月影と道 | ナノ

月影と道

「あの日、君はね」



仕事に行ってくるから、何かあったら連絡してね。見慣れた綺麗な字が真っ直ぐ並んでいた。リビングのテーブルに残された紙切れに浮かぶその文字をぼんやりと見つめていると、自分が今ひとりであることがようやっと理解出来た。それは恐らく物音のひとつも無いこともあったのだろう。規則正しく無機質に音を鳴らして時を刻む掛け時計だけが、ただただ今を知らせている。
ふう。焼けるように熱い喉を通る息は更にじりじりと喉を焼くようだ。ささくれ立った皮膚を執拗に撫でるような痛さに眉を顰める。背中はべっとり濡れているような気がする。額に乗せた冷えピタは先ほど変えたところなのにすっかり干からびてしまって、私の全身が、何から何までが、「しんどい」と弱音を吐いている。

母親が作ってくれたおかゆを何とか胃には運ぶことが出来たものの、美味しいか美味しくないかはよく分からないし喉を通るたび叫んでしまいそうだし。小さい頃のいつ以来だろう、ここまで本格的な風邪をひくのは。風邪なんてひいてもマスクさえすれば普通に学校に行けたり、少し気だるいなあくらいは何度かあったりしたけれど、ここまでは本当に久しぶりだ。

最後に熱を出した記憶が私の中で渦巻いて、ほんの少し瞳が濡れた。ごはん食べられそう?大丈夫?スポドリ飲みなさいね。お母さんがしきりに言っていた言葉が透き通って蘇る。暖かかったなあ。今もお母さんのその優しさは変わらないけれど、どうしてこんなにも沁みるんだろう。

そうして足元がおぼつかないまま自室に戻り、いつの間にか私は意識を手放していた。


ふわり。


「あ、起きた。よう寝てたなあ。もう夕方やで」


ふわり。暖かな日差しに包まれたような想いが、花が舞うように呼び起こされた。優しい響きのその声は聴き慣れているものだ。誰のものかすぐ分かる。大好きな声。だいすきなひとの、声。
名前さえもどこか優しい響きの彼の名を呼びかけようと声を絞り出そうとするも、喉がぎゅうっとなって押し殺される。また情けなく瞳が濡れると、その人は困ったように笑った。

「そんな泣かんでも、な。泣かんとって」

ああ、私、その表情がすごく好き。声が好き、姿が好き、仕草が好き、私の名を呼んでくれる瞬間が好き。もう、これでもかと思うくらい、しあわせ。

「あ、の……」
「わー、すごい声。大丈夫?筆談でもしよか」

そう言って彼は笑った。鞄から取り出したのは教科書と、ルーズリーフとボールペン。彼らしくシンプルで、とても使いやすいと評判の。分厚い生物の教科書は、下敷き代わりにしてくれた。
潤いも透明感も、微塵もなくなった私の声を、喉を労ってそんなことをしてくれて。そういうところが、好き。好きが溢れ出すと止められなくなって、止められなくなったらまた泣きたくなって。どこから出てくるんだろうと我ながら不思議に思うくらいに、また涙が込み上げてきた。それに気付いたその人はまた、少しだけ苦く笑った。ごめんなと言って。

どうして来てくれたの?

彼が手渡してくれた紙にサラリと文字を書くと、大きな瞳でそれを覗き込む。文字を読み終えると、まるで合図でもしたかのように私をじっと見つめた。
紙を覗き込んでいたそのままの瞳で私を見つめるから、記憶のどこか大切に大切にしている宝箱のような場所から、そっとあの日のことが顔を出す。あの日、誰よりも近くに居た時のこと。くっついて、あなたの鼓動を感じた。あなたの、温もりを感じた。悲しみを、苦しみを、痛みを、孤独を、悲痛な叫びを、感じては少しだけ分けてもらえた気がした。あの時よりもあなたは私との間に距離を置いているのに、少しだけ紅くなった頬を見ていると、またあなたの鼓動が伝わってきそう。私の鼓動も、伝わってしまいそう。その紅くなった頬は、夕焼けのせいですか。それとも。

