月影と道 | ナノ

月影と道

花笑みの予感に似ていた



桜の花びらって、散った後はどこへ行くのだろう。自分の胸に浮かんできた疑問が、何故だか誰かの声で紡がれる。
小さい頃に見上げた桜の木は空を薄紅色に見せた。あの時よりも日焼けした網膜に写されるのは少しばかり色褪せて見える。より白に近くなったその花が、それでも懸命に咲いては息をしていた。

俺の机の中で待っていた手紙には「始業式の後、中庭に来てください」とだけ書かれていた。差出人の名前はあったものの、ぼんやりとも思い出せない。高校生にもなるとクラスも多いし関わりのない人も多い。仕方のないことだから無視しようともしたが、さすがにいつまでも待たせるのは申し訳なくて夜も眠れなくなる。もしイタズラだったらそうだと分かってから無視すれば良いだろう。そういうわけで俺は、始業式後のホームルームが終わると中庭に向かった。

春が来ますように。誰もがそう祈る中、俺もきっと春を待っていた。ようやっと訪れた春には暖かなものが隣にあって、優しく世界を彩って。そういうものだと思っていたけれど、何かに焦がれる春というのもこの世にはあるのだと囁くみたいに、よく知りもしない女生徒は頬を薄紅色に染め上げて熱を帯びた言葉を俺に贈った。


「好きです。付き合ってください」


全身がざわついた気がした。いつしか自分の中で蓋をした感情が暴れ出したのかもしれない。俺にとっては初対面の相手の恋心だ。単純に嫌悪したのかもしれないし、怖かったのかもしれないし、もしかすると嬉しかったのかもしれないし。どういう方向にかさえ分からずただ揺さぶられる心に応えるように辺りもざわめいた。数えきれないほどの花びらが吹雪のように舞う。散った後は、どこへ行くのだろう。

世の中の同い年の奴らは脳内が忙しいなと思う。こうしてよく知りもしない相手に好きだと言って答えに一喜一憂して。それが1年のうちに何回もある人間も居る。
それに比べて、まあ比べる意味もないが、俺はあれから、先輩と恋をしてからそういう方向に心が揺れたことはない。まだ引きずっているなんていうことはないが、それでもまだ誰に対してもそういう気は持てない。

暖かな春が好きだ。暖かな春がいい。そうでなければ俺は、きっともう保たないから。壊れてしまう。これ以上のそういう感情は要らない。ただ穏やかに友人を想って友人に想われて大切にして大切にされて。そんな日常が幸せだから、もう欲しくない。特別も唯一無二も愛してるも要らない。欲しくない。俺がこの先も息をするためならば、そういったものは淘汰すべきなのだと、求めるべきではないと、そういうものだと、解釈している。


「ごめん、俺、忘れられへん人がおるねん」


咄嗟に出た言葉は決して思い付きなどではなかった。かと言って考えていた答えでもないし、脳だって介していない気がする。本能的に出てきた。それが一番近いかもしれない。
誰を思い浮かべて発したでもない言葉は、恐らく相手に刺さるより早く自分の胸を鋭く突き刺す。忘れられない、ひと。突き刺した後は何度も何度も、他の音も聞こえなくなるくらいに反芻した。
そっか、と。苦笑いして寂しそうな背を向け走った女生徒をぼんやりと見つめてようやっと、己が零した言葉の意味を理解する。

俺には、忘れられない人が居る。

確かに好きだった。毎日が夏のように焦がれた日々。恋い、慕い、焦がれた。それは恋だった。俺はそれを、恋と呼んだ。あなたも俺のこの想いを恋だとした。恋、だったのだ。好きだった。好きな人とはつまり先輩のことでしかない。後にも先にもきっと恋をしたのは、恋をするのは、先輩だけ。
でもそれはすべて、過去の話であって。恋だとか愛だとか、もうこの胸にはなくて。思い出ばかりが顔を出すけれど、恋い慕った想いはずっとずっと奥にしまってある。きっともうその想いが先輩に対して蘇ることも恋と呼ばれることも、ない。

確かに恋ではなくなっても忘れられない人だ。一生忘れていくことはない。心の中のどこか特別な場所を、この身が朽ち果てるまで占め続けるのだろう。


楓、ちゃん。


わけも分からず浮かんできたその名が、まるで俺を夏に連れて行ったように熱を与える。身体中に元気な血が通ったみたいだ。

君と居ると全身が深く息をするようで、自分の中でぐちゃぐちゃに閉じ込められた息が全て抜けていくようで。それは君と話すともっと顕著で、こんなにも息の詰まる世界でほんの僅か、自分が息をしていると実感するし、それが許されているのだと思える。

思えばそうだ、先輩に恋をしてぎゅうぎゅうに締め付けられた想いを君は解いてくれた。少しずつ少しずつ緩めていってくれたみたいに、ここに居ても良いんだよって包み込むように、消えたくなった夜にだって俺が居たい場所へと導いてくれた。だからきっとこの想いは、先輩への想いとはまた別で。恋と呼んで良いのか分からない、というより、そんなことは烏滸がましい。

忘れられない思い出を忘れたくない思い出だとはっきりさせたのも、忘れたくない思い出をそういうものだと仕舞っておくのを許してくれたのも、薄れていかせたのも、ここまで歩かせてくれたのも。単なる俺の比喩であったとしてもそれは紛れもなく君だ。「忘れられない」と嘆き苦しむ中で君と出会い君を求め君の優しさに融かされた。先輩。脳内でそう呼ぶよりもずっと先に君の名前が浮かんでくる。今この瞬間だって、俺は君を求めている。

君は君で、俺の心の中の特別な場所に棲んでいる。

ああそうか、俺は、こんなにも。


散った恋は、どこへ行くのだろう。きっとそれは、自分の胸の奥だ。そして、散ってはいなくても胸の奥で優しく微笑みかける人が居る。忘れられない人とは、もしかすると、君かもしれない。きっとこの先、俺たちの未来がどんな風に進んでいっても、どんな風に別の道を歩んでいったとしても。忘れられないことさえ優しくなる。

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