昼休み、向こうから近付いてくるバタバタと騒々しい足音を聞きつけて、常闇は目元を少しばかり険しく細めた。廊下を走る輩は単純に迷惑なのであまり好まない――が、目をやったそちらに見えた顔は酷く見覚えのあるもの。前も見ずに走っているらしい彼女を、常闇は静かに呼び止めた。

「脱原先輩」
『――わーーー!!?あっ待ってダメ――』

 声を掛けられて初めて常闇の存在に気付いたらしい彼女は、彼の顔を見るや否や飛び上がって――飛び上がるどころか、頭からすぽんと勢いよく精神なかみをはみ出させながら驚いた。半透明の――以前とは違って形の鮮明な、薄っすら色さえ乗っているそれを慌てて引っ込めると、彼女は「ふう」と心から安堵した表情で息を吐く。

「復学されたのか」
「あっうん、今日から――ちょっと待って、なぁにその余所余所しい感じ……」
「あの頃は、貴女あなたが学び舎の先達などとは露とも知らず」
「ヒャア……やめてよそれ、関係ないよそんなの!わたし達チームでしょ!」

 それとこれとは話が別だと思うのだが――本気で嫌がっている様子の少女と暫し睨み合った末、常闇は早々に折れることにした。正直なところ、彼女相手に畏まった態度を取るのも今更というか、妙に歯がゆいものがある。
 頷くと、彼女は満足げに笑ってみせる。かつて月光の下で見たそれを人知れず花と重ねた常闇だったが、こうして白昼の廊下で見たそれは、綻ぶ蕾というより大輪咲きのひまわりのようだった。ぶれる・・・前からこの性格だったのだなと、賑やかな彼女の振る舞いに内心独り言ちる。

「体はもう良いのか」
「うん!もともと肉体からだの方は元気だったし、怪我とかもないから大丈夫!まあその、長い間留守にしてたせいでちょっと脱けやすく・・・・・なっちゃってるけど……」
「……なるほど」

 他愛ない会話を交わすうち、すぐそこにあるA組の教室から覗く同級生達や、廊下を行き交う生徒達の視線が次第に彼女へ集まっていき、時折ひそひそと噂するような声も聞こえてくる。悪い内容ではないだろうと本人も分かっているはずなのだが、少女は居心地悪そうに常闇に向かって微笑み掛けた。無論騒々しさが目を引いたのもあっただろうが――彼女もすっかり、学内外問わずちょっとした有名人である。

 一年前に九州で起きた少女連続失踪事件。犯人、少女達双方の足取りがまるで掴めぬまま迷宮入りかと思われていたそれが、少女七名全員生還・・・・で解決したのはまさに青天の霹靂としか言いようがない。ニュースは稲妻のごとく一瞬で全国を駆け巡り、大きな話題を呼んだ。
 当然、人々は事件解決の経緯にその興味を傾ける。“ホークスとその相棒サイドキックが見つけ出した”という話を聞くと、流石新No.2は凄いなと誰もが納得した。普通の事件なら話はそこで終わりなのだが――程なくして、“あの・・幽霊騒動は、ヒーロー志望の少女が残したSOSだった!”というニュースやネット記事が幾つもしたためられ、これがまた激しく話題を呼んだ。“恐怖!”だの“少女の亡霊?”だのと好き放題言っていた癖に、と常闇は少し呆れたが、他を救けるべく一年間に渡って精神を粉にし続けた彼女の英断は讃えられて然るべきだとも思う。

 そのような経緯で、かつ今何かと話題の雄英生という肩書きも相俟って、今や彼女はちょっとした時の人なのだった。ネットニュースを読んで「何かヘドロん時のおめェに似てんな!」と話を振った切島が「その話すんなブッ殺すぞ!!」と爆豪の怒りを買っていた姿も記憶に新しい。
 が、彼女本人は浮かない顔で嘆息する。

「ごめんね、ほんと……救けてくれたのは常闇くんなのに、何でわたしばっかりヨイショされてるんだろう」
「いや、おまえはもっと誇るべきだ」
「君までそんなこと言う!」
「俺は未熟だった」

 事実、あの夜は黒影ダークシャドウを御しきれていなかった自覚がある。犯人を突き止め追い詰めたのもホークスで、自分がしたことといえばせいぜい彼女の名を呼んだだけだ、と常闇は思っていた。彼に言わせれば“ただそれだけ”のことが、どれだけ少女にとって大きいものだったのか、今の彼には知る由もない。
 謙虚な物言いに頬を膨らませてあからさまな不満を示す少女を黙って見ていた常闇は、ふと先程の様子を思い出して再び目を細めた。

「……ところで、廊下を走るならせめて前は見ておけ」
「あ゛っ!そうだった、わたし……!」
「何か急ぎの用でもあったのか」
「――うん、それはね!彼女から逃げてたんだよね!」

 突然背後から会話に割り込んできた、聞き覚えのある溌剌とした声。常闇が振り返ると、ぐっと親指を立てて笑う円らな瞳の青年――三年生の通形ミリオが立っていた。インターン中、ヴィランとの戦闘で故障してしまった彼は現在休学中の筈だったが、何かの用事だろうか、私服姿で堂々と廊下に佇んでいる。裸体でないことに僅かな安堵を覚えた常闇が、彼の視線の先を追って振り向くと、廊下の向こうから青藤色の髪を揺らして駆けてくる女子の姿が見えた。

「やっと見つけたー!ねえねえ、幽莉ちゃん!」
「ヒェッ――ねじれちゃん!お、追いつかれる……!!」
「逃がさないよね!面白そうだから!」
「ミリオー!!恨むよ!?」

 刻一刻と少女の背に迫る女子生徒は三年生の波動ねじれ。その後ろを追うように控えめな速度で来る黒髪の青年は、同じく三年生の天喰環だろうか。途端にびくついて逃げ出そうとする少女を捕まえた通形含め、“雄英ビッグ3”と呼ばれる最高峰の三名が、何故か一年教室前廊下こんなところで一堂に会している――そういえば、件の少女は二学年として復学したが、一年前に二年生だったのだから元々は彼らと同じ学年なのだと、常闇はそこでようやく思い至った。

「捕まえた!ねえ、何で逃げるの?どうして質問に答えてくれないの?」
「波動さん、その……察するにあまり突っ込まない方がいい話題なんじゃないか……」
「環くん!救けて!!」
「まあまあみんな落ち着いて――まずは二人とも、常闇くんに何か言いたいことがあったんじゃないかな!」
「あ、そうだった」

 少女にぐいぐい迫っていた波動の顔が、状況について行けないまま静観していた常闇の方を向く。その後ろで控えめに佇む天喰、そして背後から見下ろす通形の視線をも一身に受けて何事かと身構える常闇に、波動は満面の笑みで告げた。

「幽莉ちゃんを救けてくれありがとう。友達が無事に帰ってきてくれて、本当に嬉しかったの!」
「そう、俺もそれを言いに学校まで来たのさ!マジでずっと心配してたんだぜ!」
「俺とミリオは中学の時から脱原さんの同級生だったから、特に。君が救けてくれたと聞いて……」
「――いえ、俺は……できることをしたまでです」
「誰にでもできることじゃない。俺達にも、体から脱けてしまった脱原さんを視ることはできないんだ……本当に、ありがとう」

 正直少し分不相応のようにも思えたが、常闇は彼らの謝意を謹んで受け取り、軽く礼を返した。が、顔を上げると、三人に囲まれてどこか照れ臭そうにはにかむ少女の顔が目に入り――思わず目を細めて押し黙る。少しばかり面白くない・・・・・などと、酷く子供じみた感情が胸を過ったのを恥じてのことだった。
 彼女は最早無色半透明の幽霊ではない。血肉を持つ体に戻り、あるべき日常に帰ってきた。彼女の姿は皆の目に映るし、彼女の声は皆の鼓膜を揺らすのだ。それを喜びこそすれど、惜しい・・・などと思うことがあってはならない。……筈。

