「――幽魂ファントム。どこだ」

 オフィスから一歩出た先、人気のないエレベーターホールで試しにそう呼び掛けてみたが、何の返事もない。
 事務所への帰り道、“名を呼んで欲しい”と請いながらずっと隣に居たはずの彼女は、常闇が更衣室で制服に着替えているうちに何処かへ消えてしまった。ホークスや他の相棒サイドキック達に挨拶をする傍ら、それとなく事務所の各部屋を探してみたのだが、どこにも姿が見えない。
 目を伏せれば、頼りなく揺らめいていた彼女の輪郭が瞼の裏に蘇る。今にも消えんとしていた自我の灯火――もしかすると、別れの瞬間というものは、こんな風に前触れもなく静かなものなのかもしれない。チン、とエレベーターの到着音が響き、無機質な蛍光灯に照らされた四角い箱がその口を開く。踏み出した足は鉛のように重かった。

(――気になるならネットで調べると良かですよ、すぐに出てくると思います)

 不意に思い出したのは、駅前で相棒サイドキックの一人に耳打ちされた言葉。一年前に九州を騒がせた、少女連続失踪事件――その行方不明者を探し続けている夫婦の姿を見てから、あの幽霊の振る舞いには明らかな違和感があった。夫婦の娘がそう・・という訳ではなかったようだが――もしかすると、その事件の失踪者の中に彼が幽魂ファントムと呼んでいる少女本人が含まれている、あるいは彼女が何らかの形で事件に関与しているのではないかと、常闇も薄々予感していた。

 一階を示す丸いボタンを押し、ポケットから黒いスマートフォンを取り出す。検索フォームに県名と“少女 失踪”の単語を入れると、すぐに幾つかのネットニュース記事と、この手の話題を面白おかしく書き立てるようなサイトや掲示板の類が無数にヒットした。降下に伴う浮遊感をその身に受けながら、とりあえず上から順に目を通していく――が、ニュース記事については当たり障りのないものばかりで、どれも常闇が知り得ている程度の情報しか取り扱っていないようだった。
 となると、あまり気分の良いものではないが、“恐怖!少女七人連続失踪事件の謎とウワサ”などと、対岸の火事と思って楽しんでいる感の否めない銘を打たれたページにも目を通すより他あるまい。地上に着いたエレベーターから降りてビルの玄関を潜り、とっぷりと暮れた夜道を歩きながらページを読み進める。が、やはり常闇の所感の通り、その記事もエンターテイメント性に重きを置いた筆致で綴られているようで、おどろおどろしく事件の概要を語ってはいるが、被害者についての情報はそれほど大きく取り扱われていなかった。そもそも被害者の人相を知りたいのなら、恐らく県警のホームページに飛べば情報提供を呼びかける為の写真が公開されているだろうし、何なら事務所にも事件の資料があるのではないか――と常闇が思い至った、その時だった。
 “少女の亡霊?無念の声か”――などという小見出しが、ページを閉じようと動かしかけた親指の下から覗いた。“妙なことが起こったりしてなあ”と声を潜めた相棒サイドキックの顔が脳裏を過る。そのまま指を滑らせると、画面下部から現れたのは、何かの動画のサムネイルのようだった。考える間もなく、常闇の指はその中央に示された再生ボタンへと吸い込まれていく。

『――さっきから変なの聞こえとるよね?』
『やばくない?え、やばい』

 映っているのは街角に店を構えるリサイクルショップの店頭のようだった。店先に陳列された商品の中、スマートフォンで撮られたらしいその動画が中央に捉えているのは、どこにでもあるような草臥れた中古品のラジオ。撮影者と思しき若い男女の声が聞こえた後、カメラがそのラジオのスピーカーの前へぐいと寄る。途端に耳障りなノイズが響き渡って、常闇は眉を顰めながら端末の音量を下げた――が。

『――す――て、――お願――気――』

 砂嵐のようなノイズに混じって、微かに声が聞こえた。酷く聞き覚えのあるそれに一瞬身を強張らせてから、常闇は音量ボタンを押下する。大きくなったノイズの中からその声を探し出すように、スピーカーに近付けた耳をじっと澄ませた。

『――わた、し――こ――ねえ――だれか』

 辛うじてそう聞き取れる言葉を耳にした瞬間、常闇の足が止まった。
 いつぞや街頭スピーカーを通して聞いたそれとは比にならないほど不鮮明。雑音や音飛びが酷くて、まともに聞けたものではない。けれどそのか細い声は、“名前を呼んで”と懇願したあの蚊の鳴くような声とよく似ていて――行き交う雑踏の中、誰の目にも触れることが叶わぬまま、ラジオの前にうずくまって救けを求める少女の姿が、実際に見たのではないかと錯覚するほど鮮明に、脳裏に描き出されていく。
 やばいやばいやばい、と怯えと興奮が入り混じった声で繰り返す撮影者の声を最後に、その動画はふつりと唐突に途切れた。下部に表示されていた説明文に目を落とすと、事件発生から一週間ほどの間、市内の家電ショップや民家に置かれていたラジオから、似たような少女の声が聞こえるという報告が数件上がっていて、行方不明になった少女の無念の声だと噂された――という旨の文章が、例のごとく大袈裟に綴られている。

