カウントダウン | ナノ


君の君たる所以の光




すう、と。大きく息を吸うと、嗅ぎ慣れた香りが優しく鼻腔をくすぐった。真っ暗になった部屋の中で、たったそれだけを確信した。
なかなか重くならない瞼が、ゆっくりと降りてくる。口元はいつも以上に力が抜け、すっかり緩みきっている。今日はいつもの半分しか余地のないベッドだというのに、何故だか酷く心地がいい。いっそ怖いくらいに。小さい頃、お気に入りのぬいぐるみを抱き締めて眠ったような、安心感。
ああ、そうか、この香りか。この匂いが、私を優しく包んでくれるから。大きく吸った分の息をゆっくりと吐き出すと、ゆっくりと髪が梳かされた。このぬくもりを、私はよく知っている。今、私の全身を包むこのぬくもり。大好きなぬくもり。ううん、好きだとか嫌いだとか、そんな安直な言い回しなんかでは足りないくらい、もっと前から、欲していたぬくもり。与えられていたぬくもり。その存在に知らないふりをしていただけの、優しいぬくもり。大切なもの。かけがえのないもの。誰にも渡したくない、もの。
髪を梳かすように何度も何度も優しく頭が撫でられる。まるでお母さんが泣いている私を宥めるように、小さい頃にそうしてもらったように。よく似ているのは、感触なのか、はたまたこの安堵感なのか。ゆっくりになった呼吸は次第に深く、深くなっていく。このまま、もうずっとこのままがいい。ずうっと。一緒に眠ってしまうまで、ずうっと、このまま。
ねえ、謙也君。

彼の名さえも、心地いい。優しくて、暖かくて、どうしようもないくらい。


けんやくん、だいすきだよ。


私、このぬくもりをよく知っている。謙也君、謙也くん、けんやくん。
脳内で呼ぶその名もだんだんはっきりしなくなってきた頃、私はこの耳で確かに聞いたのだった。彼が、私の名を呼ぶ声。唯夏、唯夏、と。何度か聞こえてきたそれは私の大好きなものだった。優しくて、穏やかで、暖かくて、柔らかくて、愛おしい声。愛おしい人の声なのだから。

けれどもその声は、泣いていたのだ。鼻水を啜るような音と、嗚咽を殺したかのように苦しむ呼吸。唯夏、唯夏。何度も何度も、噛み締めるように私を呼びかけていた。

きっと彼の中で私はすっかり寝ついてしまっているものなので、何も言い出せないまま、何も聞けないまま、眠ったふりをして、身じろぎをするふりをして、彼の胸に頬をすり寄せてはまたゆっくりと瞼を降ろした。どくん、どくん。確かに彼が今この瞬間を生きている音が耳の中に溢れて、何も聞かなかったことにした。彼は泣いてなどいないし、私は聞いてなどいない。でも、ごめんね。心の中で私も一緒に、泣いた。今この瞬間を。何を嘆くでもなく、悲しむでもなく、危惧するでもなく。ただわけも分からず涙が止まらなかった。
愛おしい人よ、泣かないで。笑って。


泣かないで、笑って。


知らないふりは明け方まで続いた。泣き疲れたのか、いつの間にかすっかり深く寝入ってしまった謙也君の腕の中で、謙也君のぬくもりの中で、私はひと晩中謙也君のことだけを考えていた。具体的にどういうことを考えていたということがあるわけではないけれど、ぼんやりと、謙也君のことばかり考えていた。謙也君のことだけを考えていた。謙也君のことしか考えられなかった。
時期的にも、日が出てくるのに時間はかからない。カーテン越しに朝日が顔を出したことに気がついた謙也君は、眩しそうにぎゅうっと目を閉じては同じように私を抱き締める腕に力を込めた。苦しいよ、と笑いながら肩をポンポンと叩くと、昨晩の涙から一転して謙也君は笑ってみせた。ああ、大好きな笑顔だ。よかった。謙也君、笑ってる。

「おはよう、唯夏」
「おはよう」

寝ぼけた声はいつもより掠れているし、どこか間抜けだ。時々聞き取れないくらい早口だというのに、寝起きはこんなにもゆっくり喋るんだ。これだけ長いこと一緒に過ごしてきてずっと知らなかった彼の一面を知って、自分だけが知っていることなのだと思うと、我ながら子どもらしいと思うけれど嬉しくて幸せで仕方がない。

「唯夏、もしかして寝られへんかった?」
「ん?」
「目の下、クマすごいわ」

心配そうに私の顔を覗き込むと、宝物に触れるように頬が撫でられる。こういう優しいところも大好きだけれど、今はまだ、知らないふりを続けなければならないから。ごめんね。この嘘を、許してとは言わない。だからどうか、せめて、もう泣かないでほしい。

「私はドキドキで眠れなかったんだけど……謙也君は?ちゃんと眠れた?」

ピクリ、と。謙也君の肩が少し震えた気がした。震えたというか、強張ったように、見えた。それもまた、私は知らないふりをして、同じように顔を覗き込む。
これだけ一緒に居て、気づかなかっただけで昔からずっと好きだったのだから分かる。よく分かる。彼が嘘をつく瞬間。何かをごまかす瞬間。隠し事をしているとき。何かを言いたいとき。今から彼は、嘘をつく。不自然で不器用な笑顔が、痛いほど物語っていた。

「めっちゃぐっすり寝れたで」

隠し事をしているという点では私も彼のことは責められないし追求もできないので、何も言わないけれど。ただ、私の「知らないふり」が本当に「知らないふり」なのだと確信してしまった瞬間となっただけだ。笑ってみせた彼の瞳が、腫れていた。

どこか気まずい空気が暫しの沈黙を連れてくると、彼は上体を起こし時間を確認するために携帯電話を見た。私に向ける背中がどこか遠く感じる。抱き締めたくて、触れたくて、こんなにも近くに居るのに恋しくて、苦しくて、引き寄せて、掻き抱いてしまいたい。そうすれば私たちは、
その先の言葉を今、自分の中で零してしまうのは何だか違う気がした。この言葉は、いつか「そういう日」が来たら、自分の中で繰り返しては墓場まで持って行くべきもの。どんな言葉が湧き起こってきそうだったのかはただ漠然としか分からないけれど、ただ目の前のその人との「今」を愛するしかないのだと突きつけられただけ。未来を懸念しても夢見ても仕方がない。

「なあ、唯夏?」
「ん?なあに?」

思いもよらない誘いに、私はやっぱり「この人と今この瞬間を共に生きたい」と強く願った。

「練習試合、観に来てくれへん?」

ごまかしや躊躇いもよく伝わってくる分、こういうのもよく分かるのだけれど、真っ直ぐなその眼差しに嘘や迷いは欠片も無かった。その強さにどこか圧倒されてしまった私は、ただ頷くことしかできずに居た。彼の誘いがどういうことかをきちんと理解したのは、無邪気に喜ぶ彼の笑顔を見てからだった。



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