放課後の教室にカリカリとシャーペンの音が小さく響く。その音は私の「ん゙ん゙ー……!」という低い唸り声と共にピタリと止んだ。
ああ、やってしまった。頭に過るのは後悔だけ。
今朝の早起きがたたったのか、六時限目の数Iの記憶が殆どないのだ。意思に反して下がってくる瞼に必死で抵抗してみたものの、結果は虚しくも敗北の二文字だった。
しかもそんな日に限って、どうやら今日の単元が理解出来ていなければこの後の授業についていけなくなるらしい。
ペラリ、今日とったはずのノートを見つめるけれど走っているのは文字の形を成していないただの線ばかり。自分で書いたくせに全く読めないそれ等に思わず頭を抱えた。
いくら苦手と言ったって、流石に赤点を取るわけにはいかない。それが一年の文理共通履修ともなれば尚更だ。
……そうはわかっていたって、
(頭痛くなってきた……)
もう嫌だ、帰りたい。
教科書を読んでみたってなかなか頭に入ってこないし。自業自得なのはわかっているけれど、逃げ出してしまいたいのが本音だ。
でも家じゃ絶対集中出来ないしなぁ。優柔不断なのは私の悪い癖だけど、自覚していたって簡単に直せるものじゃない。
ウダウダと答えを決めかねていた、その時だった。
「来たぜ、福ちゃん」
ガラリとすぐ後ろのドアが大きく開かれる音と共に、聞き覚えのある声が静かな教室に響き渡る。
まさか、この声は。一瞬浮かんだ答えを否定するように心の中で頭を振る。
そんなわけない、きっと何かの聞き間違いだ。だって、彼がここに来るわけないんだから。
その考えを肯定すべく恐る恐る振り向いた時の私の顔はきっと、世界で一番間抜けだったのだろう。
カシャリ、落としたシャーペンの立てた音がどこか遠くに聞こえた。
「……ハァ?」
いねェじゃねーかヨ、と荒北君が眉を顰める。
その瞬間、こちらへと視線を向けた彼と目がバチリと合い、思わず体が固まってしまう。
一瞬で頭の中が真っ白になってしまって、喉の奥に張り付いたように言葉が出てこない。
「おい、落ちてンぞ」
「っえ、あっ!ありがとうございます!」
まさか向こうから声をかけてくるとは思わなくて、不意打ちのそれに肩がビクリと跳ねた。
どうやら荒北君の方まで落ちたシャーペンは転がっていってしまったらしい。
荒北君はそのシャーペンをわざわざ拾い、こちらへと手渡してくれた。それを受け取りながら恐る恐る声を発する。
「あの、どうしてここに……?」
「あ゙?」
言ってからお節介だったかと気づき肝が冷えたけれど、怒っている様子はないようでほっと胸を撫で下ろす。
「オレァ福ちゃんにメニュー受け取りに来るよう言われてんだヨ」
福ちゃん?と内心首を傾げるも荒北君を見れば思い浮かぶのは金髪の彼だった。
福富で福ちゃん。納得したけど荒北君がその音を口にするのはなんだか意外で可愛くて、少しだけ緊張が和らいだ気がした。
「どこ行ったか知ンねーか」
「うーん……ごめんなさい、私にはちょっと」
でも、と付け加えるように言葉を続ける。
「この教室なら一時間前から私しかいないよ?」
「ア゙ァ゙!?人のこと呼び出しといてどこ行ってやがンだあの鉄仮面……!!」
「ったく、」と舌打ちを零しズボンのポケットに手を入れながら荒北君は教室を出ようとする。その背中を見た時ふと朝のHRで担任が呼んでいた名前を思い出した。
「あ、もしかして」
ちょっと待ってて。その言葉に荒北君が再びこちらへ振り返ったのを感じながら教卓へと駆け寄る。
教卓の上に置かれているラミネート加工の施されたその紙はクラスでの当番がいつ回ってくるのかが書かれた物だ。
えっと、今日の日付は……
「やっぱり」
今日の日付の隣に書かれた"福富"の文字。
荒北君の目の前まで行き、その紙をペラリと見せた。
