カウントダウン | ナノ


世界の端っこで優しいキスを




もうすっかり春と呼ぶには暑くなっていた。だんだんテニス部は忙しくなっていき、恋人との時間は確実に、少しずつ少しずつ減っていた。
去年だって一昨年だってこの時期から部活でバタバタし始めていたというのに、唯夏との関係性の呼び方が変わっただけで随分と心に余裕が無くなる。恋人になったというだけで唯夏がこんなにも恋しくて仕方がない。会いたい。触れたい。そう言えば会ってもらえるし、触れせてくれるのだから、欲は募るばかりだ。

自室に好きなアーティストの歌声を部屋に溢れさせた瞬間、涙が出そうになった。好きなものに触れるだけでこんなにもいっぱいいっぱいになるくらい、足りてない。唯夏が足りてない。汗ばむ手で窓を開けると、ざあ、と夜風が吹いた。しっとりしていて心地よい。

「唯夏、唯夏。起きてるか?」

手を少し伸ばせば届く。唯夏の部屋に手が届く。嬉しくなって、俺は窓に向かって3回ノックしてみた。分厚いガラスに手がぶつかる音は鋭く、何だか少し攻撃的に思えた。それとは裏腹に、柔らかな声で返事が返って来ると直ぐ、大好きな笑顔が顔を覗かせた。

「謙也君。今日も部活お疲れ様」
「ん。一緒に帰れんくてごめんな」
「良いの、それくらい。頑張ってる謙也君は格好良いし、何より、こうして会えるもん」

へらりと笑った彼女が、世界で一番近いこの人が、きっと世界で一番可愛らしい。そして誰よりも恋しい人。好きな人。嗚呼、俺はやっぱりこの人が好きだ。大好きだ。
募る想いが衝動的に俺を動かす。それでも唯夏と居る時は不思議なくらい時間の流れが穏やかで、ゆっくり、ゆっくりと唯夏に手を伸ばした。汗ばんでしっとりとしている手が、大好きな人の頬に乗り、するりと滑る。柔らかくて、温かくて、安心する。鼻から大きく息を吸うと嗅ぎ慣れた優しい香りが胸いっぱいに広がり、また一つ大きく息を吐く。はあ、と吐き出した息は心なしか揺れていて、熱い。

自分の瞳が熱を帯びるのが分かった。文字通り熱い視線が彼女を捕まえて離さない。彼女はと言うと、俺の一連の動作と同じくらいゆっくり、ゆっくりと、一つ瞬いた。小さく首を傾げると、俺の手に包まれた頬がじわりじわりと熱くなる。熱いくらいに温かい。どくん、と鼓動が高鳴るのが聞こえた気がしたが、どちらの鼓動だったのかは分からない。二人の鼓動だったのかもしれない。どくん、と大きく同時に脈打った。二人の何かが繋がった気がした。

数年前に出会った頃から家族みたいだった唯夏。そんな彼女に恋情を抱いている自分には気付いていたが、良いとは思っていなかった。まるで罪悪の様に、沼に足を取られた様に、そんな風に、伝える事は許されないと思っていた恋情。そんな事は言い訳で、ただ臆していたのだけれど。難しくて美しい言葉でも並べれば、そうやって自分の想いを誤魔化してきた俺が許される様な、そんな気がした。ただ伝えるのが怖かった。

やっとの想いで伝えられて、通じ合えて、一緒に居られて、言葉で想いを確かめ合えて。今死んでも良いくらい幸せだと言うのに俺は、子どもみたいに足りないと駄々をこねる。動物みたいに彼女を求める。

「キス、しても……良い?」

キスという単語一つにすら鼓動が騒いでしまう俺は随分と情けない。相変わらずゆったりと情けなく声を出し言葉にすると、唯夏特有の紡ぐ様な言葉は何一つ返されなかった。代わりに俺と同じ高めの体温の顔が、コクリと小さく頷く。
そうすると直ぐ、暫し交わっていた熱い視線が切られる。俺よりずっと長く可愛らしい睫毛が一度だけ、ぴくりと動いたように見えた。

ゆっくり、ゆっくり。唯夏との時間はどうしてこうも穏やかなのだろうか。他の人との1分が唯夏との1秒みたいな。不思議な世界にでも足を踏み入れたみたいな。いつもいつも、ゆっくりで、心地いい。

唯夏にそっと近付いた。そっと、唯夏の吐息が俺の顔に触れるくらいの距離で、一度だけ躊躇い、俺は息を止めた。そしてゴクリと呑んだ。きっとゴクリと喉が鳴った事だろう。目を閉じていた唯夏を最後に見て、俺は視界を真っ暗にした。そうして、柔らかい唇に自分の唇を寄せた。
触れるか触れないかくらいの距離が、また少し縮まる。不器用に押し付けた唇が聞いた事もない様な艶っぽい音を奏でては離れ、俺は名残惜しくてもう一度だけと唯夏の唇を求め、口付けた。
ちゅ。今度は何だか幼い音が鳴りお互いの唇が離れると、唯夏は徐に目を開き照れ臭そうに笑う。

「幸せ、だなぁ」

謙也君とずっとこうしていたい。彼女がそう続けたのはよく覚えているのだけれど、その日どうやって彼女への溢れ出す好きを止めて窓を閉めて逢瀬を終わりにしたのかも、どうやって火照る身体を冷まして眠りに就いたのかも、よく覚えていない。



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