来てしまった。
"自転車競技部"と書かれたプレートを一人見上げる。
先程から辺りをキョロキョロと見回し手を出したり引っ込めたりを繰り返している私は、傍から見れば間違いなく不審者だろう。

……これは、勝手に開けてもいいものなのだろうか。
せめて開いていれば近くにいる誰かに頼めばいいのだけれど、その扉が閉まっていることが難点なのだ。
他のクラスで友達を呼ぶ時もそうだけどあの声を発して視線が一斉に自分に集まる瞬間はかなり苦手。自意識過剰と言われたらそれまでだれど、苦手なものは仕方ない。

それに、福富君は多分今まで事務会話程度しかしたことがないクラスメイトの一人だ。部室に顔を出してそんな彼を呼ぶのは何だか緊張してしまう。

どうせやらなくちゃいけないんだから、さっさと済ませちゃえばいいのに。
わかってはいるものの、なんとなく動けずにいたその時。
ヒュウッと耳元で空気を裂く音が聞こえた。包む、と言うよりは体にぶつかるように吹き荒れた突風にぶるりと身震いする。今日は天気自体はとても良いのに、風が強くてセーターだけでは少し肌寒い。もっと着込めばよかったな、と後悔したって無情にも突き刺さる風の冷たさは変わらない。
暗くなれば更に寒くなるのは確実だろう。殊更早く帰らなければいけないはずなのに。

────心のどこかではわかってる。
なかなか扉に手を掛けられない理由は、きっとそれだけじゃないってこと。

「チャリ部、 入ったんだってよ 」

思い出すのは今朝の菜々の言葉。
ここに、荒北君が。

そう思えば手の平がじわり、と汗で滲むような気がした。
なんで私、こんなに緊張してるんだろう。自分で自分がわからなくて、思わず眉間に皺が寄る。

「うちの部に何か用かい?」
「っ!?」

突然背後から聞こえた声にビクリと肩が跳ね、慌てて振り返った。

「あぁ、驚かせちまったみたいで悪いな」
「あ、いえ!」

その言葉に、慌てて首を横に振る。
そうして漸く、私は彼の姿を落ち着いて見ることが出来た。

(わ、かっこいい)

目の前の彼は垂れた目とぷっくりとした厚い唇、そして右手に持ったビスケットのような食べ物が印象的。これが俗に言うイケメンか。
ぼんやりと見つめる私に、彼はニコリと人好きのする笑顔を向けた。

「さっきからずっとそこにいるから何か困ってんのかと思ってさ」
「え!?」

カアァッと頬が赤くなる。恥ずかしい、あんな挙動不振な様をこんなかっこいい人に見られていたなんて。穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。

……でも、それでわざわざ声を掛けてくれただなんて良い人だな。見た目も中身も完璧なんて羨ましい。というより、内面の良さが外見にも反映されたってことなのだろうか。
「オレに出来ることなら手伝うぜ?」その言葉に甘えて口を開く。

「あの、福富君を呼んでいただいてもいいですか……?」

私の答えが意外だったのか、彼は「寿一?」と目を瞬かせた。「福富君と同じクラスなんですけど、プリント集めるよう担任に頼まれて」と付け足せばああ、と納得したようだ。そうしてすぐ笑顔で了承の言葉を返してくれる。

「じゃあ呼んでくるな。えーと、」
「あ、佐藤文乃です」
「ん。佐藤さんだな」

彼の続かない言葉で漸く自分が名乗っていないことに気づく。そういえば私もこの人の名前を知らないや、と同時に気づいたけれど聞く勇気もタイミングもには持ち合わせていない。
大きく重たく見えた扉は、彼の手でいともあっさりと開かれた。

「一年新開入ります」
「え、」

思わず漏れた声は室内の喧騒に消えたのか、彼に拾われることはなかった。
"シンカイ"間違っていなければ、彼が菜々が以前人気だと話していた新開君だろうか。そう言われれば納得だ。あの甘いマスクだもん、モテるに決まってる。
同じ一年生だったんだ。落ち着いていたから先輩なのかと思った。クラスの男の子はもっと煩いから。ああ、でも福富君もかなり大人っぽいか。

