短編 | ナノ

忍ぶれど

きっと赤い糸で繋がれていた。息をするだけで苦しくなるほど、貴女が好きだった。声に出したことはないけれど、確かにこの胸のなかだけで息をする貴女が居た。否、今でも居る。毎日毎日、貴女がここに居る。居た、と過去形になることなんてない。出来るわけがない。愛おしいと、強く思う。赤い糸で繋がれていると良い、そう思うほどに。
 
俺には好きな人が居る。拗らせているなんて自分が一番よく分かっている。夜中にその人の名前を脳内で何度も呼んでしまうことなんて日常茶飯事だ。
年上の女性で、俺にも皆にも優しい人。きっと、きっとだけれど、彼女も俺のことが好きなのだと思う。自惚れかもしれない。思い上がりかもしれない。けれども彼女のことは心底信頼しているし、温かい関係が築けているのは確かだ。彼女も俺を信頼してくれている。俺にしか出来ない相談事がある、なんて言ってくることもないわけではない。
好きな相手のことだ。今までの謙遜を捨てて言うならば、彼女の気持ちは分かっていた。分かっている。優しい瞳がこちらへ向くことが多いのは俺が一番分かっているはずだ。好きな人のことだから。

ふととある教室を一瞥した俺は、職員室へ向かう足をそっと止めた。一瞬だけ目を遣るつもりだったはずが、数秒、数十秒、目を奪われ、その教室に居た人がゆっくりと、穏やかに、こちらへ視線を向けた。どきり。大袈裟に跳ねた鼓動が思考回路を使い物にならなくさせる。その人の背後では太陽が西の空に姿を隠し始めていて、世界が俺の色に染まっている。彼女の顔もまた、同じ色に染め上げられているように見えた。都合がいい。

「あれ、久しぶりだね」
「はい。テスト期間に入ってから、めっきり顔を合わせることも減りましたから」

俺より年上な彼女は、随分と落ち着いて見える。何でも熟してしまいそうな、今からでも社会で生きていけそうな、そんな落ち着きが彼女にはあった。きっとそんなことを言っては、彼女は苦笑いだか照れ笑いだか知らないが、そういうのを浮かべては言うのだろう。そんなことないよ、赤司君の方が落ち着いてるのに、などと言って。いつもの彼女が俺の脳内で、胸のうちで、まるで自然の摂理みたいに、当たり前みたいに、世の真理みたいに、生きている。息をしている。たったそれだけで救われるような気になってしまう。
今日ここで彼女に会ったのは、何も偶然ではなかった。俺が彼女にお願いしていたことがあったからである。とは言っても、目当ては彼女に会うことだけれど。言ってたものは?と、彼女の小さな手の平が上に向けられ、その上に俺は真っ赤なポロシャツをそっと置いた。取れてしまったボタンと共に。

「本当、すみません」
「良いんだよ、これくらい。すぐだしね」
「流石ですね」
「体育祭で着るの?」
「はい」

父親に縫ってくれと頼んだらどうなるかは俺には分からないけれど、自分では確実にボタンくらいは付けられる。それでもテスト最終日のこの日に、どうしても会っておきたかった。二人だけの時間を過ごしたかった。どうにか時間を共有出来ないものかと必死に探した結果、こんな陳腐な誘い文句に辿りついたのだった。彼女は快く受け入れてくれたのだった。

名前さん。彼女の名をそっと咀嚼して喉の奥の、ずっとずうっと深くにしまいこんだ。そしてそっと目を閉じた。耳を研ぎ澄ませるほど澄ませてやっと聞こえる彼女の呼吸の音が酷く心地いい。このまま鼓動まで聞こえてしまいそうだし、俺の呼吸や鼓動までもが伝わってしまいそうだ。それくらい、他には何もなくて、静かで、涙が出そうなくらい心地いい。嗚呼、幸せだ。

終わったよ。ふわりと風に乗って、そんな声が聞こえた気がした。

赤司君の色、だね。

彼女と居ると、全てが心地いい。違う速さの鼓動も、似たような言葉の紡ぎ方も。彼女と俺はそれぞれの人間で、どう頑張っても1人の人間にはなれやしないのに、それすらも愛おしくて、もうやめてくれと、これ以上は、と言ってしまいそうなくらい、心のシャッターが壁に化け、壁がどんどん薄くなり、彼女の本質的なことは殆ど知らないはずなのに、いつしか彼女と俺の心の間にあるものはカーテン1枚になっていた。きっと俺だけがどんどん薄くしていったのだけれど。

