重そうな足取り。俯きがちな顔。
 ランドセルの赤い肩ひもを握り締める真っ白な手。

「今日はみんなに新しいお友だちを紹介します。……さあ、自己紹介してくれるかな?」

 優しい先生に背中を押されて彼女が顔を上げると、垂れ下がった前髪に隠れていた目元がようやく露わになる。ぎこちなく動いた唇が発した声は小さくかすれ気味で、教室の一番後ろに座っていた少年の耳に、辛うじて届くかどうか。

「分からないことがあったら、先生や隣の席の子に聞いてください。イナサくん、よろしくね」

 対して彼の返事は教室いっぱいに響き、それでも足りずに閉まった扉の外まで溢れた。静まり返った廊下の向こうへ、有り余った「ハイ!!」が幾重にも反響していく。
 あまりの元気ぶりに近くに座っていた男子の一人が耐えきれずに噴き出すと、それがうつってしまったのだろうか、教室中がどっと笑いに包まれた。何だか照れ臭くて同じように笑ってしまった少年の目に、教卓の前から自分の席へ――ちょうど彼の右隣へ歩いてくる彼女の姿が映る。
 視線は交わらない。赤い唇は、ぴくりとも震えないまま固く引き結ばれている。げらげらと腹を抱えて笑うクラスメイトたちの中で、その姿は一層浮いて見えて。
 
 全然笑わないヤツだな、というのが、第一印象だった。











 
 悪いヤツってわけじゃないみたいだ。
 しばらく同じ教室で過ごしてみて辿り着いた結論はそれだ。話しかけられればちゃんと誰にでも返事をするし、うっかり消しゴムを失くしてしまった時にはわざわざちぎって貸してくれた。実を言うと全く笑わない訳でもなくて、転校生を珍しがった女子にワッと囲まれた時には、困ったようにへらりと微笑みながら、滝のように浴びせかけられる質問にひとつひとつ答えていた。むしろいいヤツっぽいなと、少年は思う。

 けれど、不思議だった。
 毎朝隣の席でおはようと挨拶をするたびに、彼女は確かに小さく笑って応えるというのに、彼にはどうもそれが笑顔に見えない。おかしな話だけれど、笑っているのに笑っていない風に見えるのだ。
 しかも、周りに話しかけてくる人が居なくなると、彼女の表情は不意に萎んでしまうことがあった。どこか翳りのあるその顔を何度か見るうちに、少年の興味は少しずつ疑問へと変わっていく。

 どうやったら笑うんだろう?

 思い立つと試さずにはいられない性分だった。手始めに持っていったのは、学校でたまに見かける早くてすごい虫。お気に入り・・・・・を分かち合えたら、楽しく話ができるんじゃないかと思ったからだ――が、これは失敗だった。その日一日、彼女は目を合わせてくれなくなってしまった。
 他にもいろいろ試してみた。休み時間に校庭へ連れ出して一緒にサッカーをしてみると、彼女の運動神経が結構いいことがわかった。良かれと思って“個性”の風を見せたときは、少し張り切りすぎて彼女のスカートがうっかり捲れてしまい、おでこを地面にガンガン打ち付けて謝った。「わ、わたしのはね、磁石のちからなんだ」と、すっかり赤くなった額と抉れた土を反発させて止めながら言った彼女の顔は、幸いにも怒ってはいないみたいだったけれど、笑うどころか困惑に染まりきっていたのを覚えている。




 他の友だちなら一緒に遊んでいるだけでげらげら笑い合えるというのに、なかなかどうして上手くいかない。
 うーん。内心唸りながら画用紙に絵の具をぺたぺた塗り付ける。“絵の具で自分の好きなものをかいてみよう”と黒板に書かれている通り、今日の図工は自分の好きなものを自由に描いて良いらしい。……好きなもの……好きなものかあ。
 そういえば、自分の好きなものはたくさん見せたけれど、彼女の好きなものを見たことはなかったな、と思いつく。隣でせっせと絵筆を動かしている彼女の手元を伺ってみると――ちょうど、橙色と赤をめいっぱい使って何かを描いているところだった。少しずつ出来上がっていく炎の形を目の当たりにして、少年は思わず声を上げる。