「寿一、佐藤さんが呼んでるぜ」
「ム、」

どうやら福富君は入り口から近いところで練習していたらしい。筋トレかな、あの器具凄く重そう。
新開君と扉の間から顔を覗かせ、反射的に会釈をする。
福富君は器具を持ち上げていた手を止めると、汗をタオルで拭いながらこちらへと歩いてきた。

「練習中ごめんね。このプリント集めるように頼まれてて」

抱えていたファイルから一枚プリントを取り出して見せればすぐ何のことかわかってくれたようだ。

「すまない、少し待ってもらえるか」

ロッカーの鞄の中にあると言う福富君に大丈夫だよと返事をする。ロッカー室へと向かっているであろう福富君の背中を見送れば「オレも着替えてくるからロッカー行くな」と声が降ってきた。

「あ、はい。いろいろとありがとうございました」

頭をペコリと下げた後、新開君を見ればなぜか扉を開けたままこちらを見ている。
どうしたんだろう?着替えに行かないのかな?
頭にクエスチョンマークを浮かべながら内心首を傾げていると、新開君は口を開いた。

「中、入ってくれて構わねェからさ」
「え?」
「今日は風強ェから外じゃ寒ィだろ?」

「で、でも」咄嗟に返した言葉の続きを見抜いたように新開君は笑う。

「ハハッ、大丈夫だよ。今先輩達は外周に出てて一年しかいねェんだ」

だからさ、と入るよう促される。おずおずと中に入れば運動部特有の熱気を肌に感じた。
それと同時にチクチクと刺さる好奇の目線が少し居心地悪い。
気まずさから逃げるように何となく目線を彷徨わせていれば「あ、そうだ」と新開君の声。
そちらに目線を向ければ「これでも食べて待っててくれ」とポケットから取り出し手渡されたのは長方形のお菓子のような物。多分、さっき彼が食べていたのと同じ物だ。

「いいんですか……?」
「ああ。それと」

さっきから思ってたんだけどさ、と続けられる。ま、まさか何かやらかしてたの私……!?全身の血の気がさっと引く。けれど新開君が口にしたのは予想外の言葉だった。

「敬語で喋らなくていいんだぜ?寿一と同じってことは、佐藤さん同じ一年だろ?」

無理にとは言わねェけどさ。
ぽかん、と口と目を見開き間抜けな顔をする私に新開君は柔らかい笑みを浮かべた。
いつの間にか食べ終わっていたらしいお菓子の新しい袋をピリッと開け、じゃあと歩き出した新開君に声を掛けたのは、最早反射に近かった。

「し、新開君!」
「ん?」
「練習、頑張ってね!」

その返事とでも言うように、新開君は手で銃のような形を作り、人差し指をこちらに向ける。
こ、これは……撃たれてる?どうすればいいんだろう。何かリアクションをとるべき?どんな?そもそもこれは銃で合ってるの?
ピキリと固まる私を新開君は楽しそうに一瞥し、そのまま行ってしまった。

……な、何だったんだろう。あのポーズ。
考えてみるけれど、勿論わかるはずもない。菜々、こういう話結構詳しいからなぁ、聞いてみようかな。

ぼんやりと頭の片隅にメモをしていれば手持ち無沙汰になってしまったことに気づく。ふと手元に視線を落とせば先ほど新開君がくれたお菓子。
……あ、パッケージに名前が書いてある。
ええと、パワーバー……でいいんだよね?聞いたことないや。
どこで売ってるんだろうと首を傾げつつ、何気なく裏面を見れば並んだ数字に少しぎょっとした。に、221kcal……!?小さいのに結構あるんだこれ……。
お昼に食べたチョコホイッププリンを思い出し、これはまた後日食べようと心に決めた。

