月影と道 | ナノ

月影と道

お願い、触れないで



秋は短い。それから、俺を憂鬱にさせる。これからもっと寂しくなるぞと、そんな事を告げるように、痛いくらいに冷たく寒い。
世界はこれからもっと色を失う。頭を打ったような気がしたあの日に、色なんて全て失ったようなものだったけれど。それでもまだ、これでもかと言いたくなるくらい、色を捨てていくのだ。

「うう、さむ……っ」

俺がいつも通り自主練を終える頃、部員は全員居なくなっていた。あれから俺はテニスに打ち込むようになり、嫌な事を忘れるみたいにしてラケットを握った。テニスをしている間は変な事を考えなくて済むから。
ずっと手に付かなかった練習が漸く戻って来たみたいに。サボってきた分を取り返そうと自主練の時間を増やしたのだけれど、増やせば増やすだけ反省点が見つかる。じっくりそれと向き合う。明日はどうしようかとメモをする。それから、部室の簡単な掃除をして。後輩や同級生は皆とっくに練習を終えているので、あとは頼んだぞと置いて行かれた鍵で部室を閉めて、顧問の先生に報告。ようやっと俺は家路につく。そんな生活になった。
ただ起きて食べて寝てだけを繰り返していたような、それしかしたくなかった生活とは正直変わらない。テニスに費やす時間を増やしただけ。以前よりもクタクタになって帰るだけ。けれどもそれが出来るようになったのは、いつも通りの朝が訪れ、いつも通り友人が俺の所へやって来て、いつも通り笑いかけてくれたからだと思う。頭の隅にいつもあるぐちゃぐちゃしたものが、少しずつ少しずつ、解けていくような気分だ。
秋の風が、誰も居ないグラウンドを駆け抜けていく。さむっ。もう一度出た言葉が、真っ暗な空に白く濁って融けていった。

重い鞄を持ち上げて、俺はここ何日かですっかり身についた事達を済ませ、先生から「最近よう頑張っとるなあ」との言葉を頂き、門までの道をひとりで歩き出した。
嫌味なくらい綺麗で明るくて大きい月が照らす道を、見覚えのある後ろ姿が俺より小さな歩幅で同じ方向へ進んで行く。

『楓ちゃんって呼んでも良い?』

ああ、そういえば。あれから少しも話していないではないか。
何故あのような言葉が出てきたのかは分からないけれど、優しく微笑む彼女の優しい言葉に、触れてみたかった。彼女の心に、触れてみたかった。きっとそうなのだと思う。
気になって仕方がないとか、しきりに思い出すとか、ドキドキするとか、そういう類のものではないけれど。ないけれど、確かに俺は、目を閉じてあの日の事を思い返すと、口の端が少しだけ、穏やかに緩む。

思い返せば、優しそうだと思った彼女に、甘えたかったのかもしれない。肩を借りたかったのかもしれない。たったひとりの事を想って泣くのも、楽しい思い出に縋るのも疲れたと、甘えたかったのかもしれない。言葉に託す事は疎か、そんな情け無い姿を誰かに見せる事なんて出来る筈も無いのに。
謎に与えてくれる安心感に、甘えきってしまいたかった。彼女の生きる速さはまるで俺の鼓動ときっちり同じかのように、出会ったその瞬間から何故か、俺自身が一番よく分かっていないのだけれど、息をするだけでも安心出来てしまったのをよく覚えている。

だから、友達なんだ。俺の心の中に隠れたものを覗いてほしくはないけれど、触れてほしくはないけれど、傍に居たいから。たった一つの微笑みで心を許してしまうようなこのひとと、今は1秒でも長く一緒に居たいから。そう、願う事を許していてほしいから。だから、友達になろうなどと突拍子もなく言ったのかもしれない。
決してそれ以上は踏み込みませんと、自分から一線を引いた。

「楓ちゃん」

口をついて出たのは彼女の名前だった。響きすらどこか心地よいその名前を声に乗せた瞬間、またひとつ秋の風が吹き、彼女の柔らかそうな髪が拐われてしまいそうだった。
徐に振り向いた楓ちゃんが秋の月に照らされる。何故かその瞳が一瞬、確かに揺らいだように見えた。本来ならば声をかける前に肩を叩こうとしていた左手が一度宙を彷徨ったが、鞄を持ち直して誤魔化した。

「久しぶりやなあ」
「…そうだねえ」
「えらい遅い時間までおったんやな、何してたん?」
「古文の講習、今日からなの。先生が気合い入っちゃって、こんな時間まで」

彼女の俺を見つめる目はいつも綺麗だ。どこから差し込んだかも分からない光を携えて優しく微笑む。照れくさそうに髪を触る仕草も、何かを問うと答えを探して右上の方を彷徨う視線も何もかも、何故かよく分からないが安心してしまう。歩く速さや勿論鼓動だってそれぞれ違う筈なのに、何かの速さが同じで。それが何なのかは俺が分からないし、きっとこの先も他の誰かが分かったとしても俺だけは分からない。そんなものが、彼女の中に存在している気がする。

「いやー、まさか楓ちゃんに会えると思ってなかったわ」
「私もまさか、白石君がまだ居たなんて……もう結構遅い時間だよね。お疲れ様」

彼女のその声と同時ぐらいに、俺達は学校を出た。長い長い一本道が駅まで続く。緩やかな下り坂が、ずうっと向こうまで続いているみたいな道が、また月明かりに照らされていた。
ありがとうなあ、楓ちゃんも勉強お疲れ様。そんな事をぼんやりと彼女に投げかけると、隣で彼女はふふっと小さく照れくさそうに笑った。どくん。またひとつ打った鼓動が何かと合わさる。彼女の、何かと。得体の知れない何かと言えばそうなのに、不思議と安心する何かと。ずっとずっと前からある、何かと。

彼女と他愛もない話をしてその道を歩いた。文房具にはとことんこだわる俺に、オススメのシャーペンを教えてくれたり。お互いの最寄り駅はどこだとか、出身中学の話とか。可愛げのない後輩の話とか……謙也の話とか。そういったしょうもない話を、いつまでも続けていたくなるひと。この人は優しいから、日常がきらめいている。この人は、優しい。そう確かに思ったとき、またひとつ何かが重なったみたいに、ピタリとその人の足が止まった。

「昔の人はね、月の光を、月影って呼んでたんだよ」

光があれば、必ず影が存在するって事。だからね、大丈夫だよ、白石君。優しい声が、あの春に紡がれた記憶を、そっと解き始めた音がした。
悲しいくらい美しい月の裏側に行って、影に隠れて、泣いてしまいたかった。

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