意識を拡げるということは、消えるのではなく、世界に溶け込むことに等しい。
 何者でもなくなるということは、自分を含めたあらゆるものになり得るということ。
 だから少女は、粉々に砕けた意識の中で、一瞬自分の総てを見た。



 翌日からのインターンのために九州を訪れたはずが、見知らぬ土地でバスを乗り違え、その日泊まる宿までの道を見失ったのが始まりだった。
 衣服の詰まったキャリーケースを引き摺りながら夜道をしばし歩いたが、どこをどう行っていいのかまるでわからない。閑静な住宅地に迷い込んだ少女は、休憩を兼ねて公園のベンチに腰掛け、スマートフォンでせっせと地図を調べていた。やけを起こして既に六人の女子を拐かしていた男がやってきたのは、そんな時。
 不意を打たれて閉じ込められそうになった瞬間、何が起こっているのかよく理解もしないまま、少女は反射的に精神と肉体を分離させた。“拘束される危険を感じた時は、何かと自由の利く精神体で一度外に出た方が状況を把握しやすい”――という経験則による行動だった。が、その肉体が薄っぺらな紙に閉じ込められた瞬間、精神じぶんと本体の繋がりが著しく希薄になり――少女は、心を体に戻すことができなくなってしまった。
 男の“個性”は状態を保存・・する。紙に刷られている間は、破られたり燃やされたりしない限りは時を止められたに等しい。花を閉じれば枯れぬまま咲き続けるし、少女達も閉じ込められた時の姿のまま、永遠にそこで眠り続ける。
 脱けた・・・状態で保存・・されてしまった彼女の体は、精神体の干渉を拒むようになってしまったのだ。自分の体が男の家の机の引き出しに仕舞われたのをしかと見届けたというのに、悲しいかな、全てをすり抜けてしまう少女には、それを取り戻す術が無かった。

 実体を持たない心だけになってしまった少女は、困り果てて道行く人に片っ端から己の存在をアピールして回ったのだが、誰一人として振り向かない。精神の波長が合うごく一部の人間にしか見えないし、静岡じもとの方が合う人間が多いのもわかってはいたが――こうも認識して貰えないものなのかと、この時ばかりは少し落ち込んだ。どうしたものかと頭を悩ませていたその時――彼女は、街頭ビジョンで放送されていたとあるニュースを目撃する。

 少女七人連続失踪。ほぼ同日に行方をくらませたという七名の名前――その一番最後に、他でもない自分の名が記されていたのだ。脱原幽莉。わたしのことだ。まあ、見知らぬ男の家の引き出しに仕舞われてインターンをすっぽかしているのだから、行方不明騒ぎになるのは当然のことなのだが――少女が衝撃を受けたのは、自分以外に六名もの女の子があの引き出しに押し込められているらしい、という事実の方だった。恐らく自分と同じように謎の紙に閉じ込められて、身動きも出来ずに眠り続けているのだろう――つまり。

 ――わたしだけだ。
 動いて、口を利いて、誰かに報せられるのは、救けを呼べるのは、今ここにいるわたしだけ。
 六人の女の子の体が――わたしの精神に懸かっている。

 元より少女は仮免も取得済みのヒーロー候補生だった。守るべき、救うべきものが明確になった時、その使命感が爆発的に膨れ上がったのは言うまでもない。
 “困ったな”では済まされない。何とかして誰かにこの状況を報せなければならない。誰にも何にも触れない、声を届けられない状況で、少女が思いついたのは――ラジオを利用することだった。
 彼女の精神こころが近付いた機械は片っ端から不調を来す。オバケみたいだ、と幼い頃から周囲にからかわれ続けてきた性質だが、少し前に訓練を始めたことで、深く深く集中して神経を研ぎ澄ませれば、ほんの僅かではあるが故意に干渉、操作が可能になることがわかっていた。正直まだまだ実用段階ではないものの、今やらずにいつやるのだと、少女は奮起した。リサイクルショップの店先で、家電量販店の通路で、どこにでもあるような民家の居間で、少女は何度も訴えた。
 “みんなを救けて。お願い、気付いて。わたしここにいるの、ねえ、誰か!”
 いずれも音が悪すぎて、気味悪がられて終わった。「やばいやばいやばい」と連呼されながら動画を撮られた時は少し期待したが、無駄に終わった。それでも止めるわけには、諦めるわけにはいかない。誰かに気付いて貰えるまで、決して。少女は死に物狂いで、昼夜も忘れて精神を消費し続けた。

 するとある日――“誰か”と言いながら顔を上げた瞬間、ふわりと精神からだが浮ついて、頭の中が濁り始めた。誰か。呟きながらふと思う。
 ――わたしは、誰だ?

 焦燥が起こった。自分の名前が思い出せないからではなく、気付かぬうちに無茶をして、記憶が揺らぐほどに精神をすり減らしたことを自覚したからだった。このままでは目的を――六人の少女を救け出すという使命をも失ってしまいかねない。
 焦る少女の頭上を、真っ赤な翼を携えた男が飛んでいく。当時まだNo.3だったホークスが、失踪事件を聞きつけて出張先からとんぼ返りしてきたところだった。少女は縋るような思いで彼に引っ付いて呼びかけた。
 すると――鷹の目が、時折少女が浮いている方を向く。波長が合っているわけではなく、恐らく彼が持って生まれた所謂第六感、或いは勘の良さがそうさせたのだろう。“何だか視線を感じるような気がする”程度のそれだ。否、それでも。
 お願い、気付いて――ぶれ始めた意識を奮い立たせながら、少女は朝な夕な、決してその存在を感じ取ることのできない彼に向かって、休むことなく呼び掛け続けた。

 そうして、冬が終わり、桜の花が蕾を付け始めた頃。
 いつものように彼の耳元に寄り、聞こえない声でやけくそ気味に怒鳴り散らしていた少女は――ふと、自分がなぜこんなことをしているのか、思い出せなくなった。

 わたし誰だっけ。この人誰だっけ。ここは――九州か。えっと、何してたんだっけ。
 その境地に至ってしまうと、意識の拡散は急速に進んでいく。目的を喪うことは、早々に自己を定義する名前を失った彼女にとって、自我の喪失に等しかった。無色半透明の体が揺らぎ、自分という存在をなくしかけた時――少女は、約半年ぶりに眠った。
 それは、目的を忘れたのがある意味いい方向に働いた結果でもあった。精神体も睡眠を摂って英気を養うことができるが、生身の時と同じように眠気の方から襲ってくる訳ではない。もしずっと膨れきった使命感を忘れられないまま過ごしていたのなら、少女は心を休めないままただ必死にホークスを追い続け、夏の始まり頃には綺麗さっぱり消え失せていたことだろう。
 桜の開花と共に眠りについた彼女は、己を己足らしめる要素をほとんど失い、ばらばらに砕け散ってしまった精神を無理矢理繋ぎ合わせるのに、更に約半年の歳月を費やしたのだった。

 斯くして秋の訪れと共に目覚めた少女は、やはり目的を忘れたまま生来の能天気さだけが勢力を増し、昼間はホークスの周りで好き勝手遊び、夜になると眠る面白おかしい幽霊もどきと化してしまった。肉体からだと長く離れすぎたことで精神体の性質が変異し、以前は起こせなかった様々な超常現象を制御できるようになってたことに気付いてからは悪戯も増えた。それもこれも、“よくわからないが自分はあと幾ばくもない時間で消えてしまうようだし、とりあえず楽しく過ごそう!”などと思ってしまったからだった。
 少女はとにかく思うままに、のびのびと生きた。九州で初めて自分を視て、声を聴いて、呼び掛けに応えてくれる少年と出会い、“ああ、良かった!”と安堵しても――果たしてそれが何に対する感情なのか、最早思い出せないまま。



 ――だから、彼らの言葉を聞いた時、愕然としたのだ。

(――どんな些細なことでも構いません!よろしくお願いします!)

 そう叫ぶ女性の後ろに、“探しています”の文字と、うら若き少女の顔写真。妙に気になるそれを見ているうちに、何か大切な、忘れてはいけないことを忘れているような気がして――目的を喪ったままの少女の中に、再び使命感だけが芽生えた。混濁した記憶が強く刺激されて、却って存在があやふやになった。
 わからない。何もわからない。でもまだ消えちゃいけない――感情のままに請えば、気難しそうな見た目のくせに優しい少年は、何度も名前を呼んでくれる。幽魂ファントム。彼が付けてくれた名前。ずっと前から呼ばれていたような、懐かしい響きの――。

(――ファントム、っていうのは……どうだろう)

 ふと、夕暮れ時の情景が蘇る。
 良い名が浮かばないという少女の前で、わざわざ分厚い辞書を捲って、本人よりも真剣に考えてくれた人がいた。“何で俺なんかに相談するんだ”と、卑屈な彼は何度も問うた。“だって君のヒーローネーム、かっこいいじゃない!”と言うと、“……俺も人につけて貰ったようなものだけど”と気まずそうな返事が返ってきたのを覚えている。
 ああ、違う、思い出したんだ。そう、思い出した。

 少女はその時、自分が“ヒーロー”だったのだということを、思い出した。


















 消える直前になって全てを思い出すだなんて、おかしな話だと少女は思う。
 何も知らないまま、あやふやなまま溶けるように消えてしまえればよかったのに、思い出してしまったら、自分を自分だと自覚する一瞬があってしまったら、悲しくなってしまう。記憶自体はすぐに忘れてなくなるのだとしても、悲しいという気持ちは引き摺られて残るものだ。
 寝て起きるたびに全てを忘れても、“名前を呼ばれると嬉しい”という感情だけは残り続けたのと同じように。

 ――ああ、嬉しかったなあ。

 素敵な偶然だと思う。見も知らぬ初対面の少年は、当然少女の正体など全く知らなかったというのに――見事、その名を言い当ててみせたのだ。もしあの時与えられた名が、もっと別の、何の縁もゆかりもないものだったなら、とうに粉々に砕けた状態で、応急処置のような睡眠だけで保たれていたこの精神は、きっとここまで長持ちしなかっただろう。彼ともう一人、かつて一緒に名前を考えてくれた少年のネーミングセンスの賜物だった。お陰で、忘れ果てていた使命を思い出し、最後の力を振り絞ることができた。

幽魂ファントム!」

 ――彼が呼んでいる。
 それを聞く間に、総てを見ていた少女の精神がまたぶれて・・・、砕けた意識は混じって拡がり、記憶の水面が掻き乱されていく。また忘れてしまう。嫌だなあ。涙腺など持たないはずの霞の体で、少女は不意に泣きたくなった。
 彼と自分がどうやって日々を過ごしていたのかさえ、今はもうあやふやに混ざってしまっているけれど――リンゴを食べるとき、幸せそうに細まる赤い目が綺麗だった。触れないのに何度も伸ばしてくれる手が嬉しかった。名前を呼ぶときの、落ち着いた優しい声が――好きだった。
 もう一度呼んでもらえたらいいのに。そうしたらわたしも、■■くんって呼び返して、目一杯笑うのに。馬鹿みたいだ。彼の名前もあやふやな癖に――ああ、でも、呼んで欲しいの。
 最早形を持たない唇で、少女は最後に再び請うた。

 ――名前を呼んで。わたしの名前を。


「――幽莉!!」


 それにさえ、彼が応えるものだから。
 思い出してしまった。自分が脱原幽莉なのだということを。伸ばしてしまった。もう形など持てないはずの霞の腕を。飛び込んでしまった。二度と戻れないと思っていた、喪って久しい自分の肉体からだに。
 泣いてしまった。笑おうと思っていたのに、久しぶりの体はまるで言うことを聞かなくて、目から溢れる塩辛い水を止められなくて、困っている少年に縋り付いてしゃくり上げることしか、目覚めた少女にはできなかったのだ。

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