「佐藤、」

パワーバーをポケットにしまっていれば突然聞こえた声に視線を正面に戻す。そこにはプリントを手にした福富君の姿。

「待たせてすまない」
「ううん、大丈夫だよ。こっちこそ練習の邪魔しちゃってごめんね」

謝罪の言葉に首を振り、受け取ったプリントをファイルにしまえば訪れるのは沈黙だった。
正直、聞きたいことは山ほどある。でもどれも何と切り出せばいいのか思い浮かばなくて。
ただこの機会をすんなりと捨てられるほど、私は諦めのいい人間ではなかった。

「そういえば、」

何とか会話を続けようと咄嗟に口を衝いて出てきたその言葉の先は考えてすらいない。
どうしようと硬直していれば、ガサリとポケット越しに手に当たる硬い感触。その瞬間頭を過るのは数分前の出来事。そうだ、

「こんなに風が強いのに先輩方は走ってるんだね」

この会話をきっかけに、さりげなく荒北君の話へ流れを持っていけたら。そんな私の企みを含んだ質問に、福富君は律儀な答えをくれた。

「ロードレースはどんな天候だろうと走り続ける過酷なスポーツだ。どんな状況だろうと対応出来るように練習している」
「そっか」

凄いね、ロードレースって。素直な感想を述べれば少しだけ福富君が誇らし気に笑ったように見えたのは、私の気のせいだろうか。
福富君の顔を見つめていた、その時だった。

「おい鉄仮面ッ!!」

ビリリと空気を震わせた突然の大声。大きく心臓が跳ねたのは、その声が聞き覚えのあるものだったからという理由も間違いなく含んでいる。
部室の奥の方。そこに彼は立っていた。遠目からでも照明に反射して、彼が汗だくになっているのがわかる。
特徴的なあの髪型は、今や見る影もなくなっていた。

髪、切ったんだ。自分で切ったのか長さはバラバラ。でもその顔はどこかスッキリとしていて。それはきっと、髪型のせいだけじゃないと思った。

「二時間キッチリ回して、やっ……」

バタリ。まさにそんな音。
まるで糸が切れたように荒北君は前に倒れた。
目を見開く私を福富君は大丈夫だと宥める。落ち着いて周りを見渡せば皆慣れたように冷静に対処しているようでどうやら心配することはなさそうだ。

「また倒れやがったのかアイツ」
「昨日もだったろ。本当迷惑だよな」

指示が飛ばされる喧騒の中、そう話す声が耳に届く。その言い方から察すると荒北君は、そう思えば私はほぼ無意識のうちに口を開いていた。

「あの、」
「ム」
「荒北君って、いつもあんなに練習してるの?」

私のその質問に、福富君は肯定の言葉を返す。

「ああ。入部して以来指示通りメニューをこなしている」

ああ、やっぱり。福富君の言葉はストンと胸に落ちた。

あの日だってそうだった。きっと彼は、無茶する人だ。例え自分がどんなにボロボロになろうと目標を達成するまでその足を止めない人。
それが荒北君の例の過去と関係しているのだとしたら、そう思えば無意識のうちにファイルを持つ手に力が篭る。
私は荒北君の過去を詳しく知っているわけじゃない。きっと一部の欠片程度なんだろう。けれど、昔からそうなのだろうと確信にも似た思いを抱いた。

思い浮かぶのは懸命に前を向こうとしていた彼の後ろ姿。支えることもその背中を押すことも許されなくとも、見つめることくらいは許されるだろうか。

「福富君、」

それは、祈るような賭けだった。

「もし自分が知らない人間から応援されたら、それって迷惑だと思う?」

あと一歩が踏み出せない臆病な私は勇気が欲しくて。
他人から許されたという保険が欲しいどこまでも身勝手な人間なのだ。

縋るような声色と目線で尋ねたその問いに、いやと彼は否定の言葉を述べた。

「人からの好意を無下にする人間などいないと思うが」

その言葉に堰を切ったように感情が溢れ出る。

でも、蓋なんてしないよ。その言葉を聞いて我慢出来るほど私は大人じゃないから。
荒北君の頑張る姿は私の胸を締め付けて、想いは声にはならない。

それでいい。声という形にはならなくとも、文字という形に出来ればそれで。
比例するように震える手が求めている物はただ一つだけだ。


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