「――さん、……あの、南北さん?」

 控えめに肩を叩かれて顔を上げると、不安げにこちらを見遣る男子の後ろで尻尾が揺らめいているのが見えた。今まさに進行中の授業、ヒーロー基礎学の戦闘訓練で同じチームに振り分けられた子だ。物言いたげな彼の視線を受けて、ようやく自分が上の空のまま目的地の前を通り過ぎようとしていたことに気づく。

「あ、ごめん」
「いや、いいんだけど……大丈夫?具合悪いとかだったら先生に言った方が……」
「いや、ほんとごめん……大丈夫!」

 気合いを入れ直す意味で両頬をばちんと叩くと、思ったよりもずっといい音が鳴り響いて、目の前の彼――尾白くんはぎょっとしたように目を丸くした。赤くなった頬を気遣ってくれる彼に再度「大丈夫!」と手を挙げて応え、今度こそは目的地の方へと足を向ける。
 本日の午後最初の授業は、雄英高校に教師として着任したあの伝説のヒーロー、オールマイトの指導のもとで行われる、“ヒーロー基礎学”。くじ引きで二人一組のチームを作り、更にそのチームをヒーロー側とヴィラン側に振り分けて、核兵器の争奪を想定した二対二の戦闘訓練を行う――ということだったのだけれど、わたし達のチームは少し特別だ。わたしの前をひとりでに歩いていたブーツが“核”のハリボテ前で立ち止まり、宙を漂っていたグローブが楽しげにぱたぱたと動く。そう、人数の関係もあって、わたし達Iチームだけはわたしと尾白くんと彼女の三人組だった。

「でもなんかアレだね!ただでさえヴィランの方が有利っぽいのに、三人チームでヴィラン側引いちゃった!」
「確かにちょっと悪いような気もしてくるよね……」
「でも油断はダメだよ尾白くん!私もちょっと本気出すわ、手袋もブーツも脱ぐわ!」
「う、うん……」
「よーし、南北さんも元気出してこ!」
「う、うん……」

 ぽいぽいと床に投げ出されて動かなくなるグローブと靴を、尾白くんと二人揃って複雑な心境で見守る。彼女――葉隠透ちゃんの“個性”は“透明化”、つまるところ透明人間なのだそうで、唯一身につけていた二つを脱ぎ捨ててしまうと全く視認することができない。なにより見えないとはいえ全裸なのがある意味大問題だ。わたしはともかく、この場にただ一人の男子が気まずそうに視線を逸らしているのを見ると何ともいえない気持ちにさせられた。
 が、わたしの態度がそれだけによるものではないということを、彼女はきちんと察していたようだった。唯一身につけている小型無線機がひょいとこちらへ近づいて来て、見えない手がわたしの肩をぽんぽん叩く。

「浮かない顔してるね、やっぱあの子のこと心配なんだ。昔からの友達っぽかったもんね」
「ああ、緑谷……だっけ。怪我、大丈夫だといいけど」

 さっきからずっとわたしを気遣っていてくれた尾白くんも合点がいったようで、顎のあたりに指を当てながらそう呟いた。
 今から始まろうとしているわたし達の試合は本日の二試合目。つい先程行われた一試合目には、話題に上ったイズと爆豪あいつが、それぞれヒーローチームとヴィランチーム――敵対するチームのメンバーとして参加していた。初っ端からとんでもない試合内容で、イズが爆豪あいつを投げ飛ばしたり、怒った爆豪あいつが“個性”のニトロを溜めた籠手でビルを大破壊したりと大変なことになっていたのだけれど、最後にはイズが被弾覚悟で爆豪あいつの攻撃を受けながらパートナーの∞女子――お茶子ちゃんのサポートを熟したことで、ヒーローチームの勝利に終わったのだ。

 赤毛の切島くんなんかは熱い試合に興奮して気持ちが高まっていたみたいだけれど、わたしはモニターの向こうで両腕をボロボロにしながら崩れ落ちたイズと、ほぼ無傷のまま負けて呆然と立ち尽くす爆豪あいつの姿から目が離せないまま、しばらく放心していた。“個性”把握テストで指を腫らしていた時から薄々嫌な予感はしていたけれど、とうとうイズが腕一本を砕いて倒れる場面を目撃してしまった恐怖と、なんだかんだ言って爆豪あいつが完全に負けるところを初めて目の当たりにしてしまった動揺。その後の講評の時間でもぼーっとしていたものだから、真面目そうな八百万さんにびしっと注意されてしまったりもして。
 なんだか、お腹の底がふわふわ浮くような妙な感覚で、とにかく落ち着かない。うまく言えないけれど、地に足が着いていないような、今まで自分の足元にあった“常識”というか、意識するまでもなく当然のようにそこにあったものが、がらがらと音を立てて崩れいってしまったような。ぶり返してまた顔を青くさせたわたしの肩を、葉隠ちゃんの手が今度は少し強めに叩いた。