あ、えっと。暫しの沈黙を終わらせたのは歯切れの悪い彼の声。私と合わせていた視線は気まずそうに宙を舞う。そんな顔をされたら私、熱が上がってしまいそう。

「謙也が、行ってこいって。謙也と電話してたやん?そのとき俺おってさ、お前が行ってこいって、言われて」

今日は部活が終わった後に謙也君が珍しく電話をかけてきた。やっとの思いで出たと思えば特に用件を伝えられることはなく、労う言葉だけくれたのはよく覚えている。そのとき、白石君もそこに居て。謙也君が、行ってこいと。
白石君が言ったことには解釈など要らないはずで、そのまま拾えば言いたいことは分かるはずなのに、何とか理解するまでにかなり時間がかかったような気になる。

「謙也がさ、あの、合宿の時の俺らのこと、見てて。お前は香山に助けられたやろうって。だからお礼言いに行くついでに行ってやってくれ、って」

だんだん小さくなる白石君の声は、私のゆらゆらする意識に穏やかな声で囁いているみたいだ。やさしい。あたたかい。

「もちろん、謙也にそんなことされんでもお礼は言うつもりやってんけどな。……ありがとう、あの時ほんまに、救われた。俺、楓ちゃんには助けられてばっかりやなあ。前もあんなことあったやん」

泣かんとって。ほんの数分前、白石君は私に言った。言った本人が今、泣いてしまいそうに見える。けれどもあの時感じた悲しみだとか孤独感だとか、そういうものを背負う様子ではなくて、もっと、許されたような。ああ俺は幸せや、って言うのを皮切りに子どものように泣き出しそうな、そんな瞳をしていた。その奥に曇りは無くて、澄んでいる。

「ごめん、ごめんな……弱くて。前に進んでるつもりやねんけど、ごめんな」

たった10秒も経たないうちに白石君が謝ったのは3回だ。どうしてこの人はこんなにも、いつも申し訳なさそうなの。謙虚で真っ直ぐで、明るくて優しい、けれどいつもどこか遠慮気味で。私はそういうあなたにこそ笑っていてほしい。ただそれだけ。あなたに、笑っていてほしい。

泣かないでほしい。

私がまたペンを取って書いた文字に目を落とした白石君は、頬に雫をひとつ溢した。ひとつ、ふたつ。大きな粒のそれが、きらりと眩しく光る。

泣かないでほしいけど、泣いて済むならたくさん泣いて。気が済むまで泣いて。だから、

そこまで書いた手は止まり、白石君も首を傾げた。だから、の続きを、彼が待っている。すう、と大きく息を吸い込んだら、力を失っていた喉が少しだけ生き返った。

「居なくならないで」

それでも掠れる声は彼に届いたのだろうか。彼の心に響いたのだろうか。分からないけれど、それも杞憂な気がした。彼は一瞬だけ憑き物が落ちたように目を丸くして私を真正面から見据えると、少しずつ瞳を細めて先ほど零れ落ちたものを再び幾つも幾つも落とした。ひとつ、ふたつみっつ。もう数えきれないくらい落ちて、それなのに彼は笑った。不器用なその笑顔が、私には何よりも美しく見えた。

「俺、楓ちゃんの字、すごい好き。なんかめっちゃあったかい。楓ちゃんの声も好き、慈しみ深くて、今こうやって風邪引いててもやっぱりこう、来るものがあって。すごい好き」

ありがとう。そう付け足した白石君に、寧ろ私の方がありがとうと言いたくなった。ありがとう。潤いのない声はまた届いたのかは分からなかったけれど、白石君が至極幸せそうに子どもみたいに無邪気に笑ってくれたから、どっちでもいい。

-18-



戻る
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -