごめん、私のせいだよね……!」と逆に心配になるくらい顔を青くして謝る彼女に大丈夫だよと笑ってみせるものの、確かにこのまま講義を受けていられる自信はない。後は任せてという言葉に甘えて席を立った。
外に出れば脳裏に過ぎったのは連絡しろという靖友君の言葉。電話しようか一緒迷うものの、今は十二時すら過ぎていない。
そのまま私は帰路を進むことにした。
:
私達のアパートの目の前に着いたまさにその時、鞄の中から聞こえたのは私の一番お気に入りの曲。
その音を鳴らすのは一人しかいない。靖友君だ。
どうしたんだろう。不思議に思いながら開いたメール画面を見た瞬間、私はその場に凍りつくこととなったのだ。
『たすけて』
短く、変換さえされていない四文字は焦燥を著明に物語っていた。靖友君がこんなメールを送ってくるなんて、過去一度もなかった。
頭に過るのは連続殺人事件の六文字。
もし、もし靖友の身に何かが起こっているのだとしたら。そう考えただけで体に悪寒が走る。
咄嗟に見上げたのはアパート二階、私達の住む家。何故だかはわからないけれど、呼ばれているような気がして。
考えるより先に、私は走り出していた。
「靖友君っ!!」
玄関のドアを開け、靴を脱ぐことさえも忘れて部屋へと駆け込む。お世辞にも広いとは言えないこのアパートのリビングへ辿り着くのは数秒とかからなかった。
どうか、どうか無事でいて。そう願いながら大きな音を立ててドアを開く。
カーテンが閉め切られ電気も消された部屋はいつもより少し暗いけれど、確かに人影はあった。
よかった、靖友君は無事だ。ほっとしたのも束の間。私はすぐその異変に気づくこととなった。
「やすとも、くん?」
無意識のうちに零れた言葉を彼は拾い、此方へと顔を向ける。
「ア、名前チャン。おかえりィ」
早かったネ。
普段の私だったら間違いなくただいまと返す日常的なその言葉が、今この空間では酷く歪なものに聞こえた。
鉄の臭いがやけに鼻につく。
震えてる指先でスイッチを押せば、部屋が明るくなると同時に脳が現実を拒否するようにグラグラと揺れた。
部屋の真ん中に佇む赤に濡れた靖友君と、彼の目の前に置かれた"何か大きなもの"を包んでいるビニールシートの青が対極的で、目から焼きついて離れない。
彼が手にしている鈍色に光るそれは本来調理以外の用途には使われないはずの物。
視線が重なった瞬間、私の体に強烈な違和感が駆け巡った。
「だれ、」
貴方は、誰。
消え入るように呟かれたその問いに、目の前の男は口元を歪める。
「ナニ言ってンのォ?さっき名前チャンだって言ってたじゃなァイ。オレは"ヤストモクン"だヨ」
嘘だ。雰囲気も笑い方も話し方も、何もかもが私の知ってる靖友君とは全くの別物。
だけど、そう笑う声も顔も紛れもなく彼と同じであることもまた事実で。
錯乱する私を仕方ないとでも言うような口調で彼は続ける。
「まァ、アッチのオレはオレのコト知らねェハズだけどネ」
「アッチの、オレ?」零すようにただ反復させた私に彼は「ウン」と頷いた。
「ねェ、知ってるゥ?」
まるで子供が内緒話をするように、クスクスと彼は口元に弧を浮かべる。
「アッチの靖友クンも、 スッゲー嫉妬深いんだヨ」
オレと同じだと、彼は笑った。
嫉妬深い?だから何だと言うのだ。それなら私だって同じだ。嫉妬だってするし、汚い感情だって抱く。人間なら当たり前だ。
けれど互いに無理に束縛を強いられたことも、強いたことも一度だってない。
靖友君のそれは所謂ヤキモチと呼ぶような可愛らしいものであったし、大事にされていると少しの優越感に浸っていた。
そんな私の心を見透かしたように彼は「お利口チャンだからネ。アッチのオレはァ」と言葉を紡ぐ。
「ホントは名前チャンが他の汚ェ男と話してるのを想像しただけでも気ィ狂っちまいそうになンの。そのくせ我慢しちゃってさァ」
それでオレが生まれちゃったら意味ねェじゃなァイ。
嘲笑するように吐き捨てた彼の言葉は、私の中には入ってこなかった。脳が拒否するように、私とってはただの意味をなさない音の羅列にしか聞こえないのだ。
「このままだとアッチのオレがオカシクなっちゃいそうだったからネ。だからオレが生まれたのォ」
わからない、理解したくもない。
叶うことなら耳を塞いで叫びだしたかった。
それと同時にどうしてという疑問が頭の中でぐるぐると回る。そんな猟奇的行動に走る理由なんて、何もないはずなのに。
そんな私へ彼は首を傾げながら口を開いた。
「名前チャン、覚えてねェのォ?」
「え……?」
まるで機械のように酷く無機質な声で、彼は絶望のような真実を告げる。
「オレがヤっちゃったの全員、名前チャンが関わってンだヨ」
一人目のサラリーマンは名前チャンに馴れ馴れしく道聞いてたデショ?
