『いやーすごいね!もう一生誰ともお喋りできないかと思っちゃったよ!波長が合ったんだね、きっと!』
「(一生はもう終わっているんじゃないのか……)」

 一夜明けて早朝。インターン中の仮住まいとして与えられた事務所に程近いアパートの一室、黒い寝間着のまま渋い顔でベッドに腰掛ける常闇の前で、半透明のプリーツスカートが落ち着きなく揺れては止まり、止まってはまた揺れる。頭の中でずっと響き続けている興奮しきった声は半身ダークシャドウにも聞こえていたようで、耐えかねた彼が「ウルセェヨ!!」と叫んだのを慌てて押さえ込んだ。目の前にいる何か・・の声は誰にも聞こえていないのだから、寧ろ彼の声の方が近隣住民にとっては騒音だろう。

『ねーねー、そろそろお名前教えてくれてもいいんじゃない?昨日からずっと聞いてるのに!』

 馴れ馴れしく隣に腰掛けながら迫ってくるそれからぐっと顔を逸らして、常闇は己の気の緩みを呪った。“目を合わせてはいけない”という直感を信じて、これまでずっと関わり合いにならないまま過ごしてきたというのに――どうして昨日に限って迂闊に笑ってしまったのだろう。こういったもの・・・・・・・が視えている人間に寄ってくるというのはよく聞く話ではないか。
 あの後もなかなか大変だったのだ。まだ勤務中だというのに、この幽霊は必死に無視を貫く常闇に死ぬほど元気良く絡んできた。どうにかしたいと思っても、何せ彼女は自分以外の誰にも認識されていないものだから、相棒サイドキック達の前で堂々と声を上げて追い払う訳にもいかない。
 その上――、

「……出て行け」
『あっ酷い!ちょっとくらいお喋りに付き合ってよう!』
「また金縛りに遭ってはかなわん」

 そう、こともあろうにこの幽霊、金縛りやラップ現象なるものを当然のように引き起こす。深夜、背中からエアコンの冷気を浴びているような寒気を感じて目覚めた常闇は、自分に半ば被さるようにして眠りこけている幽霊の姿と、瞼以外ピクリとも動かすことのできない自分の体に気付いて三回ほど眠りから覚めてしまった。お陰ですっかり睡眠不足なのだが、ぐっすり眠っていたらしい彼女はお構い無しにこうして早朝から絡み倒してくる。そもそも睡眠を取る幽霊とは一体何なんだ。
 常闇の鋭い視線を浴びると、彼女は相変わらずブレて識別できないその顔に、ばつの悪そうな“表情”を浮かべた。

『うーん、あー……ごめんね、嬉しくって舞い上がっちゃってたみたい。普段はちゃんと制御できるんだけどね、そういうの』
「ツーカ、人ニ名前聞クトキハ自分カラ名乗レヨナ!!」
『はあ、そうしたいのは山々なんだけどねえ』
「チナミニ俺ハ黒影ダークシャドウ!!」
『ひゃーかっこいい名前だねー』
「……黒影ダークシャドウ

 何故か勝手に馴染み始めてしまった自分の“個性”を今度こそ完全に押し込めて、常闇は改めて隣に居座る無色の霊体へ視線をやった。本人の述べた通りこれまでは舞い上がっていたのだろうか、今は幾分落ち着いた様子で、ベッドに腰掛けた格好のまま先の無い足首をぱたぱたと遊ばせている。ついに実害を齎されてしまったのと、あまりにも騒々しかったのとで邪険に扱ってしまったが、大人しくしていればそう邪悪なものでもなさそうだ。
 それに――自分にだけ視える姿、自分にだけ聞こえる声。まるで空想小説の始まりのような、いかにも“非日常”の入り口といった風なそれらは、ほんの少しだけではあるが常闇の好奇心を擽ってしまう。日頃から落ち着き払った渋い言動の多い彼も、漆黒の闇と罪の果実リンゴを好む弱冠十五の少年なのである――そわそわと落ち着きを無くし始めた心を誤魔化すように咳払いをして、常闇は本題を切り出した。

「おまえは一体……何者だ」
『うーん……難しい質問だねえ』
「彷徨える魂ではないのか」
『さまよ……』
「……俗に言う幽霊なのか、と聞いている」
『え、君ユーレイとか信じてるの?あはは、見かけによらず可愛いとこあるんだねー!』
「……」
『ごめん』
「名は何という」
『君がつけていいよ』

 要領を得ない問答に常闇の視線が険しくなると、少女らしいものは困ったように自分の後ろ頭を掻くような素振りを見せる。『うーん』やら『えー』やら意味を成さない声を発しながら暫し悩んでいた彼女は、やがて苦笑いのような“表情”を見せながら小さな声で言った。

『――多分わたしは、もうすぐ何者でもなくなってしまうから』

















 曰く、彼女には記憶がほとんど無いらしい。
 唐突に失ってしまったのではなく、恐らく徐々に劣化して消えていっているのではないか、というのが本人の弁だった。今の彼女にはここ一ヶ月程度の記憶があるらしいが、それもどこか不安定で朧げなもの。
 いつからこの体でこの街を彷徨うろついているのかも、自分がどこの何者かも定かでない。だが、己の身に起きていることだけは理解できてしまうのだという。

『少しずつ、自分が散っていく・・・・・の』

 己を己足らしめていた自我、確かにそこにあったはずの意識のようなものが、日に日に磨り減っては風に吹かれるように拡散していく。記憶は薄れて混じり合い、自分の名前さえ覚束ない。でもきっとそれが自然の摂理で、人間の体に収まっていない自分が辿るべき末路なのだと彼女は言った。

『根拠とかなしの勘なんだけど、たぶんあと一週間も持たないんじゃないかなあ』

 自我が、意識が完全に消え去れば、もはやそれは何者でもない。だからもう忘れてしまった名前には意味も、未練もない。

『だから、好きな名前付けていいよ!』

 にぱっ、と笑ったように見える少女の言葉を黙って聞いていた常闇は、腕を組んで暫し考え込んだ。成る程、彼女の姿を上手くこの目に捉えることができないのも、どうやらその不安定な性質に依るところが大きいようだ。残り一週間足らずで掻き消えてしまう彼女の魂は、謂わば風前の灯火――常闇とて冷徹非情な人間ではない。そのような境遇を知ってしまえば、人並みに同情は禁じ得ない。
 だが、それとこれとは話が別だ。これに名を与えるということは、暗に今後共に過ごす時間を許容するということ。限りなく幽霊らしいとはいえ、相手の正体があくまで不明である以上、そのような要求に軽々しく応じることは出来ない。

「……考えておく」
『そっか!』
「ところで……何故俺について来た?ホークスはもう良いのか」
『ホー……ああ、鳥の』

 もう一つ兼ねてからの疑問をぶつけると、あれだけホークスに構い倒していたはずの少女は、さしたる感慨も無さそうな声音でぼそりと呟く。名前さえ満足に覚えていない様子からして、どうやらあれやこれやと巡らせていた想像はどれも外れだったようだ。内心安堵にも似た感情を覚えた常闇の目の前で、透き通った両腕がぱっと開いて、鳥の翼を模すようにのそのそと上下した。

『わかんないけど、なんかもう日課みたいな感じなの、あの人に絡むのが。大分前からやってたみたいで』
「(日課でNo.2を弄るのか……)」
『しかもあの人、極たまーにわたしの方見るんだ。もしかして気付いて貰えないかなって思ってたんだけど、波長合わないっぽくて駄目だったね』
「波長?」
『単純に視えるか、聞こえるかって話だよ!九州じゃ無理なのかなー、やっぱ地元の方が合う人多いんだよねえ。まあ視えない方が基本有利なんだけど……』

 妙に慣れた口振りで自身の性質を語るその様に、常闇は妙な違和感を覚えた。記憶が無いと言いながら地元について語る幽霊も大概可笑しなものだが、“視えないほうが有利”などという言い回しが引っかかる。
 この少女は、ホークスや他の者たちに、自らの存在を認識して欲しがっていたのではないのか――?
 しかし、常闇の疑問は畳み掛けるように寄越された質問に紛れて霧散していった。

『あの鳥の人ヒーローなんだよね!街中でも大人気で凄いよねー!君は何であの人と一緒にいたの?』
「……俺はヒーロー科の学生だ。インターンでホークスの元へ赴いた」
『わー……そうなんだ……!』

 ヒーロー、ヒーロー科、ヒーロー科……と、噛み締めるような声音が頭の中で幾重にも響き渡る。最初の高揚しきった様子とも違う、懐かしむようなきらきらとした音に常闇は思わず目を瞬かせた。やはり顔貌こそ伺えはしないが、その“表情”はまるで、英雄に憧れる幼い子供のようにも見える。
 そういえば――隣に腰掛けた彼女の足元、ぼやけて揺れるスカートのプリーツに目が行った。もしかすると彼女も、生前はどこかの学校でヒーローを志していたのかもしれないと、不意にそう思った。何故そうなったのかは知る由も無いが、自分と同じようにヒーローを夢見ていた若い娘が志半ばで亡くなってしまったのかと思うと、常闇の心もまたほんのりと痛んだような気がした。
 ――もっともそのような感傷は、次いで頭の中に流し込まれた言葉の響きで消し飛ばされてしまったのだが。

『じゃ、わたし手伝うね!君のこと!』

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