「――……」

 ふと焦点が合って、曖昧にぼやけていた視界がにわかに鮮明さを取り戻した。傍らで燃え盛る炎の壁に照らされた青い地面の上を、すっかり土や泥に汚れてしまった靴がとぼとぼ歩いている。
 どこか他人事のように眺めていたそれが自分の靴なのだと気付いて、はっと息を吸い込んだ。熱く乾いた空気が肺を満たして、また少し目が覚めた。

(……やば、半分意識飛んでたかも)

 父親クソ野郎をどうにかこうにか叩きのめし、気絶したあいつを置き去りにして歩き始めてから、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。一瞬朦朧としていたけれど、周囲の景色にそれほど変化はないようだから、恐らくそんなに長くは経っていないと思うんだけど。
 全力で“個性”を振り絞ったせいもあって、精神的にも肉体的にもだいぶ疲労が蓄積している感覚がある。特に鉄分が足りていないせいか、さっきから頭がぼーっとしたり目眩がしたり、自分でもわかるほどふらふらの状態だった。
 しっかりしなきゃ――左手で頬をつねってどうにか意識を繋ぎ止める。右手の方は先程の戦闘で大火傷を負って大変なことになってしまった。左の方も無事ではないが、まだいくらかましな方だ。掴まれてしまった肩も併せてきれいに治さないと、こんな無茶やったなんて知れたらデクが怒るだろうな――そんなことを考えながら、重い足を引き摺って歩を進めた。
 疲れ果てていようが、どこが痛かろうが、今止まるわけにはいかない。

(ヴィランの狙いの一つ判明――)

 戦闘の最中に聞こえたマンダレイのテレパス。ヴィランの狙い、恐らくは今回の襲撃の主たる目的。
 爆豪あいつが狙われてるっていうなら、行かなきゃ。いらないって、余計なことすんなって怒られるかもしれないけど――それでも、救けなきゃ。
 生徒全員にあのテレパスが聞こえていたのなら、きっとデクも同じように考えるだろう。無事に洸汰くんを保護できていれば、もう爆豪あいつと轟くんの組がいそうな森の中腹辺りに向かっているはずだ。どうにか合流して、まずは爆豪あいつを安全なところまで、確実に送り届けないと……。

「……――?」

 考えながら黙々と歩いていたその時、ふと何かが視界の隅を掠めた。炎に照らされてもなお薄暗い森の中、前方にある小さな茂みから、何か、地面に横たえられた人の足のようなものが力なく投げ出されているのが見える。
 どこか見覚えのある靴のように見えた。目を凝らしてよくよく見れば、あれは――耳郎じろちゃんの靴だ。

 一気に意識が覚醒した。足の重さも眩暈も忘れてそちらに駆け寄り、慌てて茂みの奥を覗き込むと、やはり意識を失った耳郎じろちゃんの体がぐったりとその場に横たわっている。口にはガスマスクが装着されているあたり、どこかで有毒なガスでも発生していたのだろうか――よく見ればすぐそばには葉隠ちゃんらしき服と靴も力なく横になっていた。
 そしてそのすぐ側、茂みに隠れるように膝を折って座り込んでいる青山くんと、ばちりと視線がかち合う。二人と違って彼は意識がはっきりしているらしい、強張った面持ちで、口元を両手で覆い隠しながら、きらきらの目をまん丸に見開いてわたしを見た。
 よかった、無事だ。心底ほっとして息が漏れた。そのまま声をかけようとしたその時――青山くんが、声を発さないまま、泣きそうな顔で激しく首を振った・・・・・。恐怖に歪んだ瞳が何かを訴えるようにわたしを見る。

 ――嫌な、予感がした。
 青山くんと見つめ合うわたしの目の端に、斜め前方の辺りに何かが見える。体は動かさないまま、目だけでそっとそちらを見ると、青山くんが隠れるように背にしていた茂みの奥――二人の男がそこに立っていた。
 どこかの漫画コミックで見たような覆面スーツの男と、爛れたような皮膚を継ぎ接ぎに留めた顔の男。見知らぬ顔。雄英の、合宿の関係者では、ない顔。

「――」

 しくじった――最悪のタイミングで、この場所に来てしまった。
 そう悟った瞬間、継ぎ接ぎの男の薄氷のような瞳が凄みを帯びて、上げられたその腕からちりちりと青い炎がちらついた。咄嗟に素早くかがみ込み、N極ひだりで叩いた地面との反発で大きく飛び上がる。弧を描くようにヴィラン二人の頭上を飛び越えようとする私を見上げて、覆面の男が「おお!?」と叫び、継ぎ接ぎの男は口角を上げながらぐんと腕をこちらに向けた。
 青い炎が渦を巻いて噴き出す。間一髪投じた捕縛布が間に合って、近くの木に引き寄せられ飛び付く形でそれを躱すと、既に父親クソ野郎に掴まれて焼けた縮れてしまっていた毛先から、また焦げたような匂いが微かに鼻をつく。覆面の男が大声を上げてわたしを指さした。

「あー!!荼毘お前よく見ろ、こいつ殺しちゃ駄目な奴だ!!殺せ殺せ!!」
「……殺すなとは聞いてないな。死柄木は早い者勝ち・・・・・としか言ってない」
「でもスミスが捕まえたいって言ってたろ!言ってねえけどな!」
「マグネは殺したがってた。それに俺も……」

 継ぎ接ぎの男がまた、どこか凄みを帯びた顔付きで笑う。

「ああいう身勝手な男はどうにも気に食わないんでな……殺したい気分だ」
「(気分で殺すな……!)」

 内心悪態を吐きながら、ぼやけて本調子ではない頭を必死に回転させる。急いで回り込んだ甲斐あってか、幸いヴィランは二人ともわたしの方を向いていて、後ろの茂みを振り返る様子はなかった。
 なによりもまず青山くんと、意識のない耳郎じろちゃんや葉隠ちゃんの方向に攻撃が向かないように、奴らを少しでもここから引き離さなければならない。継ぎ接ぎの方はあの青い炎が“個性”なんだろうけれど、覆面の方が果たしてどう出るか――いずれにせよ、様子を見ながら後退して、炎で逃げ道を塞がれる前に何とか撒いていくしかないか。

 そう考えた矢先、突き出された継ぎ接ぎ男の両腕から再び炎が迸る。慌てて捕縛布を飛ばし、先程と同じようにしてなんとか避けると、覆面の男がまた大声を上げた。

「俺は反対だ!スミスは娘のことを心から心配してるんだ、引き合わせてやるべきだろ!今すぐ消し炭にしてやれッ」
「そんなもの方便だろ、あれは生粋のクズ野郎だよ」
「そんなことない、あいつはいいヤツなんだ!ちょっと昔のトラウマで心が傷付いてるだけで……最低最悪のクソ野郎なんだ!」
「……まあ、おまえがそう思うならそれでいいさ。ただ、獲物はボスの言う通り……早い者勝ちだ」

 何だかわかりにくい会話の末、結局話は振り出しに戻ったようで、やはり荼毘と呼ばれた男はわたしを見逃してはくれないらしい。爛れた手のひらにまた青い炎がちらつく。
 とにかく森の中では分が悪過ぎる、少なくともこの炎の壁からもう少し距離を取らなければ。そう考えて、二人のヴィランからなるべく目を離さず後ろに退こうとしたわたしを見て――荼毘は不意に、ああ、と呟いた。

「でもそうだな、折角なら――吸わせて・・・・からにしておくか」

 ――吸わせる?何を?

 その疑問が浮かんだ瞬間、背中にぞくりと悪寒が走った。
 なぜそんな感覚を覚えたのか、すぐには分からなかった。理解するよりも先に、鋭い痛みが背中の、脇腹の裏辺りをひと息に貫いた。
 あまりに突然のことで、声も出なかった。お腹が熱い。固まる思考とは裏腹に、体は痛みに耐えかねてうつ伏せに崩れ落ちていく。それに覆い被さるようにして、何かやわらかくて温かいものが、わたしの背中にそっと擦り寄った。

 全く、気配を感じなかったのに――。
 息が苦しい。全身から嫌な汗が噴き出ているのがわかった。

「こんばんは――お名前はなんですか?」

 女の子の声だったが、倒れ込んでしまったわたしには振り返ることができない。辛うじて首を捻って相手の姿を確かめようと試みる。視界の奥に見えるのは炎に青く照らし出された森、その手前に、カーディガンを纏った腕がとんと突かれた。明るい色の髪の毛が目の前に垂れてくる。
 見たことのない、多分わたしと同じくらいの歳の女の子が、どこか恍惚としたように目を細めて、笑っていた。

「お友達になりましょう!」











「――捉えた!」

 風圧に負けじと声を張り上げた障子が、滑空のため翼のように広げていた複製椀を畳んで、掴んでいた二人の腕を離した。掴まれていた二人――轟と怪我だらけの緑谷も、眼前に標的の姿を捉えて狙いを定める。
 後は追い付いて、取り戻すだけ。全身を苛む激痛に知らぬふりをして、緑谷は歯を食い縛った。

 緑谷、爆豪、轟、常闇、障子――合わせて五人の少年が、爆豪を守りながら施設に帰還しようと動き出してから少し経った頃、突如として彼らの前に姿を現した一人のヴィラン。手品師じみた気取った装いのその男は、標的である爆豪を“個性”で小さな玉のようなものに閉じ込め奪い取り、その上アドリブ・・・・などと称して、最後尾にいた常闇の身柄までもを同じように攫ってみせた。緊迫した状況下、少年たちの誰一人として油断はなかったにも拘らず、実に鮮やかな手並みだったとしか言いようがない。
 それでも諦めるものかと、その場に居合わせた麗日や蛙吹の“個性”も借りて、逃げるヴィランにどうにか追い付いたのが今だった。軽やかに森の上を跳んで逃げる手品師マジシャンの背中目掛けて、弾丸のような勢いで猛追した三人が飛び掛かる。
 空中で身をかわす術もないヴィランの背を三人が捉えたのと同時に、麗日の“無重力”が解除され、少年たちの身体が重さを取り戻した。
 障子と轟が男の両肩の辺りを鷲掴み、体勢を崩した背中を両手が使えない緑谷が踏み付ける。勢いそのまま、四人は半ば墜落するようにして森の幾らか開けた場所へと、派手な土埃を上げながら降り立った。

 ――が、折悪くそこは集合場所・・・・だった。土煙を上げて堕ちた四人と、居合わせた覆面のヴィラン、継ぎ接ぎのヴィラン、刃物を持った女子高生、全員の間に一瞬沈黙が流れる。

「知ってるぜこのガキ共!!誰だ!?」
「――Mr.ミスター避けろ」
「!了解ラジャ!」

 すぐに動いたのは継ぎ接ぎの男だった。素早く上がった腕から炎が噴き出すより早く、踏み付けにされていたMr.ミスターが“個性”で地面を抉り、自身を圧縮して姿を消す。残された少年三人を凄まじい熱が襲い、もろに受けた障子と緑谷が言葉にならない悲鳴を上げた。

「死柄木の殺せリストにあった顔だ!そこの地味ボロ君とお前!なかったけどな!」
「チッ――!!」

 すかさず背後に迫ってきた覆面の男を、轟が間一髪氷結の壁で遠ざける。地面に空いた穴を挟んで反対側、倒れ込もうとする緑谷の方には制服姿の少女の投げた管が飛んだ。先端は極太の注射針のように尖っている──刺さればそれなりの傷を受けるだろう。辛うじて身を躱した緑谷に、少女は頬を赤らめながら飛び掛かった。
 緑谷にとっては一度見た顔ではあった。先程と麗日や蛙吹と合流した際、彼女たちに襲い掛かっていた人影は恐らくこの少女だ。歳の頃は自分たちとそう変わらないが、瞳は常軌を逸した狂気を滲ませている。

「トガです出久くん!さっき思ったんですけど、もっと血出てた方がもっとカッコイイよ出久くん!」
「はあ!?」
「……っ!」

 緑谷を押し倒し、何やら捲し立てながら刃物を振り上げた少女を、障子が火傷を負った腕で払い除ける。
 そうして各々が襲撃を食らう最中、穴に隠れていたMr.ミスターが姿を現し、汚れたコートの肩口を軽く払いながらぼやいた。

「いってて……とんで追ってくるとは!発想がトんでる」
「爆豪は?」
「もちろん……、……!?」

 継ぎ接ぎのヴィランに確認を求められ、コートのポケットを探った男の動きが止まる。それを見届けた障子は、緑谷を助け起こしながら声を張り上げた。

「二人とも逃げるぞ!!今の行為・・・・でハッキリした……!」

 言いながら障子が握り込んだ左手を揺らす。ころりと小さな音を立てたのは、ビー玉のような小さな玉二つ――先程飛び付いた折に男からくすねておいたものだった。

「“個性”はわからんが、さっきおまえが散々見せびらかした――右ポケットに入っていたこれ・・が、常闇、爆豪だな、エンターテイナー」

 常闇と爆豪が奪われたその時、わざわざ緑谷たちの前に姿を現したMr.ミスターが、これ見よがしに見せびらかしていた二つの小さな玉。これが恐らく、彼の“個性”で閉じ込められた常闇と爆豪そのものだ。
 仲間を取り戻せたのなら、これ以上ヴィランと戦うリスクを冒す必要は無くなる。「障子くん!」「っし、でかした!」と、緑谷と轟がすぐさま撤退に転じようとした――その時。

 彼らの目の前に、見覚えのある黒い靄が大きく立ち上った。忘れられるはずもない、あのUSJ襲撃事件の時にも現れた、ワープの“個性”を持つ靄人間だ。加えて緑谷は、視界の端に見える森の方に、脳がむき出しになった大柄な人影の姿を捉えた。脳無――USJや保須での惨事を想起した少年たちに戦慄が走る。
 そうして退路を塞がれ立ち止まった三人の少年を、しかし当の靄人間はすぐさまどうにかするつもりはないらしい。淡々と口にしたのは連絡事項のようだった。

「合図から五分経ちました。行きますよ、荼毘」
「まて、まだ目標が……」
「ごめんね出久くん、またね――あっ」

 辺りをぐるりと取り囲むように幾つもの出入り口が開き、ヴィラン達はそれぞれ自分のそばにあるそれに飛び込んで姿を消していく。トガと名乗った少女もまた、緑谷に名残惜しそうに声を掛けながら黒い靄の中に飛び込もうとしたが――ふとその首の辺りから何かがぼたぼたと零れ落ちた。声を掛けられた緑谷の目が、一瞬そこに奪われる。

「タイヘンです、大事なお友達の血が――たくさんチウチウし過ぎてこぼれちゃった。ちゃんと蓋しないと勿体ないです」

 そう呟いて、立ち止まった少女が背中に手を回す。どうやら彼女の首元に備え付けられている装備――先程緑谷に向けて投げ付けられた大きな注射針のうちの一本から、何やら真新しい血のようなものが逆流して溢れているようだった。注射針から背中のタンクに向けて繋がれた管の一本が、赤黒く汚れているのが暗い中でもわかった。
 緑谷の思考が一瞬固まった。血。たくさん吸い過ぎて、溢れた――いったい、誰の?
 彼の視線に気付いたのか、トガは少し照れたように顔を赤らめた。そしてはにかみながら、緑谷たちの背後の方、立ちはだかるヴィラン達に隠されてそれまで誰も視線を向けていなかった、集合場所の奥の方をちらりと見遣る。

「そうだ出久くん、あの子のお名前知ってますか?今日は聞けなかったので――よかったら今度、教えてね」

 緑谷の目が、自然とその視線の向く先を追った。何か恐ろしい、冷たい予感が背筋を滑り落ちていく。つられて、轟と障子も一瞬そちらを見た。三人の視界が、横たわるその体をやや遠目に捉えた。

 ――見覚えのある少女が、そこに転がっていた。
 力なく倒れ臥した手脚は恐ろしい程に白い。その血の気のなさを引き立てるかのように、地面には赤い液体がじんわりと広がっているのが見える。
 南北が横になっていた。小さな血だまりの上で、ぴくりとも動かないまま。

「――」

 三人が息を呑んだその瞬間、障子の手の中で何かが弾けた。はっとした彼が自分の手元に目をやれば、常闇と爆豪なのだと思っていた小さな玉が、何の変哲もない氷の塊に姿を変えている。彼らの背後で仮面を外したMr.ミスターが、べろりと出した下の上で本物・・を意地悪く転がしてみせた。

