月影と道 | ナノ

月影と道

幸せが朽ちた音



謙也君から英語のノートを受け取ったその手で、階段の手摺りをギュッと握った。自信を無くした様にフラつく足を止め、鼓動が五月蝿い胸元にそっとノートを乗せると、脳内に響くのは好きな人の言葉。楓ちゃんって呼んでも良い?と。彼は確かにそう言った。
あの日から私達は友人という関係になったのだから、何ら不思議な事は無いのだと思う。楓ちゃん、蔵ノ介君、と呼び合ったって何も変な事は無いのだろう。しかし私の中では一大事だった様で、何度も何度もあの優しく耳に響く穏やかな声が反芻される。そっと目を閉じると柔らかい色をした髪の毛が蘇り、少し寂しげに笑う瞳が蘇り、そしてその言葉が彼の声でまた再生される。どきりと震えた心臓が私の全身を火照らせると直ぐ、廊下中に秋の冷たい風が吹き、静かに私も鎮められた。

ふと、よく通る声が私を我に返らせる。声がした方を勢い良く振り返ると、逆光で誰だか分かりにくいものの、声でよく分かる。この声は、

「謙也君、どうしたの?」

息を切らせて私の方へ来る彼の名を一つ呼ぶと、彼は言いたい事があると言った。あと三分で予鈴が鳴ると言うのに、言いたい事なんて何なのだろう。首を傾げると、時間も無いし単刀直入に聞くで、と前置き。頷く間も返事をする間も無く、彼は私に矢を突き刺す様に、こう言ったのだった。

「中途半端な気持ちでは白石に近付かんとってくれ」

私の頭の中に何かがあるとしよう。そうだ、鐘があるとしよう。大きな大きな鐘が。それが突然、謙也君の全力で叩かれたのだ。音がどうとか鳴っているとか鳴っていないとか、そういう話ではない。大きな鐘の大きな衝撃が、何の心の準備も出来ないまま即座に私の全てに伝わったのだ。
立ち尽くす私の手から力が抜け、持っていたノートがスルリと、英語の長文をチラリと見せながらぐちゃぐちゃになって落ちた。普段は頭を捻らせてウンウンと悩み睨めっこする英語の長文が、今は記号にしか見えない。

今、何て?

私の声は恐らく声になどならなかった。謙也君は、そっと拾い上げた緑のノートの砂をはたき落とすと、私に対してまた一言。すっかり整った息にはっきりと声を乗せ、言葉を紡ぐ。私の質問を汲み取った様に、珍しく眉間に皺を寄せて。

「…白石が好きなんか?」
「えっ…」
「まあ俺なんかには言いたくないやろうし、好きなら好きで俺は何も言わんけど…中途半端な気持ちでは絶対に近付かんとってほしい」

見た事も無い様な謙也君の真剣な、真っ直ぐな眼差しが私を捕まえて離さない。学校中に鳴り響く予鈴が何処か遠い気がする。

何か言わなくちゃ。何か返事をしなくちゃ。動かなくちゃ。もう授業が始まるから行くよって、言わなくちゃ。言わなくちゃ駄目なのに。私の瞳は静かに濡れた。

「何が、あったの…?白石君に、何があったの?それだけ教えて。白石君は白石君じゃないみたいで、私なんか白石君の何も知らないのに何だか、白石君が居なくなっちゃいそうで、消えちゃいそうで、怖い…」

怖い。初めて言葉にしたそれは、私の全てを止めてしまいそうで、胸が痛くて、苦しい。震える手が宙を彷徨うと謙也君に手首を捕まえられ、ビクッと肩が跳ねる。謙也君の視線は何処か痛くて悲しくて、見ていられない。その代わりに謙也君の手に目を遣ると、謙也君の手も震えていた。怒りなのか悲しみなのか、大好きな友人の負の感情を背負っている様にも見えてしまう。

「失恋、したんや。白石は、大好きやった人にフられた。…それだけや」
「それ、だけ…?」
「俺はもう白石に傷付いてほしくないんや。あいつは優しいから何も言わんだけで、傷付くんちゃうかって…香山はそんなつもり無い事は分かってるけど、中途半端な気持ちで白石をいつか傷付けてしまうならやめろって…そう言いたかった」

私ってそんなにも信用無いの?と。笑ってそう言う場面だったのかもしれない。けれど私には、こう言う事しか出来なかった。白石君が好きなの、と。

「私は、白石君が好き。好きなの。白石君を守れる人になれたら良いって、今はこんなちっぽけな存在でもいつか、白石君を守れる人になれたら良いのにって、思ってる。好きなの。白石君には、笑っていてほしい…」
「分かるわ、その気持ち」
「傷付ける様な事はしないよ。ただ白石君が心配で、」
「ありがとうな」

ほらもう教室に戻れ、と言った謙也君の頬は、気が付けば濡れていた。そして何か返事をする様に眉を下げて笑ったものだから、きっと私は綺麗に笑えていたのだろう。彼の痛みも知らないフリをして笑えていたのだろう。

『楓ちゃんって呼んでも良い?』

こんな時にも彼の声と言葉を思い出してしまうから、きっとあの時と同じ様に笑えた筈だ。

窓の外では一つ、また一つ、悲しくなるほど綺麗な青空の中、紅い葉が、ハラリと落ちていった。

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