「大丈夫だよー、リカバリーガールに診てもらえるんだから!私たちも負けないようにがんばろ!」
「……うん、うん。そうだよね……よし!」

 不思議なもので、表情も姿も何一つ見えないというのに、葉隠ちゃんの全身からはまばゆいばかりの明るいオーラが溢れ出している。横では尾白くんも拳を握って頷いていて、わたしも再度頬をぺちぺち叩きながら気合いを入れ直した。いつまでもうだうだしてはいられない。なんたってイズは爆豪あいつに勝ったのだ。あの・・イズが。だったらわたしも不甲斐ない戦いはできない――というか、絶対に勝ちたい。

 頷く二人を手招きして、早速作戦会議に入る。わたし達はヴィランチーム、時間切れまで“核”を守りきるか、ヒーローを二人とも専用のテープで捕まえてしまえば勝利。相手はBチーム、名前はまだちゃんと覚えられていないが、腕がたくさん生えた背の大きな男子と、コスチュームの半分が氷漬けになっていた寡黙な雰囲気の男子だったはずだ。向こうの“個性”もまだいまいち把握しきれていない以上、対策を練るというよりは、わたしたちの能力をどう活かして防衛線を張るかという点が重要になってくる。

「やっぱ葉隠ちゃんが隠密行動で、隙を見て死角から相手を捕まえるのがよさそうだよね」
「任せて!尾白くんはもしかして格闘得意?」
「うん、俺はこの場で“核”を守る戦闘要員がいいと思う。で、南北さんは……」
「えっと、わたしの“個性”なんだけどさ。うまくいけばこれで相手の勝ち筋、ひとつは潰せると思うんだよね」

 言いながらハリボテの“核”に右手で触れると、表面を撫でるように一瞬赤い光が走る。作戦なんて呼ぶのは大袈裟かもしれないけれど、ひとつ思いついた“個性”の活用方法を説明すると、二人はうんうんと頷いて同意してくれた。隠密活動のために早速部屋の外へ出て行く葉隠ちゃんの見えない後ろ姿を見送って、その場にどんと構える尾白くんの背後に陣取りながら、念のため左手で床に触れておく。
 入試の実技を含めれば、“個性”を使った実戦もこれで二度目。今度は全身金属の阿呆なロボットではなく、ヒーロー志望の人間が相手だ。自分の力がどこまで通用するのか、今日の経験はいいものさしになることだろう。どくどく弾む鼓動には緊張とともに、僅かな高揚感が混じり始めていた。きっと目の前の尾白くんも、ビルのどこかにいる葉隠ちゃんも同じような気持ちなんだと思う。

 ――まあ、そんなわたし達の高揚も作戦も、開始数秒でビルごと凍結・・させられてしまったのだけれど。



















 “核”の位置は、開始と同時に索敵を買って出たチームメイトの言葉から容易に推察できた。一人離れて素足で動いているのは透明の伏兵、残りの二人が固まっている部屋が恐らくヴィランの拠点。淀みない足取りで辿り着いた四階、その部屋の扉を開けば案の定、“核”の前で身動きできなくなった尾白がこちらを見て焦ったように足を持ち上げようとする。彼の足を床ごと氷漬けにした張本人――轟が制止をかけたのは、誰の目から見ても自分達の勝ちは明らかだと確信していたからだった。

「――やめとけ。動いてもいいが、足の皮剥がれてちゃ満足に戦えねえぞ」

 言いながら、息を呑んで固まる尾白の横を通り過ぎようとしたその時、天井が青く光ったような気がした。ほんの一瞬のことだが、ぶわりと波が広がるように、確かに。思わず上を見上げたその時、一つの見落としに気付く。四階には二人・・いると障子は言っていた筈だが、見える範囲で足止めを食らっているのは尾白一人。
 ――もう一人いる。即座に戦闘の構えを取ろうとした轟の腰に、筋肉質で頑丈な尾が強く巻きつく。勝ちを確信していた彼の余裕、そして天井の光とどこかに潜むもう一人の存在に気を取られた、ほんの一瞬の隙を突いての出来事だった。

