――常闇は、自分がここ暫くずっと脱原幽莉と思しき少女と行動を共にしていたということと、発覚した“個性”から推察できる彼女の状況をいくつかホークスに伝えていた。
精神体が完全消滅せずに動き回っているということは、彼女の肉体は“個性”を発動したまま生き続けている可能性がある。
が、精神体が脱け落ちている以上、その肉体は意識がない状態であるはずだった。常闇が見たネット上の動画からして、一年前の事件発生当時、既に彼女の精神が肉体を離脱していたことは明らかだ。もし意識もないままの体を置いて一年間、一度たりとも元に戻れずに自我を擦り減らしながら街を彷徨っていたのだとすると――普通なら、彼女の体はとうに
死んでいるはず。それが逆に手掛かりとなる。
所持品、衣類はおろか、髪の毛一本すら見つからぬまま忽然と消えた少女たち。彼女たちを
生きたままに保ち、なおかつ肉体に戻ろうとする“個性”の働きを妨げるような何らかの
変化を与え、七人もの人間を警察やヒーロー達の目も掻い潜れるほど完璧に隠し
果せるような、恐らく小さく縮めたり何かに閉じ込めたりするような“個性”。
条件さえ見えてくれば探しようもある。以前の捜査では、失踪者の多さから後ろ暗い
前科者を中心に嫌疑が掛けられていたそうだが、この場合はそうとも限らず、精神体になっている彼女の行動可能範囲――常闇たちの活動範囲からおよそ半径5km圏内に拠点を置く人物なら、誰でも容疑者になり得るのだ。
話を一通り聞き終えた時、ホークスは少し考えるように指先で顎をさすって――ぽつりと言った。
「――体が死んじゃったから消えかかってんのかもよ?」
常闇も考えない訳ではなかった。生きているかもしれないという推測は、全てを
良い方向に解釈した場合の話だ。仮にその線で捜索を進めても事態が確実に好転する保証はないし、運良く少女たちや脱原本人の手掛かりが見つかったとて、最悪の場合物言わぬ朽ちた体と対面する可能性もある。
しかし――常闇の脳裏に過ぎったのは、駅前広場で耳にした男性の言葉。
(――靴でも服でも、鞄でもなんでも良かけん、あの子がここに居ったって証拠ば……!)
残された家族たちの悲痛な思い。そして、常闇の中にも確かに存在する感情。
(――わた、し――こ――ねえ――だれか)
聞こえぬ声で救けを呼び、磨り減り薄れた自我でなお人を救けるために動き続けた、ヒーローを志すひとりの少女。
この街には今なお彼女が居るのだと、その証さえ何一つ立てられぬまま、あの存在が夜闇に散って消えてしまうなど――そんな悲劇は許容できない。黙して座せる筈がない。
「――何であれ、見つけ出すのが我らの使命」
膝の上で固く握られた常闇の拳を見て、ホークスは「違いない」と、満足げに笑ってみせた。
「――クロだな、こりゃ」
薄汚れた扉の前で二度目の呼び鈴を鳴らしてから十数秒ほど経った時、ホークスは冷ややかな声でそう言い放った。突然のことに一瞬呆けた常闇の視界の隅で、部屋の中へ伸びていた糸がぐんと上方に登っていく。釣られて視線を上げると、アパートの屋根の向こう側から――いつの間に遣わしていたのか、数枚の羽に自由を奪われた人影が、常闇たちの頭上を通り抜けて背後へ飛んでいった。
「ドアスコープから
俺らの顔見て逃げようとしたってことはそういうことでしょ。いやァすいませんね、窓開いたりするとわかっちゃうんですよ。俺の
剛翼」
両腕を拘束され、宙吊りの格好で静止したその人物は、どこにでも居るような中肉中背の草臥れた男性だった。歳の頃は三十代に差し掛かるかどうかといった所だろうか。青い顔で手足をばたつかせる男の前に翼を開いて浮き上がり、ホークスはポケットから取り出した四つ折りの紙切れを広げる。どうやら男についての情報が簡潔に纏められたもののようだった。
「名前は――いいや。歳も職業もいいか。“個性”、
保存――アンタの体から精製された特殊な紙にモノを取り込んで、ペラッペラの状態で半永久的に保存できる、と。初犯で人間押し花七つとは、ずいぶん楽しかったみたいですね」
「な、何の話……俺はなんも……!」
「事情聴取はお巡りさんのお仕事なんで、言い訳はそっちでどーぞ。ツクヨミ、どう?」
「間違いない、この男……」
ふつふつと沸く怒りを胸の内に感じながら、常闇は柵から身を乗り出した。煙のように揺らめく糸が示す先――宙でじたばたもがく男の上着のポケットに手を突っ込むと、指先が乾いた紙の感触を捉える。掴んで引き抜けば、一見何の変哲も無いように見える紙の束が、焦って持ち出そうとしたのだろう、乱雑に四つ折りされた状態で姿を現した。