「――エンデヴァー!!」
「……!」
「好きなのか!?」
「う、うん。好き」
「俺も!!かっこいいよなー!!」

 言いながら、自分の机の上にあった描きかけの絵を彼女の目の前に広げて見せる。特別絵心がある訳ではないので、なんとも豪快な出来栄えではあるものの、そこには確かにNo.2ヒーローらしきものの姿があった。答えてくれた彼女の声がいつもより少し弾んでいるように聞こえたのもあって、少年は四白眼をキラキラさせながら嬉々として返事を待ったのだが――。

「……」

 彼女はきょとんと目を瞬かせて、少年の持っている絵――ではなく、彼の顔の方をじっと見つめている。
 あれ?予想外の反応を前にして、彼もまたぱちくりと目を瞬かせた。エンデヴァーの話をするでもなく、いつものように困ったような笑みを浮かべるでもなく、ただ呆然と注がれる熱視線を受け止めるうちに――なんだか変な緊張感を覚えて、笑ったままの口元が少しずつ強張っていく。
 また何か知らないうちに変なことを言ってしまったんだろうか。首を傾げかけた、その時。

「――ぶはッ」

 目の前でぷるぷると震えていた唇から、耐えかねたように息が漏れた。ぽかんと惚ける少年の前で、絵筆を持ったままの彼女が、お腹を抱えて肩を震わせる。

「ぶぷっ……ふ、ふはっ……はははは!!」

 国語や算数ではなく楽しい図工の時間だったから、他にもおしゃべりをしているクラスメイトは大勢居たのだが――その中でもよく通る大きな笑い声を聞きつけて、一瞬ざわめきがしんと止んだ。
 口を噤んだ子どもたちが目を丸くして振り返る中、彼女はひいひいと苦しそうに息をしながら、震える手で少年の顔を指差す。すると、その指の先を目で追った一人のお調子者が、彼女と一緒になって笑い転げ始めた。

「ぶッ――あははははは!!」
「なんだ!?俺の顔そんな面白いか!?」
「イナサやべー!!ちょびヒゲ生えてる!!」
「あっ、ほんとだー!」
「あははははっ!おっさんみたい!」

 口々に言って笑い始めるクラスメイトたちの前でぽかんと口を半開きにしていると、近くの席のお洒落な女の子が手鏡を差し出してくれた。覗き込んでみると、頻りに目を瞬かせる少年の鼻の下辺りに、ぺっとりと赤い絵の具の色が付いている。
 夢中になって描くうちに跳ねてしまったのか、知らないうちに汚れた手で触ってしまったのか。どちらなのかはわからないが、笑い転げるクラスメイトたちの気持ちはよくわかった。少年の一際大きな笑い声が、教室中を包む爆笑の中に溶け込んでいく。
 困り顔で――でも少し笑ってしまっている先生が「はい、集中!」と手を叩くと、ようやく笑いの渦はほどほどの所まで収まった。が、隣の少女はどうにもツボに入ってしまったようで、必死に声を我慢しながらぷるぷると震えている。その横顔を見て、少年ははたと気がついた。
 いろいろ考えて、一生懸命試してみたっていうのに――なんだ、こんな何でもないことで良かったのか。

「なあ、えーっと……南北さん!」
「ふ、ぶふっ……ひい、な、なに……」
「普段からそうやって笑ってる方がいいと思う!」
「……へ?」
「いっつも元気ないなと思ってたんだ!でも結構デカい声で笑うからびっくりした!」

 物静かなイメージさえ抱いていたけれど、蓋を開けてみるとなかなかどうして立派な爆笑ぶりだった。どこからか飛んできた「お前が言うなよー」という野次を笑い飛ばしながら見遣ると、彼女はバツが悪そうに視線を泳がせる。やがて困ったようにその眉尻が下がり、一転して控え目な声が返ってきた。

「……その、引っ越す前に、かっちゃ――……と、友達とケンカしちゃって」
「え!」
「謝れないまんま転校して来ちゃったから、ちょっと……うん。でも――ぶふっ、ふ……めっちゃ笑ったら元気出たかも、……ふふ」

 最後の方は思い出し笑い混じりにそう言って、彼女はにひひと歯を見せて笑った。なんだ、こうして見ると、思っていたよりもずっとずっと明るくて活発な子らしい。記憶の中の暗い伏し目と、目の前のきゅっと細まった両目を見比べて――やっぱりこっちの方がずっといいなと、少年は一人頷いた。
 さっきまでより気持ち饒舌になった彼女と、同じヒーローの絵を描きながら色々なことを喋った。それまで気付いていなかったが、どうやら二人の家は結構近所にあるらしい。将来は少年と同じくヒーローを目指しているのだという。「虫持ってこられたり、いきなり地面に頭ガンガンされた時はびっくりしたけど、夜嵐くんっていいヤツなんだね」と彼女は笑った。滅多に聞かないよそよそしい呼び名がくすぐったくて、「イナサでいいって!」とはにかんだ。




















 思えばあれからずっと、明るい彼女ばかり見て過ごしてきたというのに。
 コーヒー牛乳の紙パックを開きながら、夜嵐は机を挟んだ反対側でスマホを眺めている少女の横顔をちらりと盗み見た。今朝会った時から何となく覇気が無いとは思っていたが、昼休みになってもちっとも調子が戻っていないらしい。
 どこか初対面の時のあの様子を彷彿とさせる表情で彼女が見下ろしているのは、昨日の夕方から話題騒然のとあるニュースを取り上げたネット記事のようだった。

「火照!」
「……んー?」
「何か今日は元気ないな!どうした!」
「……ああ、うん」
「凄いよなあそれ!オールマイトが右腕一本で雨降らせたって奴だろ!!」
「……うん」

 声を掛けてみたところで、この通りの生返事だ。人の携帯をじろじろ覗き込むなんてあまり褒められた行為ではないだろうが、痺れを切らした夜嵐がひょいと身を乗り出してみると、画面に映し出されていたのは学ランを着た少年の写真だった。
 どうやら彼女が熱心に凝視していたのは主役のオールマイトではなく、もう一人の登場人物――救けが来るまでの間、ヒーローたちが手出しできなかった凶悪なヴィランを相手にたった一人で抗い続けたという、被害者の中学生の方だったようだ。

「その人も凄いよなあ!確か俺たちと同い年なんだったか!」
「……うん」
「“個性”も優秀なんだってな!やっぱその人も雄英受けるのかなあ!!」
「……、」

 ごく普通に話を繋げたつもりだったのだが、とうとう生返事さえ返って来なくなって、夜嵐はつい口を噤んだ。
 こんな風になってしまった彼女を見るのは実に何年振りだろう。数学のテストの点が悪くて参ったり、忘れ物をして頭を抱えたり、そんな姿なら中学に上がってからも時々見かけていたが――こんなに腑抜けた状態は、それこそ小学生の時以来だ。
 さて、何と声を掛けたものか――とりあえず聞いてみるか。さして悩むこともなく、“どうした!!”の「どう……」辺りまで口に出しかけたその時、不意に彼女が呟いた。

「……引っ越す前に友だちと喧嘩した話って、イナサにしたことあったっけ」
「――うん?ああ、そういえば……ちょびっと聞いたな!ほんのちょびっとだけ!」
「こいつなんだ」

 そう言って、彼女はため息混じりにスマホを机の上に放り出す。ヴィランから解放された直後の写真だろうか、画面に映る少年の姿は少し草臥れていたが、つんつんに尖った淡い髪の毛と、酷く険しい赤い吊り目が印象的だった。
 思ってもみなかった言葉に、夜嵐は写真の中の少年と目の前の少女を見比べる。「世間って狭いね」と漏らして彼女は困ったように笑った。その顔は確かに微笑みの形を作っているはずなのに、彼の目にはどうしても笑っているようには見えない。
 “こんな何でもないことで良かったのか”などと思ったあの日のことを、ふと思い出した。あの時は、存外あっさりと見つかった少女の笑顔に軽く拍子抜けしたものだが――どうやらそれはたった一人の存在を目の前に差し出されただけで、いとも容易く奪い去られてしまうものだったらしい。
 簡単に手に入ったものは、同じくらい簡単に無くなってしまうんだなあ。そんなことを考えながら、夜嵐は思わず眉根を寄せて少年の顔をじっと見た。引っ越しの前ということは軽く五、六年ほど前の話になるはずだ。
 そんな子供の頃のことを彼女は今でも引きずっている。それだけ、その喧嘩とやらは彼女の中に大きな爪痕を残しているようだった。引っ越してくる前の話なんて滅多にしなかったし、すっかり忘れ去ったものだと思っていたのに。