「――南北さん!」

 刺すような足の痛みに耐えながら尾白が叫ぶと、轟からは死角になっていた柱の陰から人影が飛び出してくる。壁を蹴り出して弾丸のように飛んでくる女子は、どうやら何らかの手段で地面に足をつけぬまま、ビル全体を覆う氷結をやり過ごしたようだった。
 だが甘い。尾で胴を繋ぎ止めた程度では止められない。轟が右足を踏み鳴らせば、床を覆う薄氷とは違う、それなりに大きな氷の壁が彼女目掛けて隆起する。すると少女はすぐ横に生えていた柱に向かって左の拳を繰り出して、まるで何かに強く弾かれたように、不自然なまでの角度と速さで体を捻った。「い゛っ!?」と不穏な声が食いしばった歯の向こうから漏れている辺り、脇腹の筋肉でも痛めたのかもしれない。その不規則な動作に轟が目を奪われている間にも、少女は弾かれた先で再度柱を蹴って肉薄し、

「タッチ!」

 叫びながら無防備に投げ出されていた轟の右腕を強く叩いて、そのままの勢いで背後へ通り抜けていく。ぴり、と微かに痺れるような感覚と共に、赤い光が――先ほど天井に走ったものとよく似た光が、今度は轟自身の体を駆け巡った。咄嗟に腰を捉える尾を凍らせるとようやく拘束が緩み、振り向きざまに再度足から氷を走らせて彼女を追ったが、跳ねるスーパーボールのようなジグザグの奇妙な軌道で部屋を飛び出していくその背中を捉え切ることができない。

 何かされた。具体的に何かはまだわからないが、あの女子が行動不能の味方と“核”を捨て置いて部屋を出て行ったということは、余程の馬鹿でもない限り何かしらの勝算があるはずだ。
 一部凍った尾を完全に振り払い、先ずは予定通り“核”の確保を試みる。すると案の定、伸ばした手とハリボテの間にバチバチと赤い光が走り、痛みこそないものの強く押し返されるような感覚があって、無理やり押し込もうとした右手が大きく後ろへ弾かれてしまう。
 思わず舌打ちが漏れた――やられた・・・・。苛立ちを息に乗せて浅く吐き出しながらコスチュームに仕舞っていた捕獲テープを引っ張り出し、それ以上は抵抗する気がないらしい尾白の体にぐるりと巻きつけて、耳元の無線に手を伸ばす。それは、彼にとっては少しばかり、不本意で屈辱的な宣言ではあったが。

「……わりィ、一人捕り漏らした。作戦変更だ」





















「あーッもう作戦めちゃくちゃだよ!何なのそれ!」

 悪態をつけども遠目に見える男子は眉ひとつ動かさないまま無言で右足を踏み鳴らし、鋭利な氷の塊が凄まじい勢いで廊下の向こうから迫ってきた。わたしごと氷漬けにする気満々のそれをどうにか躱そうとしたのだけれど、既に凍っている床に足を滑らせてうつ伏せに倒れてしまう。咄嗟に直下の床をS極みぎてで叩いて、すぐさま自分の胸元もS極みぎてで触れれば、反発の力がわたしの体を上へと吹き飛ばしてくれた。切羽詰まるあまり調整もクソも無く、背中を天井にしこたま打ち付けて噎せ返ったところで、自分がその格好のまま天井に張り付いてしまっていることに気付く。
 ああ、この辺の天井にもN極ひだり張ってたの忘れてた。でもまあ、氷結はここまで届かずに止まったし結果オーライ――と呼吸を整えようとした矢先、天井に背中をへばりつかせたわたしを一瞬呆気に取られたように見ていた相手が、すかさず右手を下から払い上げた。今度は天井に楽々到達する高さで迫ってきた氷塊を避けるべく反発で体を後ろに弾くと、どうやらその辺りの床にはS極みぎが張ってあったようで、足が着かずにバランスを崩しかける。
 ぐっと止まってどうにか空中直立。一応こんな風に空中に立つ練習も前々からしてはいたのだけれど、今回のように実戦で使うならもっともっと鍛えておかないと駄目そうだ。ぜえぜえ肩で息をしながら逃げ惑うわたしの前に聳え立っていた氷の塊が見る間に溶けて、向こう側から半分を氷に覆われた姿の男子が歩いてくる。それまで黙々と攻撃を繰り出していた彼は、そこで初めてぼそりと漏らした。