後ろから覗き込んでくるホークスと共に、常闇がその紙束を開いて中身を検めると、最初の一枚から眠るように目を閉じた少女の姿が印刷されていた。「ええー、折り目付いとるけど大丈夫やろなコレ……?」という呆れ混じりの声を背に聞きつつ、枚数を数えながら一つひとつ確認していく。知らぬ者が見ればただのカラー印刷にしか見えないような様相だが、そこに刷られた制服姿の見知らぬ少女達は、いずれもどうやら元は生身の人間で、意識がないまま紙の中に
保存されているようだった。
そして七枚目、最後の一枚――捲った紙の向こう側に常闇も良く知る濃緑のプリーツが見える。薄灰のジャケットに真っ赤なネクタイ。傍らには何故か鞄の他にキャリーケースが描かれていて――そういえば、インターンの為に九州へ来ていたのだと聞かされたのを思い出した。到着早々こんな事件に巻き込まれるとは不遇なものだ。
色が着いていると何だか別人のようにも思えるが、確かに常闇が知るあの少女が――脱原幽莉がそこに居る。
紙の中でも相変わらず呑気に見える寝姿に、呆れと安堵が入り混じった息が嘴の端から漏れるのを感じた。
――が、その時。
「――!!」
「ちょっ危な――どうした?」
はっと顔を上げた常闇の羽毛に危うく顔面を埋めかけたホークスが、仰け反り声を上げながら彼の視線を追ったが――彼には何も視えない。常闇の双眸だけが、その異常を捉えた。
それまで紙面の少女を指し示すように留まっていた白い意識の糸が、不意に一際大きく揺らめいてその形を崩したのだ。掴めないと知っていながら伸ばさずにいられなかった手をすり抜けて、糸は先の方から少しずつ消えて無くなっていく。
限界を超えて体外に出続けたことで薄れに薄れ、更に
解けて一筋の糸になっていた彼女の意識が――
消え始めた。息を呑む常闇の目の前で、宙吊りの男が震える声で何事かを呟く。
「――つ、疲れて……毎日クソみたいな上司にこき使われて、ムシャクシャして……でもやってから怖なって、もうこれきり悪かこと何もせんって……じ、時効まで、机ん中に隠しとくつもりだったんに……な、何で今んなってバレるったい……!」
瞬間、それまで後ろに控えていた
黒影の咆哮が天を衝き、常闇の両脇から伸びた漆黒の腕が、空中に止められていた男の体を
剛翼ごと地面へ引き摺り下ろした。
ゴーグルの奥で目を丸くするホークスを置いて、常闇は柵を飛び越え、仰向けに叩き伏せられた男の胸倉を掴み上げる。胸の奥が燃えるように熱い。
「救おうとしたからだ……!」
“――きっと他の子達も居るから……必ず辿って、見つけてください。”
月を背にして花のように笑った、いつかの少女の
貌が脳裏をちらつく。
「貴様の身勝手に巻き込まれた無辜の少女達を救わんと……己の
存在を懸けたヒーローが居たからだ……!!」
喉から迸る叫びに呼応するかの如く、
黒影の体は徐々に膨れ上がり、星明かりしかない夜の道に一層昏い影を落とす。呼吸も忘れて涙目で震え上がる男の眼前に、常闇は手にした紙束を突き出した。
今にも暴れ出しそうな影の魔物を、負けず劣らず猛り昂ぶる己の感情を、歯を食い縛って押さえ込みながら。
「“個性”を解け……今すぐに」
「ひっ……!」
「早くしろ――月の無い晩は、加減が利かんぞ……!!」
「はっ、はひ……!!」
がり、とすぐそこのアスファルトを抉った黒い爪を見て、すっかり心が折れてしまったらしい男は泣きながら頷いた。同時に常闇の手にあった紙束がひとりでに宙へ舞い飛び――ぽふんと音を立てて生じた煙の中から、手品のように七つの体が飛び出してくる。「うお」と我に返ったホークスの羽が地に落ちていく彼女たちを軽やかに受け止める中、常闇の眼前で濃緑のプリーツが翻った。
腕を伸ばし抱え込んだその体は、一応生きてはいるようだったが――振り返った先、彼女の意識であるはずの白くか細い糸は、やはり燃え尽きるろうそくの芯のようにみるみる短くなって、少し目を離した隙に随分と遠い所まで掻き消えてしまっている。
「
黒影――」
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」
「おまえにも分かるだろう!今追わねば間に合わん!」
「グア゛ア゛ア゛ア゛――」
「猛るな――
疾れ、
黒影!!」
叫んでは奥歯を噛み締める。義憤のままに力を解き放っては、あの悪夢のような襲撃の夜の二の舞だ。
箍を外してはならない――が、胸を満たす煮え湯のような激情もまた、消えてくれそうにはない。
ならば最早消そうとはすまい。今だけは諸共呑み込め、されど闇には呑まれるな――今は暴れる時ではない。燃やした怒りで、為すべきことを、掴み取るべきものを照らし出せ。
「
飛ぶぞ!」
「――指図スルナァ゛ァ゛ァ゛!!」
叫びながらも、
黒影は地に押し付けていた男の体を放し、常闇と、その腕の中でぐったりしたまま動かない少女の体を乱暴に掴み上げた。浮遊する