二人目の高校生は道でぶつかって名前チャンに怪我させやがったのに謝らなかったからァ。
三人目の大学生は名前チャンに駅で絡んでたよネ。
愉しそうに指折り数えるそれは、どれもみんな靖友君と一緒にいる時に起きた出来事だ。
それは逆に言うなら靖友君しか知らない出来事。
でも、どれもみんな些細なことばかりで。
カッとなって衝動で。そんな犯行動機はテレビで何度も見てきた。けれど、きっと彼のはそんな衝動的なものではない。
理性と本能の入り混じった張り詰めた糸の上に彼は立っているのだ。そしてその上をまるでピエロのように愉悦に口元を歪めながら綱渡りしている。
「ア、コイツは名前チャンのコト汚ェ目で見てたからァ」
汚物でも見るような冷ややかな声で彼は横を一瞥した。
恐らく部屋の真ん中に置かれた大きな塊を指しているのだろう。
やっぱり、先輩は。
理解した途端吐き気と眩暈が私を襲う。その場に蹲った私に追い打ちをかけるように彼は続けた。
「ぜーんぶ、名前チャンのせいだヨ」
狂ってる。
喉の奥でクツクツと愉しげに笑う彼に感じたのは純粋な狂気と恐怖。貼り付けたようなその笑みは私と────靖友君と、同じものだと思えないほど生きた人間の表情ではなかった。
「やァっと捕まえたんだヨ」
ずっとドブネブミみてーにチョロチョロ逃げ回ってやがったから駆除すンのにチョット時間かかっちゃったァ。
その言葉はまるで私を嘲笑うかのようで。
逆、だったんだ。
捕食者は彼の方で、先輩が姿を消したのはその牙から逃れるため。
きっとあのメールも先輩が助けを求めて彼のケータイから打ったんだろう。
そしたら、私は?私は、どうなるの?
考えるまでもなかった。逃げられるわけがない。直感的に、本能的にそう悟った。
食物連鎖の底辺にいるような私が、彼から逃げる術など持ち合わせているはずがない。
「名前チャンがオレから離れるコトが怖くて仕方ねェの」
長い足が一歩、また一歩と踏み出し徐々に私と彼の間の距離が縮まっていく。腰が抜けた状態で何とか彼から離れようと必死で後ずさるものの、数メートルとしないうちに背中に硬い感触。
聞き分けのない子供のように嫌だ嫌だと首を振るばかりの私を見つめ、彼の三日月に歪められた瞳が更に細められる。
その場に膝をついた彼と視線が絡み合えば縫い付けられたように私の体は動かない。蛇に睨まれた蛙。まさにそんな言葉が当て嵌った。
私を見つめる優しい眼差しは紛れもなく靖友君と同じなのに、滲む狂気を私は知らない。
ねぇ靖友君、今まで貴方はこんなものを抱えて私の隣で笑っていたの?
「両手と両足切り落として逃げらンなくさせたらさァ、ずゥっとオレの側にいてくれるよネ?」
「っや、」
ベタリと頬が濡れる感覚。それは自分の涙なんて透明なものではなく、彼の手から付着した目眩がするほどの赤だ。警戒色だと脳が私に訴える。
自身を守るように抱きしめる腕は、間抜けなくらいガタガタと震えていた。
「あは、怯えないでヨ。大事な名前チャンにンなコトするワケないじゃなァイ」
彼の顔に付着した血はところどころ酸化しており黒ずんでいる。
その色は靖友君の抱え込んでいた感情と同じ色だと、漠然と思った。全てを塗り潰してしまう色。
そうして私も彼に、黒に呑み込まれる。
「ホント、」
殺してェくらい、スキだヨ。
そっと目を閉じた私の耳元で囁かれたのは、死よりも重い愛の言葉だった。
悪夢で閉じて召し上がれ(20150402 荒北靖友 Happy Birthday!!)
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