誰の幸福にもなり得ない、不毛な感情を人知れず嗤ったあの晩から、また一週間程が経った。
“持たない”と当の本人直々に断じられていたはずの少女は、時折不安定に揺らめき、数刻前の出来事さえ覚束なくなりながらも――自分を名付けた少年の存在だけは辛うじて忘れることもないまま、今もなお長らえている。
なぜ長らえたかったのか、なぜ人の目に留まりたかったのか、なぜこの街を揺蕩っているのか――何もかもが砕け、日毎に朧に成り果てて、されど笑みだけは絶やさずに。
“救けたい”。その心の命ずるまま、今日も
相棒の背を追って、街の警邏へ躍り出る。
「……もう、一年になるんやなあ」
パトロールから事務所へ戻る道中、両隣を歩いていた
相棒の内の一人が、駅前広場の一角に目を向けながら呟いた。常闇がその視線を追うと、何やら大きなボードのような物を持っている中年男性と、道行く人に何かのチラシらしきものを配っている婦人の姿がある。行き交う雑踏に紛れて、切実さを匂わせる声が耳に届いた。
「――どんな些細なことでも構いません!よろしくお願いします!」
『んー?あれ……』
目撃情報の呼びかけ――だろうか。常闇が引き留める間も無く、興味を持ったらしい幽霊がふらりとそちらへ飛んで行ってしまった。表立って追うわけにも行かぬまま、何か心当たりのあるらしい
相棒達の顔を伺うと、二人は沈痛な面持ちで口を開く。
「ツクヨミくんも覚えとらんかな。一年前にここらで起きた連続失踪事件、全国ニュースになっとったんやけど」
「あれ、失踪した子の親御さんですね」
そう言われれば、確かに常闇の記憶の中にも引っ掛かるものがあった。一年前に九州で起きた、中学生から高校生までの少女達が相次いで失踪した事件。世間では比較的大きく取り沙汰されていたような気もするが、懸命に頭を下げながら紙片を配り続ける男女の様子を見るに、事態は一向に解決していないようだった。
相棒たち曰く――当時、その事件は“不気味”と評されていたらしい。
県内で失踪した少女は全部で七名。共通点は“十代半ばの少女である”という点を除いてほぼ一切なく、互いに面識があった訳でもない。どこで足取りが絶えたのかも判然としないまま、一切の手掛かりも残さず忽然と消えてしまったのだという。
時間にしてほんの二、三日の間に起こった立て続けの失踪だったため、当然事件性や
敵の関与が疑われ、警察と地元の各ヒーロー事務所が合同で大規模捜索に当たったが、少女たちの影も形も掴めぬまま今日に至る。七人もの人間が髪の毛一本残さず消えてしまったということで、地元では様々な憶測や噂が飛び交っていたが、結局真相は定かでない。
「……そんで、あんまりこういうこと言わん方が良かかもしれんけど……それからしばらく、妙なことが起こったりしてなあ」
「ああ――ありましたねえ、僕あがんの苦手で……」
「妙なこと……?」
普段はどこかのんびりとした雰囲気を醸し出している明るい
相棒が、マスクの下の丸い瞳を翳らせて、己の身を軽く抱き締めながらぶるりと身震いする。常闇が首を傾げると、もう一人の
相棒は声を潜めて何やら話し出そうとしたのだが――はたと唇を閉ざし、今もビラを配り続けている男女の方を後ろめたげに見遣ったかと思うと、徐に首を横に振った。
「……いけん!やっぱ不謹慎たい!」
「よかったあ……もー、思い出させんでくださいよお……」
「おまえも不謹慎やぞ!親御さん、今でもああやって捜しとんやけん、俺らもヒーローらしくしゃんとせんば」
「そ、それもそうですね……失礼しました!」
よく分からないが、話はそれで終わってしまったらしい。意味深なやり取りに常闇が首を傾げていると、「気になるならネットで調べると良かですよ、すぐに出てくると思います」と、どこか青い顔をしたままの
相棒にこそりと耳打ちされた。その血の気の失せた顔色を以前にも何処かで見たような覚えがあって、はたと立ち止まったまま記憶を掘り起こし――思い出す。
そういえば、職場体験で初めて九州を訪れた五月某日、初めて生で
黒影を目の当たりにした彼は、ちょうど今のような怯えた表情を浮かべながら、大袈裟な悲鳴を上げて飛び退いたのだった。
黒影が常闇の“個性”なのだと知るや、決まりの悪そうな顔で胸を撫で下ろしていたのが印象に残っていた。その時に言っていたような気がする。“すんません、お化けかと思って……そがんのはどうにも苦手で……”。
――なるほど、幽霊騒ぎか。一連の事件が
不気味と称されるのも、憶測や噂が多数飛び交っていたというのも、そういった騒動に依るものが少なからずありそうだ――そこまで考えて、その手の話に一枚噛んでいそうな少女の存在を思い出す。話題に上りそうになっただけであの様子だ。毎日パトロール中の自分の横にぶれた顔の少女が並んでいることを知ったら
相棒は卒倒してしまうのではないだろうか。
常闇が視線を巡らせるまでもなく、ふらりと離れていってしまった幽霊は、失踪者の父親だという男性が持っているボードを食い入るように見つめたまま微動だにしていなかった。「……一声、掛けてから帰ろうか」と歩き出した
相棒達の後を追って、常闇も歩き出す。
近付くにつれてボードに記された内容が鮮明に見えるようになっていく。目撃情報を探しています、と書かれた目立つ文字の下に、彼らの娘と思しき少女の顔写真、失踪当時の服装や前後の状況などが簡単に記されていて――一瞬、もしやその写真に写っているのは常闇のよく知る幽霊の顔なのではないか、などという予感が過ったのだがそんな事はなく、立ち尽くしたままの彼女の体越しに透けて見えたそれは、全く見知らぬ少女の面差しだった。
「――帰ってください!
ヒーローなんぞ顔も見とうない!」
劈くような叫び声にはっとして顔を上げると、声を掛けた
相棒に向かって、女性が腕に抱えていた紙束を投げつける姿があった。派手に舞った紙吹雪の中、目を瞠って固まる常闇の眼前で、怒りに染まった目の端に涙を滲ませながら女性は声を張り上げる。
「ホークスんところの連中やろ!大事な時に居らんで――うちの娘ば救けられんで何がNo.2と!」
「やめれ、やめれ!落ち着かんね――ああ、すみません……!」
「……いえ、仰る通りですたい。あの件はホークスも俺らも悔やんどります」
頭を下げた
相棒に食ってかかろうとする女性の肩を、慌ててボードから手を離した男性が掴んで引き留める。支えを失った白い板がふわりと揺れて、竦んだように佇んだままの幽霊の体を通り抜けて倒れ込んだ。その視えない横顔に愕然の“表情”が浮かんでいるのがわかって、常闇の目元がぴくりと動く。様子がおかしい。脳裏に響くノイズのような騒めきは、彼女の心象が直接伝わってきたものなのだろうか。瞬間、元々ぶれていた彼女の全身が一際大きく揺らめいたのを視て、常闇は人知れず息を呑んだ。
「……
幽魂」
言い争う女性と
相棒たちの様子を視線だけで伺いながら、囁くようにその名を呼ぶ。すると、吹かれた蝋燭の火のように揺れて歪みかけていた彼女の体が、ふっと元の朧げな人の形を取り戻し――それだけだった。いつもならばどこかが
揃うはずの少女の全身は曖昧に霞んだまま、一箇所たりとも鮮明さを取り戻さない。その様を目の当たりにした常闇の胸の中に、言いようのない重苦しいものが立ち込めていく。
とうに限界を超えているのだということは、随分前からわかっていた。それでも呼べば笑みを携えて振り返るものだから、いずれ来るはずのその時を、どこか近くて遠い未来のように感じていたのかもしれない。けれど今、彼女は振り返らなかった。凍り付いたように立ち竦んだまま――無色の花は綻ばない。今までとは別格の兆しを目の当たりにして、常闇の胸に諦念と後悔のようなものが浮かんだ。
逆によくぞ今日まで持ったものだった。摂理に従って去ろうとするその背を、身勝手な衝動のままに呼び止め続けてきたのだ。彼女はいつでも笑って応えていたが、覚えた端から忘れつつ、
解けかかった
意識を無理矢理結び直されるその日々は、果たして――本当に、幸せだっただろうか。
「違うんです。いや、僕も責める気持ちが全く無いわけじゃなかですけど……ただ、それよりも……」
苦いものを噛み締めるような声音にはっとした常闇が顔を上げると、目元を擦る女性の肩を抱きながら、疲れ切った顔の男性が震える声を吐き出した。
