月影と道 | ナノ

月影と道

君にはなれない



2時間目の授業が終わるチャイムが鳴るや否や、俺は席を立ち隣のクラスへ向かった。教室を出る直前に白石が何かを俺に言っていたが、俺の中で最速ではないにしろ急いでいたので欠片も耳には入らなかった。

2時間目と3時間目の間の休み時間は、5分だけ長い。それを狙って俺は奴が居る教室へと足を運んだ。扉付近できゃっきゃと楽しそうに話している女子に香山おる?と声をかけると、教室を見回して「おらんっぽいけど」と返事をした。ありがとうとお礼を言うとその女子はにっこり笑って「ええよ〜」と緩く答えていた。そんな他愛もないやり取りを交わして再び廊下に出ると、ロッカーから分厚い教科書を出している香山が視界に入った。日本史の資料集と、教科書と、綺麗に纏められたノート。次は日本史か、と頭のどこかでぼんやりと考えつつ、少し声を張って香山の名を呼んだ。遠くからざわめきがする廊下に、「香山」という俺の声が際立って響いたように思う。
振り返って目を少し見開いた香山が、どうしたのと言いたそうに首を傾げる。その姿は俺がよく知る香山だった。ホッと安堵の息を零したい思いを抑え、徐に彼女に歩み寄ると、俺はいつもの如く彼女に提案をした。提案をと言うか、頼み事、と言うべきだろうか。なるべく平生の俺であるように、平生の彼女に向かって、本当に他愛ない日常の話を、した。

「数学のノート貸してくれへん?」
「えーっと、数2?」
「2もBも両方」

先週はテニスの試合やら何やらが押してて授業中ほぼ寝ててん、疲れてたから、と呟くように言うと、彼女はふふっと笑った。目を合わせるのが照れくさくて足元に落としていた視線を上げると、優しい瞳で笑う香山が居た。先程の香山のように首を傾げると、彼女はこう言った。

「なんだか嬉しくて。謙也君がこうやって私を頼ってくれるの、久々な気がする」

いつもの謙也君だなって安心した。そんな事を続けて言った。冬の冷たい空気が充満した廊下に、細やかな暖かい感情が溢れる。じわりと身体の奥が暖かく、くすぐったくなる感覚を覚えて、俺は照れ笑いをひとつ返す事しか出来ずに居た。
はい、と渡された2冊のノートは大切に大切に扱われてきた事がよく分かる。整った字で2年3組香山楓と書かれていて、いつも見る字の筈なのに今更ながら綺麗やなあと思った。

「あのな、香山」

その綺麗な字を見ると思い出さずには居られない。あの日もこうして香山のノートを介して話をした。別にその事を話しに来たわけではなく、本当に単純にノートを借りに来ただけなのだけれど、言い及ばずには居られなかった。
この話をするとこいつはどんな顔をするだろうか。あの冷たい出来事を思い出して俺を軽蔑するだろうか。けれども、どうしてもこれだけは言わずには居られず、ノートを持つ手にぎゅうっと力を込めた。

「ごめん、香山」

突然頭を下げた俺を見て、視界の端で香山が驚くのが確かに分かった。それと同時に驚きの声も零していたから、相当びっくりしたのだろう。そりゃあ突然人が、しかも俺みたいなヘラヘラしてる人間が頭を下げて謝罪などしたのだから、何が?と思う事だろう。
香山はいつもの調子の声で、頭上げて、と言った。ああ、優しい。
言われたように頭を、ゆっくりと上げると、今度は焦った表情の香山がそこには居た。どうしたのと問われた俺は躊躇いつつ口を開き、あの日の事に言及した。白石に近付くな、などと言ったあの日の事を。

「ああ……良いのに、そんな事」
「俺、香山のこと全然考えてなかったんやなって反省してる。近付くな、やなんて」
「謙也君は近付くな、なんて言ってないよ」

あれから香山と話はしてこなかった。一方的に見かけてあの日の事を勝手に後悔する時間はあったけれど、きちんと謝った事は無かった。香山にごめんを言いたかった。きっとあの日の香山は深く傷付いた。だって、香山は白石の事が好きで、白石は香山に気を許してて。それなのに、俺は。

「中途半端な気持ちで近付くなって言ったんだよ」
「それでもあんま変わらんやろ」
「私もね、本当に軽率に白石君に近付こうとしてたんだなって反省した」

香山は目を伏せたそうに少し視線を下に向けた。俺と合うことは無いから、香山の瞳が、どんな想いに染まっているのかは分からない。悲しみか、或いは強さに満ちているのか分からない。けれども何も言わなくても分かった。痛いくらいに伝わってきた。香山は今、堪えている。今にも落としてしまいそうな雫を、油断すれば零してしまいそうな涙を、ぐっと堪えている。
その証拠に香山の声は震えている。けれどもそんな声でお礼の言葉を香山は紡ぐ。だからね、ありがとう、と。
何がありがとうやねんと思わず言ってしまいそうになり、香山のようにそれを堪えた。抑えた。その代わりに、あまり考えてはいなかった言葉が口をついて出てきたのだった。

「何かあったん?」

ぴくりと震えた。香山の身体は確かに、そうなった。何かあったんやろ、と少し強めの調子に変わった俺の声はほぼ確信していた。向き合っていた彼女の口元にはいつの間にか作った笑みがあり、無理に抑えていたであろうものがひと筋、彼女の頬を伝った。
それに気付いた本人はと言うと、右手で顎の辺りの雫を拭い、頬を拭き、目をこすった。彼女のこころが一体何でいっぱいになっているのか。その口から何を言われる事も吐き出される事も匂わされる事も無かったが、誰がいっぱいいっぱいに溢れているのかはよく分かった。何も言えない俺の制服の裾を、小さな手が控えめに摘んだ。助けてとでも言いたそうなその仕草に息が詰まる。

どうして大事な人の苦しいのはこんなにも伝染するのだろう。あいつから香山に伝わり、そして俺にまで伝わってくる。俺の眉はきっと間に皺は寄るわハの字に垂れ下がるわで情けない事この上無かった事だろう。

「白石君が、泣く夢を、見たの」

俺と同じような顔をした香山が、俺の情けない瞳を見て、涙で濡れた声でそう言った。その声にきゅうっと締め付けられた胸はまた息を苦しくさせる。大丈夫やで、と。俺はそう言って香山の頭を撫でる事しか出来ずに居た。

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