 気付けば来た道を戻って、ビルの階段を駆け上がっていた。そうかもしれないと勘付いていた癖に、いざその手掛かりを掴むと居ても立っても居られない。エレベーターを待つ時間さえ煩わしく思えて、事務所までの数階分の段差を一息に登る。
 彼女はそこに居たのだ。そこで、気付いてくれる誰かを待っていた。そして、それが他ならぬあの少女・・・・の声なのだと気付いた人間は――一年経った今になってようやく、常闇一人だけのようだった。なまじ霊障などという奇怪で非現実的な現象だったために、人々の好奇と気慰みの中に紛れて、面白おかしく消費されるだけで終わってしまった。誰の心にも届かぬままに。
 ならば、と常闇は思う。俺が知らねば。ただ一人聞き届けてしまった俺だけは、どうあっても――消え入るような声で救けを求めたあの少女の名を、知らなければならないだろうと。

「――ワァ、どうしたの常闇くん。そんなに血相変えて」

 脇目も振らず駆け込んだ事務所の資料室には先客が居た。回転椅子にゆったりと腰掛けて資料を捲っていたらしいホークスは、少し前に帰ったはずの常闇が勢いよく扉を開いて現れると驚いた風な口ぶりで言ったが、その実大して気にもしていない様子で緩く手を振ってみせる。その食えない素振りに若干気勢を削がれた常闇は、幾分乱れた呼吸を整えながら、手短に用件を述べようとした。

「――ホークス、一年前の……連続失踪事件の被害者についての、」
「……今日駅前通った?」

 言い切る前に寄越された短い問いに、常闇は嘴を噤んで頷く。椅子を回しながらそれを横目に認めたホークスは、観念したように諸手を上げておどけてみせて――それから、小さな手招きで常闇を呼び寄せる。同時に舞った二枚の剛翼が、離れた位置に置いてあったもう一つの椅子を引き寄せて、勧めるように柔らかな座をぽんと叩いてから翼の中へ戻っていった。大人しく従って腰を下ろした常闇の方は見ないまま、ホークスは再び資料のページを捲る。

「去年の今頃、関東に出張してたんだよね、俺。外せない仕事があってさ」

 淡々と語る声を聞きながら、常闇は得心した。駅前で女性が叫んでいた言葉――“大事な時に居なかった”というのは、そのことを指してのものだったようだ。

「話聞きつけて飛んできたら、若い女の子が七人消えてて、犯人の尻尾どころか被害者の手掛かり一つ見つからないわけ。いやァ参ったよアレは。本当いまだに自己嫌悪」
「……しかし、貴方のせいでは」
「いーや、自惚れ込みで七割五分は俺のせいだね。戻った途端被害がピタリと止んだ辺り、No.3の不在を見越しての計画犯だったんだろうよ。それ抜きにしても――ヒーローってのは救けてなんぼ」

 常通りの飄々とした語り口ではあるが、その声音に静かな――恐らく自己に向けた怒りを感じ取ったような気がして、常闇は再び嘴を閉ざす。ホークスは少しの間黙って紙面を目で追っていたが、やがてちらりと顔を上げ、常闇――ではなく、彼が羽織っているブレザーの襟の辺りを見遣った。

「でもまあかれこれ一年経って、当時と今じゃ状況がすっかり変わってるわけだよ。ホラ、雄英・・もかなり色々あったでしょ?そんで、当時表面化してなかったヴィラン連合なんかの関与も疑われるんじゃないかってことで、今――」
「――お待ちを……この件と雄英に、一体何の関係が?」
「……ありゃ、知らなかった?てっきりそれ・・もあって首突っ込みに来たのかと――いや、」

 思わぬ所で出てきた母校の名に常闇が思わず声を上げると、ホークスは片眉を上げてそう呟いてからファイルのページを数枚捲って戻す。が、開いたままのそれを常闇の膝の上に乗せた頃には勝手に納得したようで、笑いながら資料の一部をとんと指で突き示した。

「常闇くんまだ一年だもんね、知るわけないか。これ、この子――行方不明者の一人、当時九州こっちでインターン参加予定だった雄英の二年生。まああの頃は雄英がーってのより、七人も一斉に消えたことの方がデカく取り上げられてたんだけど」

 厚手のグローブに包まれた指で示されたその先、紙面に印刷された顔写真を見て、常闇は一瞬呼吸を忘れた。
 が、それ自体は半ば予期していたことだった。揺蕩う霞の中に幾度か見出した、淡く綻ぶ少女のかんばせ。まさか自分と同じ学校の生徒だなどとは思いもよらなかったが、どこかの学校のヒーロー科だったのだろうとは常々思っていたので、それもさして重要な事ではない。

「ホークス」
「ん?」
「……、ホークス、ここに記されていることが真実ならば」

 問題は、その資料全体に記された内容だった。どこか見覚えのある様式のそれは、入学時に常闇も提出したような、一通りの個人情報や“個性”にまつわる生徒のプロフィールを纏めたもののようだ。
 ざっと視線を滑らせて、その中身をおおよそ理解した時――常闇は、どくどくと脈打つ心臓を落ち着かせるように努めてゆっくりと息を吐き出しながら、目の前でぱちくりと目を瞬かせている彼に向けて、絞り出すように言った。

「彼女は――生きて・・・この近くに居る可能性がある」

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