彼女とはどんな風に出会ったのだったか。よく覚えていない。彼女はバスケ部でマネージャーをしていた。いつの間にかお互いの名前を知って、いつの間にか彼女なしでは息も出来ないくらいになってしまっていたのかもしれない。よく覚えていないけれど。彼女との時の始まりはいつか分からない。もしかしたらずっと前から始まっていたような、ずっと前から共有していた時間を最近気付き始めたような、そんな気さえする。何故だかはよく分からないけれど。

はっと気が付いた頃、俺は真っ赤だった世界から少し離れて、世界を真っ暗にしてしまっていた。瞼を開いて色を取り入れると、俺の色をしていた世界が暗くなり始めていることに気が付いてようやっと、あまりに心地良くて寝てしまっていたと分かった。
じゃあ、終わったと声をかけていたのは随分と前の話なのではないか。ひやりとして脊髄反射で身体を起こすと、そんな俺とは裏腹に穏やかな息の音が耳を撫でた。名前さんもいつの間にか眠ってしまっていたようで、子どものような寝顔が、彼女の腕から半分だけ覗いていた。
綺麗に畳まれたポロシャツは綺麗にボタンが付けられていて、小さな笑みがひとつ、込み上げた愛おしさと共に零れた。もしかすると、夢と現実の狭間を行ったり来たりしている間に優しい感触がしたのは、ふわりと母親に抱かれているような感じが時折したのは、このちいさな手が、優しい手が、俺の髪を撫でていてくれたのかもしれない。こんな風に、と、俺は自分の指を、目の前にある柔らかそうな髪に通した。サラリと俺の指をすり抜けていくそれは、まるで彼女自身みたいだ。好きで好きで、愛おしくて、過ぎるくらい、持て余すくらいの想いのせいで、どんなに触れたくても触れられなかった。初めて触れた。それなのに、触れた心地がしないほど柔らかくて。まるで、名前さんみたいだ。

彼女の髪に触れた左手に小さな違和感を感じ、目の前に持ってくると、糸が蝶々結びで繋がれていた。ああ、俺の色だとか言っていたのはこのことか。気のせいじゃなかったんだ。夢じゃなかったんだ。名前さんは確かに、俺の色だと言っていた。少し切なげに、幸せそうに、けれどもやっぱり、どこか寂し気に。
俺の色の糸は、頼りなく続いていた。縺れてしまいそうだ。切れてしまいそうだ。否、切られてしまいそうだ。俺の周りの、誰かに。それでもしぶとく、続いていた。愛おしい人の左手に。俺の左手の小指に巻いてあったような蝶々結びではなく、不器用にぐるぐると巻き付けられている。そりゃあ、人の指に蝶々結びは出来ても自分の指にするのは無理だろう、と。頑張って頑張って、結果諦めてしまった彼女を思い浮かべると、抱き締めてしまいたくなった。その衝動をぐっと堪えて、糸の端を手に取ると、視界がぼんやりと霞み始めた。ゆらりと揺れた世界で、少しずつ愛おしい人が遠くなっていく。
こうだといいのに。俺の指から続く赤い糸が、貴女と繋がっていると良いのに。これを、たとえ遊びでも、たかが裁縫用の糸でも、この手で結べてしまえたら良いのに。だって、愛おしい人はその手で俺と自身の間に赤い糸を作り出した。生み出した。少なくとも、「こうなれば良い」と思っていなければそんなことはしないだろう。きっとそれはそういうことで、俺がずっと「そうだと良い」と願ってきたことだった。
貴女が欲しいと、貴女の想いが欲しいと、ずっと思ってきた。それがこうやって、かのじょによって表現されているのに、もう前が見えない。真綿が喉に押し込まれるような感じがする。止められない嗚咽をどうにか殺そうと、息も止めてしまいたくて、衣服越しに心臓を抉るように、赤い糸が繋がれていない方の手で左胸をぎゅうっと握ろうとした。

「俺は、弱いから」

その言葉が声に乗ってきちんと紡がれたかは分からない。けれども、別の人格が自分の中に潜んでいることは何となく分かっていた。俺の想いが言葉になると、彼女に伝わると、実るにしろ実らないにしろ、どこかで彼女を傷つけてしまう。怖がらせてしまう、絶望だってさせることになるかもしれない。だから、いつしか消える日まで伝えてはならない。殺さなければならない。さようなら、愛おしい人。この手とその手の間にある糸も、何度貴女が作り出しても俺はこうするしかないのだろう。俺と貴女の世界が交わったことに、感謝も嫌悪もする。
彼女の裁縫道具の中にあった鋏で運命の糸を断った。何て儚くて脆いのだろう。まだ無邪気な寝顔で夢の世界を旅する彼女の背では、俺の色はすっかり闇に消えていた。どうか貴女の夢の中では、貴女だけは幸せでありますように。そう願うばかりだった。


前へ 次へ


戻る


×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -