トコヨミ・・・・くんはリンゴが好きなんだね』

 一日の勤務が終わり、とっぷりと夜も更けた頃。コンビニに寄って仮宿へ帰る道すがら、揺れるレジ袋に顔を寄せ、中に詰まったアップルパイやデニッシュの包みを伺いながら、半透明の少女が言う。
 どうやら常闇の思う以上に少女の記憶混濁は深刻なもののようで、昨日喜んで連呼していた名前と、今日のパトロール中にも散々口にしていたヒーローネームが、文字通り霞のような彼女の頭の中でふとした瞬間混ざり合ってしまうらしかった。黒影ダークシャドウの名をすぐに忘れて怒りを買ってしまうのも、そういった現象の一環なのかもしれない。
 どうにも言動が軽いので誤解しそうになるが、それは彼女が愚かだからという訳では決してないのだと、常闇も既に知っている。そういうもの・・・・・・なのだろう。自力ではどうにも出来ないことなのだ。だから常闇は文句も言わず、今日だけでも何度目かわからない訂正の言葉を繰り返す。

「常闇、またはツクヨミだ、幽魂ファントム
『――あ、そうだった!トコヤミくんね!』

 与えた名を呼ぶと、朧げに揺れていた姿が一瞬かちりと定まって、直ぐにほどけて不確かに戻る。名を与えた瞬間もそうだったが、常闇が名を呼び、少女がそれを聞き取るたびに、決まってそんな反応が現れた。定まる箇所は時によってまちまちで、最初のように顔が見えることもあれば、手足やスカートのひだが幾分鮮明になることもある。これも本人の自覚しないところで起こっているようで、彼女が自分の姿について言及することは基本的になかった。

『何の話だっけ……そうそう、リンゴ!わたしも結構好きなんだー』
「そうか――いや待て、食い物の好みは覚えていないと前に言っていただろう」
『そうだっけ?でも今は好きだなって感じだよ!あーあ、体がないと食べ物食べられないのがやだよねえ』

 違う、彼女が忘れっぽいからではない。馬鹿な訳でもない。そういうもの・・・・・・なのだ。努めて己に言い聞かせる常闇の隣で、少女はうんざりしたように透けた体を伸ばしながらぼやく。あまりに人間臭い――否、生前もとは人間だったろうから間違いではないのだろうが――その様子を見ていると、自分の中の“幽霊”なるものの像が音を立てて崩れていくような錯覚に陥った。

「腹は空かないだろう」
『まあそうだけどさあ、トコヤミくんだってこんな体になったら、“嗚呼、せめてもう一度だけでも美味なるリンゴを食したい”――って思ったりするよ、きっと』
「……俺の真似か?」
『似てるでしょ』

 こうやって巫山戯るものだから益々だ。亡霊というのはもっとこう、寂然と闇に潜み、深淵から人知れず此方を覗いているようなものだと思っていたが――目の前の彼女はそんなイメージとは程遠いだけでなく、何故か眠気や食欲、疲労のような、肉体的な欲求や感覚についてもしばしば口にした。常闇としてはそれが今ひとつ納得いかない。

「……おまえはよく眠るが、幽霊というのは眠りを欲するものなのか?」
『んー、幽霊はわからないけど、わたしには必要だなあ。健全な精神を保つためには大事だよ、睡眠。多分徹夜とかしたらもっと早く散っちゃう・・・・・んじゃないかな』
「幽霊はわからない、とは……」
『……?わからないよ、わたし幽霊に会ったことないもの』
「幽霊なのに……幽霊に会ったことがないと?」

 油断すると思考が縺れて混乱しそうな問答の中、しれっと当然のように寄越された答えを、常闇は思わず鸚鵡返しで聞き返してしまう。少女は“何がそんなに不思議がられているのかわからない”といった様子で『うん』と頷くだけ。疑問を覚える自分がおかしいのか、幽霊らしからぬ彼女がおかしいのか――迷宮入りしかけた思惟を咄嗟に断ち切って、常闇は軽くかぶりを振った。深く考えるな。彼女はもうそういうもの・・・・・・で、会話に不明な点が生じても仔細気にせず呑み込むのが正解なのだ。下手に突き詰めていくと却ってわからなくなってしまうことも間々あるのだから。
 掘れば掘るほど“幽霊”の概念を破壊していく少女に常闇が目を伏せて唸ると、彼女は振り返って――少し悲しげな“表情”を浮かべた。

