月影と道 | ナノ

月影と道

拝啓、君



ある春の日、君に恋をした。
この学校は桜並木が素晴らしいと近所でも有名だ。満開の桜と、散った後の桃色の絨毯。それを目当てにこの学校を受験する者も中には居るらしい。その季節に僕は、君に、恋をしたんだ。

脳内を駆け巡ったものは何だっただろうか。俺たちが出会って物語が始まったその日と、何かが重なったような気がした。憂いと共に優しさを抱き締めた言葉たちは、生き生きと俺の中で輝きながら息を始める。

ああ、そうか、俺、。


謙也と話を終えた俺は教室へ戻る途中だった。古風にも中庭へ呼び出されいわゆる告白というものを受け、誰かの想いがどこか背中にのしかかるような。ズシリと重い。教室へと続く階段の最後の一段を踏むと、沈むようなため息がひとつ出た。ため息を吐いたら幸せが逃げるよ、なんてあの人が言ってたっけ。もう充分、幸せは逃げたよ。幸せが幸せでなくなったから、ため息にして逃がした。そうすれば、また違う幸せが舞い込んだのだ。
教室が隣接する廊下の窓からは日差しが穏やかに降り注ぐ。桜の木越しに窓へと向かう日の光がキラキラと揺れるように。それを、見慣れた横顔で見つめる女の子が、ひとり。


「楓ちゃ、」

響きでさえもどこか優しい名が口をついて出ようとした瞬間、確かに時間が止まった。そうしてまた動き出した時には、いつもの何倍もゆっくり、ゆっくりと、流れていく。
彼女の瞬きひとつとっても、いくつもの絵が何秒もの時間をかけて変えられていくように。どこか物憂げな横顔は何を思うのだろう。何を見つめているのだろう。誰を、想っているのだろう?
どうして瞳を揺らすの。どうして、そんなにも、今にも泣き出しそうに微笑むの。
子どもが母親に問いかけるような疑問が幾つも幾つも言葉になるのに、それは疎か俺は何十秒が経とうとも名前さえ呼べずに居た。

こうして俺はずっと、楓ちゃんの横顔だけを見てきたのかもしれない。だからきっと、楓ちゃんの気持ちも半分しか知らない。何が好きで、誰が好きで、どうして優しいのか。今どうしてその表情をしているのか。俺は本当に何も知らない。事実しか知らない。香山楓という女性が存在していること。彼女が優しいこと。彼女は謙也の友達であること。友達思いであること。笑うと幼く見えること。そういう、事実しか知らない「どうして」は、欠片も知らないのだ。
ただ純粋に、単純に、知りたい、と。そう思う。

もう一度躊躇いがちに開いた口からは、胸の中に溢れた想いが言葉になることも、それが声に託されることも無かった。ただ、収めきれなくなった想いが溢れて、吐息になって零れただけだ。はあ、と。胸を満たすものは何なのだろう。春の日差しによく似ている。穏やかで、優しくて、柔らかい。角なんてどこにも、ひとつも無い。ぶつかっても叩いても、怪我なんて出来ないような。

それはきっと、また新しい彼女の横顔を垣間見たからなのだと思う。依然としてゆっくりと流れる絵は、風が彼女の髪で遊ぶ様子を描く。窓から入ってきた風は何枚か淡い色をした花びらを携えて、彼女を迎えに来た。春が、よく似合う女性だ。春の穏やかさと、秋の憂いを併せ持つ。
美しい、と。単純明快なその言葉で果たして足りるだろうか?この世に溢れる優しさや美しさを表す形容詞の、どれが相応しい?結論などどれだけ考えても辿り着けそうにない。それは恐らく、思考の8割ほどが停止してしまっていることも原因なのだろう。

どくん、と。大きく音を上げる拍動があまりにあからさまで苦笑さえも零れない。強く全身へと送られるはずの血液が、今は何故か首から上で滞在する。瞬時に顔が熱を孕んで、ああそうか、と。またその想いの名を自覚した。名前を一度付けてしまえば、曖昧だった距離感や関係性がすぐに色と形を持った。
俺は、この人のことを。

「あ、白石君。謙也君とは会えた?」
「あ、うん。会えたで。」

その声で、真っ赤に色付けられた俺の顔面は少しずつ普段の体温へと戻っていくのが自分でも分かった。ほとんど空っぽというべきか、虚無にも近い俺の存在に気づいた楓ちゃんが俺の名を呼び、代わりに俺を現実へと引き戻す。帰ってきて、と脳を優しく叩く声はやはり春だ。春なんだ。この人が春を連れて来たのかと錯覚してしまいそうにもなる。胸の奥を擽られるみたいに、そっと微笑みを返した。「良かった」と同じ微笑みを零す彼女に、また、どくん、と。

この人はきっと、いつだって俺の中で生きている。離れていても、さようならをする日が来ても、いつか俺を嫌いになる日が来ても、俺の中ではこの人が生きているのだと思う。
俺の中に住み続けてきた人は、この春、俺の中で息を止めた。二度目の、終わりだった。そういうことなのだと思う。恋とは、そういうものなのかもしれない。それでもこの人には、いつまでも優しく穏やかなままで俺の中に存在して、生き続けていてほしいと、そう、思ったのだった。


ある春の日、貴女に恋をした。貴女と出会った春が、貴女無しで僕に贈られるのです。

そうしてまた、ある春の日に、君に恋をした。いや、きっとそれよりずっと前から。もっと、世界中が色を失っていたような時から、君に恋をしていたのだと思う。君と出会い恋をして、この目で見つめる世界の全ての色が淡く朧げに綻んだ。


ねえ、君。僕の心を見つけて。

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