「掃除してるんだと思う。福富君、今日日直だから」
そういえばあの日は私が日直だったっけ。ふと気づけば懐かしい思いに駆られる。
決して長いとは言えないけれど、彼と出会ってから間違いなく時は経っていた。
彼に綴った三枚の手紙と、受け取った一枚のノートの切れ端。それが証だ。
初めてロードに乗った荒北君は何度も倒れていたのに、遂に優勝して。
改めて思えばそんな彼の努力を少しでも見つめていられた事実が堪らなく嬉しい。
上手く言えないかもしれない。けれど、本人を目の前にしたら手紙だけでなく自分の声でも伝えたくなってしまって。
「優勝、おめでとう」
突拍子もないそれに荒北君の目が見開かれる。当たり前だ、何の脈絡もないんだから。そう自己完結をする。
だから「えっと、福富君から聞いて……」と言い訳のように付け加える私は、彼が私の言葉を手紙と重ね合わせていたことなんて知る由もなかったのだ。
「荒北君?」
「ッ!」
反応のない彼に声を掛ければハッとしたように肩を小さく跳ねさせる。
本当に自己満足で伝えたかっただけ。彼の口から返される言葉が怖くて「今なら多分、福富君は化学室の掃除してると思うよ」 と話題を変えるようにそう伝えた。
そうだった、と本来の目的を思い出したような表情を浮かべた荒北君はチラリと教室に掛けてある時計を一瞥すると再びこちらへと視線を戻す。
「邪魔して悪かった」
「ううん!とんでもないよ!」
笑って首を横に振る。すぐに出て行ってしまうかと思っていたのに、目の前の荒北君は「あ゙ー……」と目を逸らし、首の後ろを掻いていて。
どうしたんだろう?と不思議に思い見つめれば、彼は予想していなかった五文字を口にした。
「あんがとネ」
「えっ」
伝えると同時にクルリと背を向けてしまう。
でも、それでよかったと思う。だって今の私がどんな顔をしてるか、自分でも想像がつかないくらいなのだから。
反芻するのは彼の口から紡がれた五つの音。
その音を心の中で溶かす度に、じくじくと胸の奥で熱のような何かが燻る。その熱はすぐに全身へと広がった。
勘違いするな。彼は手紙の差出人が私だなんて1mmたりとも知らないんだ。それがまるで今までの行為に対して言われたみたい、なんて。勘違いも甚だしい。
それでもお礼を言われたことが、どうしようもなく嬉しくて。
何と返すべきか逡巡している間に荒北君は行ってしまいそうだったけど、待ってと引き止める勇気は私にはなかった。第一、引き止めてはいけないような気がした。
だからその背中がこの空間から出て行く直前、咄嗟に叫んだのだ。
「ど、どういたしましてっ!」
舌が縺れそうになりながら紡げたのは、この言葉だけ。
チラリと一瞬首を曲げ、視線をこちらに向けた荒北君の頬と耳は薄い朱に染まっていて。
男の子にしては細い、けれど私よりずっと広い背中がドアの向こうに消えていくのを見つめながら、きっと私も同じなんだろうなとぼんやり頭の隅で考えた。
見つめたその背中があの日と比べて少しだけ逞しく見えて、思わず声を掛けたくなる。けれど掛ける言葉どころか最初の一文字さえ見つけられていない自分に苛立つだけで。
やっぱり私は手紙を書くことしか出来ないのだと痛感した。
(……よし、)
荒北君は頑張ってるんだ。私もあとちょっとだけ、頑張ろう。
頑張る彼の手助けをしたいだなんて言っておいて、結局励まされているのは私の方なのだ。
自分を鼓舞するように軽く両手で頬を叩いてから席につき、再びノートへと向き合う。
握ったシャーペンが暖かい熱を持っていたのはきっと、気のせいじゃないはずだ。
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