『ごめんね、トコヤミくん。わたし、またよくわからないこと言ってるんでしょ』
「――、……幽魂ファントム

 脳裏に響いた申し訳なさそうな声音を聞くや、身の内に渦巻いていた疑念がさっと凪いだ。思わず名を呼ぶと、一瞬ぴたりと揃った顔が、常闇に優しく微笑みかけているのが見える。が、それも瞬く間に揺らいで消えて、元の無貌に戻った少女は、スカートの裾を遊ばせながら舞い踊るように浮き上がった。

『トコヤミくんに会ってから、なんか調子が良いんだ。リンゴが好きだったのもきっと忘れちゃってて、君のお陰でたまたま、頭の端っこに引っかかったんだと思う』
「……そうか」
『名前を呼ばれるたびにね、散りそうな自我じぶんがこう、ギュッて締まる感じがして――ちょっとだけマシになるの。まあ、焼け石に水なのかもしれないけど……』

 でも、嬉しいの。
 こちらに背を向けたまま、ようやく昇り始めた月をその身に透かしながら、少女の声はそう言った。幸せと、少しの哀愁を孕んだその音を頭の中に感じた時、僅かに重く沈んだ己の心を自覚して、常闇は再度目を伏せる。ああ、初めて目に留めた時から一週間、言葉を交わすようになって数日――あまりにも人間臭くて面白おかしい幽霊だったものだから、すっかり情が移ってしまったようだ。

「――幽魂ファントム

 呼ぶと、霞のように朧げだった髪の房が一瞬視えた。ちら、と肩越しに振り返る素振りを見せた彼女に向けて、常闇は嘴を開く。

「何度でも呼ぼう。おまえが消えて無くなるその日まで――暫しの間、付き合ってやるさ」

 チームメンバーだからな、と付け足すと、振り向いていた少女の顔に喜びの“表情”が浮かぶ。鮮明に視ることこそ出来ないものの、そこに昨日と同じ花の綻びを見たような気がして、常闇の頬も微かに緩んだ。
 この呑気で人間味に溢れた幽霊に残された僅かな時間。せめて疑念は飲み込んで、傍迷惑な霊障にも暫し目を瞑ろう。共に過ごすことを許し、与えた名を口にすることだけが――己の手から彼女に差し出すことのできる、ただ一つのの救いなのだから。
 が、そんな常闇の気を知ってか知らずか、それまで嬉しそうにしていた少女の顔がやや不満げに曇り始める。

『――うん、でもさあ。すっごく良い名前だと確かに思うんだけど、もうちょっとかわいい名前でもよくなかった?』
「……何?」
『わたし女の子なんだよ!幽魂ファントムって、なんかこう……いかつくない?』

 先程までのしおらしさが一瞬でなりを潜め、すっかり元の調子に戻ったらしい少女は、空中で無造作に足をぶらつかせながらそんなことを宣う。人が親切心で接しているのにこれだ――若干呆れながらも、常闇は特にそれを咎めようとも思わない。彼女はそういうもの・・・・・・なのだと、既に理解してしまったから。
 が、黙って聞いてやる道理もないだろう。そもそも兼ねてからずっと気になって仕方がなかったのだ。眼前でぱたぱた揺れる彼女の脚にちらりと目をやって、常闇は小さく咳払いをした。

「……乙女ぶるのなら、名前より先にスカートの裾に気を払え」

 どうせ霞んで何も見えはしないし、毎晩上にのしかかられている時点で些細な問題のようにも思えてしまうのだが、それはそれとして――四六時中目線より高い位置にプリーツの端が踊っているのは、倫理的に問題があるような気がしてならない。
 非常に言いにくい所を敢えて、彼女の為をこそ思って小声で呟くと、少女はぴたりと固まった後、自分の腿の上に掛かっているスカートの端をぎゅっと押さえながら、視えない顔に怒りと羞恥を映してきゃんきゃんと喚く。その様がどこか無色透明の同級生に重なって見えたような気がして、思わず小さな笑いが吐息に混じり、それがまた不況を買って――他の誰にも聴こえない少女の罵声は、家路を辿り終わってもなお、常闇の頭の中に響き渡り続けていた。

『トコヤミくんの馬鹿!!スケベー!!』

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