「……よくわかんねえ“個性”だな。動きがメチャクチャだ」
「げほ、ごほッ……そ、そっちこそメチャクチャな“個性”っていうか……」

 がち、とさっきから寒気で鳴りっぱなしの歯を食いしばる。開始後秒単位で氷漬けにされてしまった四階から逃げ出して二階まで降りてきたのだけれど、当然のように三階もここも一面氷の世界――どころか多分、最初っからビル全体がガチガチに凍らされているのだろう。尾白くんは目の前で足を封じられてしまったし、さっき無線で連絡を取った葉隠ちゃんも「足痛いー!!靴脱いだのが裏目ったー!!」と泣いていた。圧倒的な威力だった。
 たまたま反発で浮いていたわたしが、“個性”で彼と“核”の接触を妨害できただけマシな方だ。多分目の前の半分カチコチ男子の頭の中では、初手で三人とも封殺して一瞬で勝利クリアという予定が組まれていたことだろうし、危うくまさにその通りになってしまうところだった。ただ、このままわたしが逃げ続けることさえできれば“核”には触れられないわけだから、一応勝ち目が全くないわけではない。涼しい顔で狭い廊下に氷塊を出しまくり、的確にこちらの退路を塞いでくる彼が相手である以上、厳しい戦いであることには違いないけれど。

「だが……わかってきた」

 氷のマスクに覆われていない方の黒い瞳が、たった今踏み出したばかりの自分の左足をちらりと見下ろす。息つく間もない猛攻をやり過ごすことに必死だったわたしは、そこでようやくその足と床の間に赤と青の光がちらついていることに気付いた。ああ、そこN極ひだり張ってあったんだっけ。すっかり頭がこんがらがって忘れてた。彼の体には“核”と反発させあうためのS極みぎを被せておいたはずだから、ということは――彼の左足は今地面に引っ付いて剥がれないはずだ。思いがけないチャンスにすぐ横の壁を蹴り出そうとするわたしを無視して、少年は淡々と続ける。

「単に弾くだけの“個性”かと思ったが、場所によっちゃこうしてくっつくこともある。要するに磁力・・なんだろ、これ」
「……、」
「見たとこ、手で触って発動させるタイプみたいだな――だったら何も問題ねェ」

 言い切るなり、彼はそのまま構えを解いて、何をするでもなく黙ってその場に立ち止まった。思わず息を呑んで身構える。片足が床に捕らわれているとはいえ、手から足から一瞬で氷結を打ち出してくるとんでも“個性”の持ち主だ。距離自体はさっきまでよりも近いし、一見緩んだように見えるあの体勢からだろうと何だろうと、やろうと思えばすぐにでもわたしに向かって攻撃を放てるはず。この状況を隙とは呼べない。捕縛狙いで間合いを詰めても氷の餌食になるだろうし、かと言って迂闊に背を見せるのも憚られて逡巡したそのとき、

『終了ー!ヒーローチーム、勝利WIN!』
「――へ!?」

 無線を通して聞こえてきたオールマイトの声に思わず素っ頓狂な声が漏れた。状況が掴めず咄嗟に辺りを見回したわたしの耳元で、今度は尾白くんの声が聞こえる。

『――南北さん、葉隠さん、ごめん!登ってきた障子に“核”取られた!俺もうテープ巻かれちゃってて、止められなくて……!』

 ぽかんと口を開きながら放心するわたしの前で、散々わたしを翻弄してくれた彼は手近な氷にぺたりと左手を当てた。みるみるうちに周囲が暖かい空気に包まれて、天井から解けた氷の雫がぽたりと落ちてくる。思えば今崩れていっている氷の壁たちも、階下へつながる階段からわたしを遠ざけるように配置されているようにも見えた。
 わ、忘れてた。目の前のことに必死すぎて、もう一人の敵の存在がいつの間にか頭の中からすっぽりと抜け落ちていたのだ。激しいショックを受けたわたしの心境を知ってか知らずか、彼はこちらを一瞥もしないまま独り言ちる。

「……一人で勝つつもりだったんだが、随分粘られちまったな」

 やがてたまたま同じ階のどこかに居たらしい葉隠ちゃんが、「私なんにも良いとこなかったよー!ほんとごめんねー!」と悔しがりながら駆け寄ってくる。かくして初めての戦闘訓練、わたしはクラスきっての実力者――半分カチコチ男子こと轟焦凍くんに、完全敗北を喫したのだった。

前へ 次へ
戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -