短編 | ナノ

夏の夜空のハルジオン

春の通学路に花火が咲いていた。いや、夏の夜空にハルジオンが咲いていたのか。どちらにせよ、彼女がこう言ったのは確かだ。ハルジオンと花火って似てるよね。

彼女の名は、名前。忘れる筈も無い。俺の恋人だった人。ロマンチストな年上の女性だった。
出会ったのは春。その春、通学路に大人しく咲く小さな可愛らしい花を見つけた時、彼女の影響を受けたのか、俺は柄にも無く「綺麗やな」と言ったのも、今でも忘れられない。花を綺麗だと思う心の余裕なんて、名前に出会うまでは絶対に無かった。何かに焦る様に、けれど冷めた様にしか生きられなかった俺に、名前は確かに花を咲かせたのだ。

そして、付き合い始めた年の夏の事。

その頃中学生だった俺達はデートと言ってもお金も無ければ門限の所為で時間もあまり無いので、あまり遠出はしなかった。そんな俺達の細やかな奮発と言うべきか、少しの一大イベントが地元の祭りだったのだ。花火大会があるから一緒に行こうと誘われ、その日初めてキスをしてみたりもした。
そして、俺はこの日、初めて名前の前で涙を流した。

「私ね、引っ越すんだ」

やがて彼女のその言葉を聞きたくないと主張する様に、俺の世界には音が溢れた。何か返事をする暇も無く、脳に衝撃が与えられた様に立ち尽くす俺とは裏腹に音は沢山溢れ出す。
少し離れた雑踏から聞こえる人々の声、それに隠れる様な恋人達の囁き。屋台の方から聞こえる元気のいい声。先程までは名前と一緒に居た所為か耳を傾けようともしなかった声が、音が、沢山聞こえてくる。俺は依然として何らかの言葉を発する事は出来ずに、代わりにと言っては何だが静かに涙を流した。頬を一筋伝う。名前は苦く笑うだけだ。

名前の右頬が色付いた。名前の頬にも、涙が流れている事に気付いた瞬間、地を這う重低音が身体中に響いた。ドン、と心の扉を鈍い音を立てて叩かれた様に、何度も何度も。視界の端では夜空に花開いたハルジオンがパラパラと花びらを落とす。

「ハルジオンと花火って、似てるね」

大好きだ。俺は名前が大好きだ。何も言えずに涙を止められない俺と、涙を携えた瞳を夜空の大輪に向ける名前。その愛する者の横顔と色鮮やかで物凄く大きな花を浮かべた瞳があまりにも綺麗で、まるで一つの絵の様で、このまま消えてしまいそうだった。消されてしまいそうだ。これから真っ白に塗り潰されてしまう様な、そんな儚さを孕んでいる。

好きや、愛してる。幼い俺にその言葉を声にする事は出来ずに、名前の細い腕をそっと引っ張った。もうすっかり俺の腕の中に収まるのが当たり前みたいで、特等席みたいなもので。


好きだとは言えないまま、名前との別れの日が来た。恋人であるにもかかわらず、俺は相変わらず何も言えずにいた。見送りはしたものの「じゃあな」としか言えなかった。
名前は恐らくそれを別れと捉えたのだろう。何ヶ月待っても連絡は来なかった。俺から連絡する勇気も無かった。名前と離れて分かったのは、臆病者だという事と、やっぱり俺は名前が好きだという事。

君の居ない春が来た。通学路には可愛らしく、どこか寂しげにハルジオンが咲いている。どうしてだろう、俺にはそれがモノクロに見えて仕方が無い。
白と黄色の可愛らしい花なのに、寂しそうで、何かを待っている様で、何故かごめんと謝りたくなった。

俺は名前の代わりを求める様に他の女と付き合い始めた。寄ってくる女を千切っては投げ千切っては投げ。縁を切った数人からの反感を買って尚、気付いた事は一つ。俺は名前が好きだ。名前以外の女を好きになる事は出来ない。名前じゃないと、あかん。
何も言わずに別れてしまった事よりも、もうこの想いを伝えられない事が苦しくて、辛くて、寂しくて、悲しい。

名前は今、何をしてるんやろう。泣いてないやろうか。俺よりも優しい男の腕の中で眠るんやろうか。俺の腕の中は変わらずお前だけやのに。お前以外が来て良い所じゃないのに。
名前、名前、名前。

「名前……っ」

彼女の名を呼んだところで、返事は無い。当たり前なのに、再確認してしまうだけなのに。

道端に咲くハルジオンの花を一つ摘み取って手の平に乗せる。あの夏の夜の様に、止まる事を忘れた大粒の涙がそれを濡らした。嗚咽に混じった彼女の名は虚しく辺りに響く。道行く人の目線は気にならない。今はただ、君の事だけを考えさせて下さい。
素直になれんくてごめん。ちゃんと好きって言えんくてごめん。行くなって言えんくてごめん。言ったところで何にもならんかったんやろうけど、待ってるって言えんくてごめん。待てんくてごめん。

「ちょっとそこのお兄さん、一つどう?」

その道の端っこでハルジオンの花を握り締めて座り込む俺の顔の横に、何かが差し出される。紙の様な何かが、ペラペラヒラヒラと。
この季節にそれが渡されるのはおかしい話で、お前何やねんと言わざるを得ない。
けれどこの声、よく知っている声だ。愛しい人の温もりも腕の中から薄れていく中で、耳にはよく残った声。大好きな君の、声。

「春ですよアホ」
「火着けてごらんよ、君が握り締めてるその花にそっくりだよ」

振り向いたそこに居たのは、やはり俺の大好きな人。変わらぬ笑顔で線香花火を俺に渡そうとしていた。涙を拭って、精一杯笑ってみせる。

「アホ…」
「光が連絡くれないから来ちゃった。ちゃんと高校生になって、バイトしてお金貯めて来たんだよ」
「何で連絡してくれへんかったんですか」
「携帯変えたら電話帳消えちゃって」
「アホやろほんま…」

えへへと笑う名前をふわりと抱き締める。この人はどこか、春の香りがする人だ。出会った時からずっと、春の様な人だと思っていた。

ずっと君がもう一度この腕の中に戻って来る事を望んでいました。ずっとずっと、まるで浅瀬で溺れた子どもの様に、もがいてもがいて、やっと出した結論は、たった一つ。きっとこれからもずっと、変わる事は無い。

「好きや、大好きや」
「私も大好きだよ」

やっと言えた、やっと聞けた。ふ、と零れた微笑みも柔らかくて。この人と居ると春になる。モノクロだった冬の寂しい景色に春がやってくる。色が着く。
線香花火よりも打ち上げ花火の方がハルジオンに似てるよな、と言うと、じゃあ今年の夏も一緒に花火見に行こうねと彼女は言った。

「ハルジオンの花言葉、知ってます?」
「何?知らない」

君の居ない春、この世界は色を無くした。白と黒とその場所で、帰ってきた君だけが色鮮やかだった。

「教えて」

やがて世界は優しく色付く。

君の居る夏、夜空には春の紫苑が咲く。沢山の明るい色を抱き締めて眩しいほどに輝くのだ。そして一瞬の開花を、隣に居る大切な人と共に目に焼き付けよう。

「追想の恋、です」

思い出の中の君、それからここに帰って来てくれた君を、俺はきっと幾度も慈しみ愛するのだろう。

前へ 次へ


戻る


×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -