「――うーん、ちょっといかつくない?」

 悪くはないんだけど、もっと可愛いのないかなあ。正直な感想を漏らすと、目の前で分厚い辞書のページを捲っていた手が一瞬止まり、短い嘆息が聞こえた。

「……他っていうと、やっぱり……素直に幽霊ゴーストとか」
「それは真っ先に思いついたけど、やっぱ捻りが足りないっていうか……あと“ゴ”で始まるのってなんかごついよね」
「……亡者レヴナントなんていうのもある」
「おどろおどろしいです。却下」
「……なんで俺なんかに相談したんだ……俺みたいな役立たずに意見を求めるのがそもそも間違いだろう……」
「あーっ、ごめん!そんなつもりじゃないよ!拗ねないで!ほんとありがとう!」

 慌てて身を乗り出し、机の反対側にある黒髪の頭を撫で回す。飼い犬の機嫌でも取るような態度に思うところがあったのか、その手はすぐさまぞんざいに払い除けられてしまった。
 苦笑いを浮かべながら、目の前に置かれた紙切れへ視線を落とす。シャーペンで箇条書きにされた単語に一つ一つバツ印を付けていくと、一番上に記されていたそれが最後に残った。うん、やっぱり挙がった中では、これが一番柔らかくて優しそうな響きをしている。

「やっぱこれしかないかぁ」

 実際に口にしてみれば、案外悪いものでもないように思えるかもしれない。すっかりいじけて落ち込んでいる彼の前で、ゆっくりと息を吸い込み――。












 喉が震えて音を出す前に、常闇は目を覚ました。全身にひんやりとした霊気を感じる。動かせるまなこだけでどうにか時計を探すと、視界の隅に辛うじて見える針はまだ明け方の時刻を示していた。
 またか、と常闇は目を伏せる。早朝に起こされた挙句指一本動かせない己の体のことではない。相も変わらず半身を常闇の体に被せて眠る幽霊のことでもない。どちらももう逐一気にならない程度には慣れ始めていた。彼の脳裏に浮かぶのは、早くも朧げに霞みだした夢の情景。

 偶然出会った幽霊に名を与えてもう数日が経った。それからというもの、毎夜同じような夢を見る。
 といっても、多くの夢がそうであるように、目覚めと同時にその記憶はたちまち薄れ、金縛りから解放されてベッドを離れる頃には内容の殆どを忘れてしまう。覚えているのは、その夢の中で自分は“誰か”になっていて、また違う“誰か”と話しているのだということ。それだけなのだが、不思議なことに“また同じ夢を見た”という感覚だけは、目覚めの後も鮮明に残っている。
 根拠はないが、これこそが今自分の上で呑気に微睡んでいる幽霊の“生前の記憶”の一部なのだろうと、初めて見た時から常闇は直感していた。タイミング的に、これも彼女がもたらしている霊障の一種だと考えるのが妥当なように思える。悪夢でないのは幸いなのかもしれない。

『……む、ぅん』

 何とも間の抜けた声に続いて、常闇の体にのしかかっていた幽体がごろりと寝返りを打って退いた。その様子を横目に見つつ、投げ出されたままの手に力を込めると、先程まで固まっていた指先がぴくりと動いて、そこから氷が解けるように全身の強張りが消えていく。常闇は懲り固まった肩の関節をぽきりと鳴らしながら上半身を起こした。こうして隙を見て金縛りから抜けるのも慣れたものだ。人間は順応する生き物なのだということを改めて痛感する。
 が、こうも簡単に抜け出せてしまうのは、単純に順応だけが理由ではないのだろうということも、常闇は察していた。
 深夜、金縛りに叩き起こされる回数が明らかに減った。当初は頭を悩ませていた異音も近頃はとんと聞こえない。今隣に横たわっている幽霊の輪郭も――もともと霞のように揺蕩ってはいたが、砂絵が風に攫われるように、ふとした瞬間に形を無くしそうになることがある。その度に常闇は与えた名を呼び、彼女は何でもないように振り返る。