「……見つけてやりたいんです……もう、生きてはおらんのかもしれんですけど……靴でも服でも、鞄でもなんでも良かけん、あの子がここに居ったって証拠ば……!そんだけなんです」
また何かわかりましたら、よろしゅうお願いいたします。
頭を下げた男性に向かって、
相棒達も酷く口惜しげな面持ちで一礼した。女性がばら撒いた紙片を一枚ずつ手に取って、二人は常闇を振り返る。常闇もまた、少女の人相が記されたその紙を拾い上げてから、すすり泣く女性とそれを支える男性に深々と腰を折る。力になれたならどんなに良かっただろう。どんなに胸を痛めても、当時の事など何も知り得ない常闇にはどうすることもできない。もとより鉛のように重くなっていた心に、またしても己の無力が沁み入るばかりだった。
行こか。短く告げて歩き出した
相棒達の後ろを追って、常闇も静かに歩き出す。一言も発さぬまま立ち止まっていた少女が、そこでようやく身を翻して彼の隣に並んだ。不安定に揺れる輪郭を辿ってその顔に視線を向けると、どこか焦ったような、思い詰めたような“表情”が見て取れた。
「……どうした、
幽魂。何かあったのか」
問いかけてから、性懲りも無く名を呼んでしまった己に気付いて小さな溜息が漏れる。彼女に向かって語りかけるとき、必ずその名を交えてしまうのは最早習慣のようなものだった。不安定に薄れていた彼女の指先が、一瞬ふわりと定まりかけて、また
解れる。やはり、常闇の呼びかけにも以前ほどの力は無いらしい。
――が、少女は俯いて、請うように呟いた。
『――名前を、呼んで欲しいの』
思いもよらぬ言葉に、淡々と進めていた足が思わず止まりかけたが、すんでの所で踏み止まる。“嬉しい”と言われた事はあったが、彼女が自らそれを懇願するのは初めてのことだった。やはり明らかに昨日までとは様子が違う。己の最期を悟って恐怖心を覚えたのだろうかと、一瞬そんな思いが過ったが――再度伺った彼女の“表情”は、やはり何かに対する焦燥を物語るばかり。次いで頭の中に流れてきた言葉は、何か使命感のようなものを帯びていて。
『わたし、もうすぐわたしじゃなくなってしまう。でも、その前に……思い出さなきゃ』
「……一体何を、」
『わたしまだ、消えちゃいけないの……お願い、お願いだよ、ツクヨミくん――』
――名前を呼んで。わたしの名前を。
蚊の鳴くような“声”で懇願する少女の姿に、常闇は一瞬嘴を噤んでしまう。
歪な
延命に意味はあるのだろうかと、ここしばらくはその事ばかりが脳裏を過っては消えた。
酷い事をしたのかもしれないと、僅かに悔いることもあった。けれど、彼女は“呼んで”と言う。理由はわからない。推し量る事も叶わないが、ただ、その声が切実に請うのだ。
――まだ散るわけにはいかない、消えたくないのだと。
「……
幽魂」
どうして拒むことができよう。
もう幾度目かもわからない呼び掛けに、揺らいでぶれた輪郭が纏まるような素振りを見せて、また曖昧に戻っていく。もう常闇が与えたその名には、彼女を呼び留めるに足るだけの力もなく、その
貌が笑みを咲かせることもない。けれど今は――いや、最初から、この移ろう少女の名残にしてやれることなど、これ一つしか残されていなかったのだ。
常闇は、俯いたまま何も言わない少女の横で、何度もその名を呼んだ。前を行く二人の
相棒に気取られぬよう、隣にだけ聞こえるように、小さく、何度も、事務所に帰り着くまでずっと。その度、微かに揺れて姿を定めようとする不定形の霞を目の端に捉えては、常闇は嘆息する。ああ、少しばかり――口惜しい。
(名前を呼んで。
わたしの名前を――)
こんな時に、おまえをもっと強く呼び止められたなら――その
真名を口に出来たならば。
叶わぬ望みを嘴の奥に閉じ込めて、何度も同じ言葉を繰り返す。ふと視線を落とした地面の上、西陽を受けて伸びる自分の長い影。そこに並ばぬもう一つの影法師を少し恨めしく思いながら、常闇は静かに目を伏せた。
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