「――あ、そっか。答えて貰えないんだったら、本人に聞いちゃえばいいよね!」
「――へ!?だっ、ダメだよ待っ」

 胸中で燻る苦いものを押し込めながら黙りこくっていた常闇の前に、突然波動が勢いよくその身を乗り出した。途端に慌てふためき始めた少女を意に介さず、彼女は煌めく瞳で常闇に語り出す。

「知ってる?幽莉ちゃんの体って、精神体が脱けてる間も勝手に動くんだよ!」
「……初耳です」
「自在に動かせるって訳じゃあないんだけどね!例えば“水を飲む”とか“ものを食べる”とか、そういう行動を事前に覚え込ませる・・・・・・と、精神が入っていない間も肉体がその行動をなぞって動く!上手く利用すれば、任務なんかで何日も体を空けることになっても大丈夫ってワケさ!」
「ちょっと二人とも、やめてってば――」
「でも、今すっごく不思議なことが起こってるんだよ。見ててね!」

 言いながら波動は、意気揚々と説明する彼女と通形を止めようとする少女の頭を「えい」と容赦なく引っ叩いた。瞠目する常闇の目の前で、小さく悲鳴を上げた少女の体から半透明の精神体なかみが飛び出していく。脱けやすくなっているとは言っていたが、外からの物理的衝撃でもうっかり離れてしまうほどに、肉体と精神の繋がりが曖昧になっているらしい。
 すると、半べそで宙を舞う少女の精神体を見上げていた常闇の首に――突然、しなやかな腕が絡みついてきた。はっとした彼が動くよりも早く、赤いチョーカーに覆われたその首筋に柔らかな温もりが当たる。先程まで目の前で慌てふためいていた少女の肉体が、常闇の首回りに抱き着いて頬を寄せているのだと気付くまでに、ほんの少し時間を要した。呆然と身を強張らせる常闇の耳元を、少女の抜け殻が発した「トコヤミクン」という無気力な声が擽る。
 「ヒューッ!!」と囃し立てる通形、非常に気まずそうに視線を逸らしている天喰を押し退けて、少女に縋り付かれたままの常闇に波動がぐんぐん迫った。

「不思議でしょ!今の幽莉ちゃん、目の前の人に“トコヤミクン”って言いながら抱き着く体になっちゃってるんだよ!ねえねえ、どうしてこんなことになっちゃったの?何があったのか知ってる?知ってるよね?」

 ぽかんと呆けていた常闇は、重たい首をぎこちなく動かして、宙を漂っている少女の精神体を再び見上げた。目が合うと、彼女は透けた両手で顔を覆いながら蚊の鳴くような声で言う。

『め、目覚めて最初に取った行動が、その……ぬ、抜けない、というか、焼き付いちゃって……なかなか取れなくて……っうう、』

 波動の質問責めも耳に入らないまま、擦りよせられる頬の温みを感じながら呆ける常闇の視界の中で、『ごめんなさい……』と羞恥に足をばたつかせる少女の頬が、みるみるうちに赤くに色づいていった。
 花どころか――果実リンゴのようだ。
 己の目にしか映らないそれを目の当たりにして、無意識のうちに常闇の目元が柔らかく細まる。指の隙間からそれを覗いていた少女はますます真っ赤に熟れた。
 常闇もまた、首筋に押し付けられる体温とは別の、黒い頬に人知れず集まる熱を仄かに感じながら――自分を囲む三年生たちと、廊下でどよめく生徒たちと、教室の入り口から野次を飛ばしてくる同級生たちの姿を立て続けに目に留めては、さて、この混沌とした状況をどうしたものかと、目を伏せて辟易したのだった。

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