「マジックの基本でね。モノを見せびらかす時ってのは……見せたくないモノトリックがある時だぜ?」

 現れた氷は恐らく、最初にMr.ミスターと会敵した時に轟が放った氷結の破片。障子が握らされたのはダミー・・・――はっとして切り返そうとした緑谷達の目の前で、手品師マジシャンは頭を垂れながら荼毘と共に靄の中へと体を沈めていく。
 些か距離が遠過ぎる。間に合わないかと思われた、その時――、

「――!?」

 一条の光線が、Mr.ミスターの顔面を抉るように掠めていった。仮面が砕け、衝撃で開いた口元から二人・・が飛び出す。
 すぐ側の茂みの中でずっと息を潜めていた青山が、勇気を振り絞って放った一発の光線レーザーが、決定的な隙を生み出したのだ。
 好機を逃すまいと、三人の少年が一斉に駆け出したが、途中で緑谷の足が止まる。マスキュラーとの戦闘で砕け散った四肢を無理矢理動かしてここまで追い縋ってきた彼だったが、肉体はとうに限界を超えていた。激痛が全身を走り、気持ちとは裏腹に脚が動かない。
 代わりに障子と轟が、それぞれ常闇と爆豪を閉じ込めた玉に向かって手を伸ばす。片方は掴み取り、片方は――目の前で、掠め取られて。

「哀しいなあ――轟、焦凍」

 玉の一つをしっかりと握り取り、皮肉めいて笑った荼毘が、確認と称して隣のMr.ミスターに“個性”を解除させる。
 刹那、障子の元に解放された常闇が姿を現し――敵の手元には爆豪勝己が出現する。荼毘に首根っこを掴まれたまま、ゆっくり靄の中に引き摺り込まれていく彼の目が、まず緑谷を捉えた。

「かっちゃん!!」

 血みどろの体で吠えながら、一度は止まった足を無理矢理動かして、自分に向かって手を伸ばそうとする緑谷デクの姿を。

「――来んな、デク」

 その言葉は果たして、どんな感情から出たものだったのか。
 矜恃プライドか、或いはそうまでして自分を救けようとする彼に対する、何らかの拒絶か。
 けれど、口にした彼自身がそれを整理し、理解するよりも早く――何か、ぴりりとむず痒いような感覚が全身を走ったのを感じた。身に覚えのある、よく知っている感覚。幼い頃に何度もなすりつけられた磁力ちからの肌触り。

 無意識に視線が動いて、彼女の姿を探していた。すると奥の方、少し離れた場所で横たわった誰かが、辛うじて動く手をこちらに向かって這わせているのが見えた。
 血だまりの中に投げ出されたその手のひらから、青いN極ひかりが奔っている。それきり少女の体はぴくりとも動かない。ただ、目が――遠目でほとんど見えないはずなのに、うつ伏せ気味に垂れた髪の間から覗いている双眸が、苛烈とも言える感情を宿してこちらを見据えているのが、わかったような気がした。

「――かっ、……ちゃん」

 絞り出すような声が聞こえたような気もしたが、気のせいだったかもしれない。
 それに応えることはしないまま、或いはできないまま──爆豪勝己は、黒い靄の渦の中に飲み込まれて消えていった。


「……あ、」

 靄に向かって手を伸ばしていた緑谷の視界が、絶望に色を失う。
 目の前で、守りたかったものを――救けたいと思っていたものを、奪われた。

「――っ……ああ゛!!」

 崩れ落ちるように倒れ込みながら、緑谷が叫んだ。悔しさと、絶望と、抑えきれない感情が全て絶叫になって、夜の森に響き渡る。
 遅れて駆け付けた麗日と蛙吹が、その様子を目撃して息を呑んだ。障子と轟も呆然としてしまって、すぐには動けない。けれど、そうだ――まだここには救けるべき友人がいる。動揺する心を努めて抑えながら、まず動き出したのは常闇だった。

「――南北、もうよせ!」
「……!」

 その呼び掛けに我に返った轟が振り向くと、ちょうど常闇と、共に駆け寄った障子が二人がかりで血だまりの中から少女の体を抱え起こした所だった。もうこの場にヴィランは一人も残っていないというのに、ぐったりと投げ出された左手からはまだ“個性”の光が地面に向けて垂れ流されている。
 息はあるようだが、到底無事には見えない。たった今、取り戻したかったものを目の前で掠め取られたばかりだというのに――この上同級生の彼女まで奪われるような事態を許せるはずもない。悔しさゆえか、まだ微かに震えている手を握り込みながら、轟は障子の腕を半ば押し退けるような勢いで南北に右手を伸ばした。

退け、一旦凍らせて止血する……!」
「頼む!麗日、蛙吹、時間が惜しい……先程と同じように、俺達を施設まで移動させることはできるか?」
「もっ……もちろん!早く手当しないとっ……」
「緑谷ちゃんは私達が見るわ。三人は火照ちゃんを……」
「――南北、おい……聞こえるか!」

 本来適切な処置ではないかもしれないが、恐らく一刻を争うこの状況では他の手段を探す暇もないし、何もしないよりは良い筈だ。恐らく出血元と見られる背中の傷を注意深く氷で塞ぎ、ついでに手のひらや肩口にある酷い火傷も気休めに冷やしてやりながら、轟は少女の手を掴んだ。
 血の気が失せて真っ白になった手のひらからはやはりまだ“個性”が溢れていて、一向に止まる気配がない。この状態でこれ以上の消耗はどう考えても望ましくないが――少女の虚ろな目は、轟の呼び掛けを受け取ることなく、今も誰かを探し続けているようだった。

「…………、……か、っ……」

 聞こえてきたのはそれだけ。だが、彼女の思いを推し量るにはそれで十分だった。冷たい手を握る轟の指に力が込もる。それは――たった今、自分がこの指先で、取りこぼしてしまったものだった。

「南北、もういい。今は休め……もう――」

 呼び掛けていた障子が、口にするのを躊躇うように言葉を切った。彼とて悔しい思いは同じなのだろう――それに何より、これは自分が伝えなければならないと、轟は思った。
 悔しさが、燻る炎のようにじくじくと胸を焼く。血でぬるりと滑る少女の手をきつく、きつく握り締めて、轟は絞り出すように告げた。

「――……もう、爆豪はここに居ねえ」











 程なくして合宿場に救急や消防が到着し、森に放たれた火も消し止められた。
 参加していた教師、生徒達の安否を確認した結果、プロヒーロー1名が頭を打ち意識不明の重体、1名が大量の血痕を残して行方不明。生徒41名のうち、無傷の者が13名、ヴィランのガスによって意識不明の重体が15名、重軽傷者12名。

 ――行方不明、1名。

 そして、現行犯逮捕された三名・・ヴィランを除き、“ヴィラン連合開闢行動隊”と名乗った彼らは、その全てが忽然と姿を消してしまった。

 イレイザーヘッドが生徒に言い聞かせていた勝利条件は、“全員無事でいること”。
 正しく、この林間合宿は――完全敗北に終わったのである。











「ちょっと、なんで拾ってきたのよそのクズ男ぉ!」
「……この男に関しては、敵の手に渡すのが少々心配なもので」
「んもうっ!!どういう意味!?」
「口割りそうってことだろ。俺たちとはモチベーションが違うからなぁ、組織に対する義理とかそういうモンがまるでない」

 肩を竦めながら言うMr.ミスターに黒霧は小さく頷いた。
 襲撃作戦から数日経った、神野区某所。ヴィラン連合のアジトであるその建物の中には、雄英高校の林間合宿襲撃から帰ってきた面々が集まっている。マスタード、マスキュラー、ムーンフィッシュ――刻限までに集合場所に現れなかった、恐らくヒーロー側の人間に撃退されてしまった者達は、そのまま森に置き去りにされ、この場所には帰って来られなかったのだが。
 どういう訳か、アジトには自力で集合場所に辿り着けなかったはずのスミスが、包帯だらけの姿で依然居座っている。マグネはそのことにずっと憤慨しきりだが、他の面々はさして気にもしていないようだった。
 彼を拾った張本人、黒霧の言い分は些か冷たくもある。スミスと妙に意気投合しているらしい覆面の男――トゥワイスだけが、そんな彼らに反論していた。

「バッカおまえら、スミスがそんな薄情な男に見えるか!?娘のためにここまで頑張ってる愛情深いヤツなんだぞ!?全く信用できねえ!!」
「娘からすればただの迷惑だろうけどな」
「そうよ!荼毘ったら気が合うわね!」
「というか肝心のその娘、トガがっちまったんじゃ……」
「――いや」

 トカゲのような身なりの青年――スピナーの言葉にきょとんと瞬くトガヒミコの奥で、カウンターに腰掛けていた死柄木が呟いた。

まだ・・死んでないってだけかもしれないが……警察の発表によれば、生徒の死者はゼロだ」
「あの子、スミスさんちの子だったんですか?可愛カァイかったのでついたくさんチウチウしちゃいました」
「……なあ、ボス」

 それまで黙りこくっていた張本人であるスミスが、不意に静かな声で呼びかけた。死柄木がちらりと視線をやると、男は依然痛む腹の辺りを押さえながらも、壁にもたれるように座り込んでいた体をゆっくり持ち上げる。

「ずっと考えてたんだ。どうやったらあの子をヒーローじゃなくせるか……どうやったらあの子を普通に生きさせることができるのか」

 けれど、具体的なことは何も思い浮かばなくて。
 もしかしたら、痛い目に遭えば諦めてくれるかもしれないとも思ったが――小さな子供の頃からずっとそうだったように、彼女の心はこの先も変わりそうにない。
 どうあっても、自分じゃない誰かを救けようとするのだろう。守ろうとするのだろう。多くのヒーロー達がそうするように、自分の身に危険が迫ることなど顧みず、命の危険さえも厭わずに。

「そんであの子の……火照自身の気持ちはもう変えられねえんだって、ようやく諦めがついた」

 そういうものなのだろう。現に同僚あいつもそうだった。生まれついてヒーローの心を持ってしまった者は、もう止めることなどできないのだ。
 ――だったら。

「だったらさ、世の中の仕組み・・・をブチ壊すしかねえんじゃないかと思ったんだ」

 守る側の痛みも苦労も知らず、のうのうとその背に庇われて、それを当然として生きている夥しい数の人間が存在する。
 一握りの人間達を、世の中の大多数の無力な連中が、死ぬまで食い潰す。
 だったら、その構図を壊してしまおう。ヒーローに守られて市民が生きる世界を。このヒーロー社会そのものを。その愚かしい常識を。
 一部の人間だけが痛みを負う、そんな世界が間違ってるんだ。一度まっさらにしてしまえば、全員が等しく痛みに晒される世の中になったのならば、きっとあの子の、同僚あいつの、俺の脚の痛みも、幾らか良くなるはずなんだ。


 あの子だけを消費しようとする世界を――ブッ壊してやる。


「なあボス――あんたと一緒に行けば、俺の望みは叶うか?」

 初めて会った時とは少し違う、確かな覚悟のようなものがその目に宿っているように見えて。
 男を横目に見ていた死柄木は、顔面を覆う五指の奥に隠された赤い目を、静かに細めて頷いた。



「……火照ちゃんっていうんだ」

 そんな二人のやりとりを椅子の背にもたれながら見守っていた少女が、ぽつりと呟いた。
 脳裏に思い浮かべていたのはあの日、合宿所から撤退する間際に目にした彼女の姿。
 たくさん血を流して、もう動けない筈なのに――ひとりの男の子に向かって死ぬ気で手を伸ばしていた、あの姿。
 “かっちゃん”と、絞り出すように呼び掛けた微かな声。

 きっと、きっと、あの子も恋をしているのだ。血みどろになるほど強烈に、強く、強く、想っているのだ。
 想像すると胸が躍って、顔が熱くなった。火照ちゃん、火照ちゃん。ああ、あの子はどんな恋をしているのだろう?私にも、話して聞かせてくれるかな。

 ポケットに忍ばせた血のボトルを撫でながら、少女はくすくすと楽しげに笑った。お茶子ちゃん、梅雨ちゃん、火照ちゃん、お友達がこんなにできるなんて夢みたい。たくさんたくさん、恋の話をしたい。
 私の恋の話も、聞いてくれるかな――。



 それぞれの感情と思惑が交錯しつつ、一つの事件が終わりを迎えた。
 けれどその先にもっと大きな――国中を揺るがすような大事件が起きようとしていることを、ヴィランも、市民も、ヒーローも、誰一人としてまだ知らない。

 ――或いは、“先生”と呼ばれる男だけは、知っていたのだろうか。
 神野の地にて、平和の象徴を巡るひとつの運命が、終息しようとしていることを――。


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