 ――いや、何とか忘れていただけで、ちっとも癒えていなかった……そういうことなのかもしれない。

 無性に不服な気持ちになった。喧嘩そのものがどうこうというより、てっきりその傷を上から埋められたものだと思い込んでいた自分にたまらなく腹が立った。少なくともこちらに来てからの彼女にとっては自分が一番の友人だったはずなのに――思っていたよりもずっと、何も見えていなかったらしい。
 すんと真顔になってしまった夜嵐に気付いたのか、今度は彼女の方が目を瞬かせて彼の様子を伺っている。咄嗟に言葉が思い浮かばず、開けたまま口も付けていなかったコーヒー牛乳をぐいと煽った。
 きっと大事な友だちだったんだろう。五年の月日が経っても、心のどこかに引っかかって残り続ける程度には。考えれば考えるほど出会う前の親友のことを何一つ知らない自分に気が付いて、甘ったるいコーヒー牛乳を飲んでいるはずなのに、胸の中が苦味でいっぱいになっていく。
 けれど、悶々と考えながらごくごく喉を鳴らし、中身の減った紙パックを机の上に置いた頃には段々頭も冷えてきた。いや俺まで落ち込んでどうするんだ馬鹿!友だちならここはひとつ励ましの言葉を掛けるべきだろうに!!脳裏で自分を一喝してから、意を決して首を彼女の方に向けた――その瞬間。

「――ぶはッ」

 何となく気勢に欠ける面持ちで夜嵐を見ていた彼女が、突然顔を背けて盛大に噴き出した。
 声を掛けようとしていた夜嵐は完全に出鼻を挫かれて、口をぱっかりと開いたまま、浮かんでは消える“!?”に思考を支配されてしまう。今度こそ「どうした!!」と声に出して問うと、彼女は全身をぶるぶる震わせながら、夜嵐の口元を力なく指差した。

「ひッ――ひぃ、ふふっ、ひっヒゲ……めっちゃヒゲんなってる……ぶっ、ふははははは!はああダメだそれ!!あははははは!!」

 とうとう腹を抱えて笑い出した彼女にクラスメイトたちの視線が集まる。「また爆笑してる」「ツボ浅いよなぁ南北」「もっと上品に笑えよなァ女子ィ」などという揶揄い混じりの野次を聞きながら鼻の下を擦ると、確かに茶色い液体でしっかりと濡れていた。勢いよく煽りすぎたらしい。
 少し落ち着いたらしい少女は、けらけら笑いながら鞄を探り、いまだ微かに震える手でポケットティッシュを差し出した。ありがたく受け取って口元を拭き取る夜嵐の前で、目尻に浮かんだ涙を拭いながら彼女は笑い混じりに言う。

「トマトジュースだったらエンデヴァーみあったのに……ひぃ、ふふ」
「……おい、笑うのは全然構わんがそれはやめろ」
「ふふ、ご、ごめ……ふはっ」

 思わずむっと返してしまったが、ひいひい笑う彼女を見ていると何だか心が晴れやかになっていく。簡単に無くなってしまった笑顔は、もう一度簡単に取り戻せてしまった。
 或いはまたすぐに、驚くほどあっさりと奪われて消えてしまうのかもしれないけれど――でも、やっぱりこれだと夜嵐は笑った。ああ、今なら励ましの言葉もすんなり出てきそうだ。

「謝れないまま転校しちまったって落ち込んでたよな!」
「――へ?あ、……ああ、うん」
「向こうも雄英受けるんだったら、直接会って謝るチャンスもあるんじゃないか!」
「……確かに、そうかもね」
「不安なら俺も付き合う!一緒に謝りに行こう!な!!」
「……ふふ、イナサ連れてったら“誰だこのハゲ”って言われそう」
「酷いな!禿げてないんだが!」
「でも言われるよ、きっと。坊主だから」

 一瞬表情を萎ませた彼女だったが、最後には可笑しそうに笑って、机に身を乗り出していた夜嵐の肘を小突いた。完全にとは言えないかもしれないが、随分普段通りの調子に近づいてきたらしいその様子に、夜嵐もまた笑った。
 月日を経て、好きなものは同じでなくなってしまったけれど――周りに揶揄われるほどの大きな声で、お腹を抱えて笑う親友の姿がお気に入り・・・・・の一つだったから、今でもこうして一緒にいるのだ。
 せめて自分が目の前にいる間くらいは、何かで落ち込んでしまったとしても、こんな風に簡単に笑ってくれればいい。高校に上がってからも、ずっと。
 まさか自分が推薦入試の合格を蹴ることになるなど夢にも思わない少年は、そんなことを考えながら残りのコーヒー牛乳を一気に飲み干した。
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