 それは恐らく――既に死んでいる筈の亡魂に使うのも可笑しな表現だが――延命・・だった。ともすれば不確かに成り果てそうな彼女は、己を示す名を呼ばれることでぎりぎりその形を保っているようだ。
 “たぶんあと一週間も持たない”と言っていた彼女の灯火は、恐らくもうすぐ消え去ってしまうのだろう。その兆しを見つける度に常闇は彼女を留めようとしてしまう。彼女は言った、散って消えるのが自然の摂理であり、己の定めなのだと。けれど、数日の間に芽生えてしまった愛着が、すれ違いながらも交わした言葉の数々が、霞の間に時折覗く花の綻びが、常闇にそれを許させない。
 名を与えるという行為は、常闇が考えた以上に意味のあるものだった。彼女は“嬉しい”と言い、常闇もまたそれに応えたが――呼び、留め続けることが果たして善なのか、最早彼には分からない。

『……んあ?』

 一人難しい顔で沈黙していた常闇の傍で、人間よりも寝付きのいい幽霊がようやく目を覚ました気配があった――否、彼女の睡眠時間も当初より明らかに長くなっている。夜は常闇より早く寝るし、朝はぎりぎりまで眠り続けるようになった。“徹夜とかしたらもっと早く散っちゃう・・・・・んじゃないかな”。数日前の言葉を思い出してまた嘆息する常闇の眼下で、寝ぼけたようにぼんやりと横たわっていた幽霊が視えない口を開く。

『……と……コ……トコトコくん……?』
「……常闇だ」

 都度訂正を入れている名前の間違いも、日を追うごとに酷くなってきていた。この分では近いうち、目の前にいる鳥の頭をした男が何者で、何故自分がその横で寝ているのかも分からなくなってしまうのだろう――想像して何となく翳った心を無理矢理晴らすように、常闇がかぶりを振ったその時、ベッドに突いたままだった手の甲に、ひやりと氷を当てられたような感覚があった。

『……ト……とっ……トコ……んふ』

 最早意味不明の寝言を発しながら再び微睡み始めた幽霊の白い手が、何かを探すようにシーツの上を彷徨って、やがて常闇の手に重なった・・・・。触れることこそ叶わぬものの、きゅ、と握るように折れ曲がった指を見て、常闇の心臓が俄かにきつく締め上げられる。
 幽霊はそれきり寝息も立てずに眠りに落ちた。静まり返った部屋の中、かすかに動揺した己の心臓の音だけが、少年の脳裏にどくりと響く。一瞬の、或いは永遠のようにも思える沈黙の後、常闇は目を伏せて独り言ちた。

「……愚かなことだ」

 間抜けな――視えはしないが、何となく間抜けに見える寝顔を晒している幽霊のことではない。ぽつりと漏れて早朝の静寂に溶けたそれは、自嘲だった。終焉おわりの見えている、とうに生きた命でさえなくなっているそれに、こんな情を抱いてしまうなど――あまりに不毛で、愚かしい。その透き通る手を、縋るように動く指先を、握ることさえままならないというのに。
 感傷にも似た感情を胸に抱える常闇の横で、『んが、』と声を上げながら幽霊の白い腿が動いた。スカートの形をした靄がぺろりと動いたのを目の端に捉えて、常闇は小さく咳払いをしてみたが、微睡みに入った幽霊が目覚める気配はない。指摘した時にはあれだけ人を罵りながら怒っていたというのに、それももう忘却の彼方に消え去ってしまったようだった。常闇も常闇で、まだ僅かに眠い頭を動かしながら足元の毛布を手に取り――上から被せようとしたそれが少女の尻を通り抜けて落ちていくのを見て、もう何度目か分からない溜息を吐いた。それはそうだろう。そうに決まっている。
 ああ――本当に、愚かしいことだ。

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