黒影が常闇の体を抱えることで空を自在に飛び回る――先日
師の助言を得て練ったばかりの必殺技候補。本来ならばもっと優しく両腕で抱え上げられる筈だったのだが、荒れ狂う彼は常よりも肥大化した影の手で二人を鷲掴みにしたまま飛び出した。
最早それにも構ってはいられない。頬で切る風を感じる余裕も無いまま、常闇は眼下に目を凝らした。糸が消える速度は目に見えて増している。全速力で飛ぶ
黒影の疾さをもってしも、果たして尽きる前に追いつけるかどうか――額に冷たい汗を感じたその時、ぐんと風を切る勢いが増した。
顔を上げた常闇の視界に、黒い影の背を押す羽たちの真紅が鮮やかに映る。もう殆ど視認出来ないほど後方に遠ざかったアパート前から、気を利かせた彼が救け舟を寄越してくれたようだった。心の中で深い感謝を寄せながら、常闇は先ほどまでより近くに見える糸の先に向かって声を張る。
「
幽魂!」
また、いつもの癖でその名が出た。
違う――そうじゃない。もうその名では、去りゆく彼女を手繰ることなど叶うまい。
繊維が解けるように消え続ける糸を追って、いつしか常闇たちはあの駅前広場のすぐそこまで戻り着いていた。糸の出所、彼女が座り込んでいた場所に白い靄が辛うじて漂っている。
毛糸玉だ。あれが消えれば、常闇と共に過ごした幽霊もどきは、己より他を救わんとしたヒーローの少女は――いとけない花の綻びは、二度とこの目に映らない。
“――名前を呼んで。わたしの名前を。”
少女の声が脳裏に響いたような気がした。根元まで消え尽きようとしている糸に渾身の速さで迫りながら、常闇は嘴を開いた。
「――幽莉!!」
――応えるように、虚ろに漂っていた靄が動いた。ぎゅうと寄り集まったその塊の中に、ぴたりと揃った花の
顔が浮かび上がる。色のないそれが目を見開いて常闇を見遣り、真っ白な霞が手の形を取って伸ばされた。やはり掴めないのだと知っていながら、常闇もまたその手を伸ばし――。
影の魔物に握られたままの常闇と
空の器は、揺蕩う靄の中を勢いよく突き抜けて通り過ぎながら、靴の裏を地面に擦って着地した。
「――っ、おい、
黒影……!」
「ア゛ア゛ア゛!!モウ我慢ナラン……!!」
地に降りた途端放り捨てられ、常闇は少女の
肉体を抱えたまま尻餅を搗かされた。その上運悪の悪いことに、街灯の明かりが届かない道端の木陰に落ちてしまっている。合宿の時ほどとはいかなくとも、破壊衝動を持て余した様子で吠える
黒影を鎮めようと試みつつ、思い切り通り抜けてしまった靄を探して視線を巡らせた常闇だったが――不意にジャケットの襟の辺りを引かれて、険しく窄めていた目を思わず丸くする。
見下ろした先――常闇の腕の中から、しっとりと濡れた
射干玉の双眸が彼を見た。愕然としたその顔を、常闇もまた呆然と見遣る。やがて彼のブレザーを握っていた指が解け、確かめるように幾度か虚空を掴み、少し血色の悪い唇が動いて、情けなく揺れた声が――空気を、震わせた。
「――常闇、くん……っ」
頭の中ではなく、鮮明に耳に届いた声に固まる常闇の首へ、彼女は堰を切ったように泣き出しながら両腕を絡めて縋った。身を強張らせる常闇の目の前で、今にも暴れ出さんとしていたはずの
黒影が「ウヒャア……」などと情けない声を上げながらたじろぐ。動けないままの常闇が、どうしたものかと逡巡した末、しゃくり上げる背中に恐る恐る片手を回しかけたその時、
「アヒャンッ――!!」
「おー危ない危ない、持っててよかったペンライ――ト……」
カチ、という軽い音と共に一条の光が差し、常闇たちの前に聳えていた
黒影が悲鳴を上げながら縮み上がった。その向こうから、片手でペンライトを弄びながら笑うホークスがひょっこりと顔を覗かせて――少女に縋り付かれたまま固まっている常闇を見るや、「オ
邪魔シャーシタ!」と敬礼して背を向ける。常闇は思わず声を荒げて呼び止めた。
「ホークス!!巫山戯ている場合では!!」
「気ィ遣ったのに!大丈夫、オッサンも女の子ももう警察に預けてあるから――そっちも一件落着っぽいね。よかったよかった」
にんまりと細められた目に、常闇は言葉を詰まらせる。少女はホークスの登場も意に介さず、まだ両目からぼろぼろと涙を零し続けているようだった。
身動ぎも出来ぬまま固まっている彼は、正直なところまだ大いに困ったままだったのだが――一先ず、彼女の体は動き出し、その心は常闇のことを覚えているらしい。
シャツの襟を濡らす雫があたたかい。これまで氷のように冷たい触れ合いしか無かったものだから、妙な気分にはさせられながらも――その
温みに、常闇は密かに安堵した。
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