「あいつは、ヒーローなんかになるべきじゃない」
理由について説明を求めると、男はそう宣った。
――吐き気がする。
出会った時からずっと感じていた。本能的に、この男のことは受容できそうにないと。
どこから湧いてくるのか分からない不快感が、這い回る虫のように心身を蝕む。
「母親は駄目だ、子供を守れない――あいつを盾にしてガタガタ震えるだけだったんだぜ?アレがあんなだから、あいつはああなっちまったんだよ」
うるさいな。
そもそも全部おまえの自業自得だろ。
「手元に置いておきたいんだ。目を覚まさせてやりたいんだ」
そうかよ、好きにしてくれ。
家庭の事情に俺を巻き込むなよ。
「なあ、いいだろボス――あの
爆豪のついででもいいからさ!」
手元に置いて、今俺にぺらぺら語ったようなありがたい内容の説教を垂れて――それで?
靡くのか?
緑谷を庇うために俺の五指の前に突っ込んでくるような奴が。聞くのか?自分を殴って焼いて罵って、散々痛めつけた奴の言うことを。
結局おまえは自分勝手だ。娘のためだ何だと詭弁を並べ立てて――その実、自分の気持ち良いように物事を運ぼうとしているだけ。
後悔。トラウマ。愛や憧憬を裏返したところにへばり付いている憎しみ。全部たった一人に押しつけて、思い通りにならなかったら
打って。
嫌いだ。
おまえみたいな奴が大っ嫌いなんだ、俺は。
「……とはいえ、やはり」
憂うような声音に顔を上げた。カウンターの中に立ち、何やら飲み物を用意しようとグラスに氷を落としながら、黒霧が呟くように話しかけてくる。
「一枚岩でないのは心配ですね」
「……
敵だぜ?元々自分勝手な奴ばっかりさ」
「それでも利害の一致はある。だから彼らはあなたの下に集まった……しかし今回に限っては、その利害すら一致しない面々もいる様子」
こいつはさっきからずっとこの調子だ。少しばかり煩わしくなって、死柄木弔は口を噤んだ。
敵連合開闢行動隊――平和の象徴が齎す偽りの平穏を破壊する、その最初の一手として放った精鋭たち。数分ほど前にこのアジトから彼らを雄英高校の連中がいる合宿場所とやらに送り込んだ黒霧は、戻ってくるなり開口一番「本当に彼らのみで大丈夫でしょうか?」などと問うてきた。あんな
面して、結構心配性で世話焼きなとこあるよな――形を取らない靄の揺らめきを興味なさげに見遣りながら、死柄木は肩を竦める。
「話はついたよ」
「しかし、彼が我々の……あなたの言うことを大人しく聞く男であるとは思えない」
「……」
「あなたの言う通り、あなたの下に集まった者たちにはそれぞれの思惑がある……目的が似通っている面々はまだ良いですが――」
「言ったろ、黒霧」
次第に彼の言葉が諌めるような気配を孕み始めたのを察知して、死柄木は強引に話を切った。手元には今回の
捕獲対象――体育祭の表彰台という晴れ舞台で、雁字搦めに拘束されながら暴れようとしている少年の写真。そしてもう一つ。
メンバーの一人に直談判されて、優先殺害リストから取り外した少女の写真。
「どっちでもいいんだ」
成功しようが失敗しようが、関係ない。
ただ、
標的に関しては殺害より捕縛が望ましいのも確かだ。その場で殺してしまってもいいが、身柄が手元にあるほうが打てる手が圧倒的に増える。
彼を――爆豪勝己を選んだのは、彼が
抑圧されている側の人間だと踏んだからだった。
攻撃的な性格、途方もない自己顕示欲、思うように実力を発揮できないフラストレーション――どちらかと言えば
敵向きだと、彼を良く知らない人間の中にはそう思う者も少なくないことだろう。そういうイメージ、人々の想像を悪い方向へと膨らませる要因の数々。世間の目を眩ませるのに、こんなに都合のいい餌はない。
だから捕まえろと指示を出した。
なのに、それよりも大事なことがあると言い出した男が居た。
ヒーロー殺しの思想に感化されたとかいうトガ、荼毘、スピナー。
他のメンバーも、切っ掛けや細かな思惑は異なれど、“この社会を壊したい”という大目標は一致している。だから皆、今回は死柄木の“作戦”通りに動くことを是としたのだ。
けれど。そもそもあの男は、そんな
抽象的な目的のために
敵連合へ近付いて来た訳ではない。
雄英体育祭――全国ネットで中継された、忌々しいヒーローの卵どものお遊戯会。あの男は、その鬱陶しいお祭り騒ぎの中に、六年も前に離れ離れになった実の娘の姿を見つけたのだという。
敵連合は雄英を狙っている。USJ事件の報道から推察し、与すれば娘に接触できると、そう考えたらしい。
彼はただ、自分の娘を捕まえるという目的だけを胸にこの組織の門を叩いたのだ。その娘が“優先殺害リスト”に――USJ襲撃の際、忌々しくも邪魔に入った
餓鬼たちを中心に構成されたその中に名を連ねていたのだから、異を唱えるのも道理だった。
本当に、どうでもよかった。
捕まえたいなら勝手にすればいい。何人死のうが生きようが、ヒーロー相手に先手を取った時点で目的の一つは達されるも同然。俺には俺の目的が――名付けたばかりの“意志”がある。彼らを
使って勝つと決めた以上、多少の蟠りは飲み込んで、この際好きにさせようと思っていたのだ。
けれど――そうすると今度は、何の関係も無いはずの
オカマがそれに猛反発し始める。
“駄目よボス、それだけは絶対にイヤ――こんなロクデナシにあげちゃうくらいなら、私がサクッと殺しておくわ”
ふざけた口調とは裏腹に、突然据わった目でそんな事を言い出すものだから――折角堪えて飲み込んだ嫌悪感が、どうしようもなくぶり返してしまって。
「……大体、あの
小娘に固執してるのは例の二人だけだろ。あとの連中は割とどうでも良いと思ってる、しっかり自分の仕事を熟してくれるさ」
「……そうですね。そう信じましょう」
これ以上の問答は無用と悟ったのか、言葉だけ聞けば何とも
敵らしからぬ呟きを最後に、黒霧は口を閉ざして飲み物の準備に戻る。燻るような不快感を持て余しながら、死柄木は溜息混じりにカウンターの上へ視線を落とした。
少女の写真。予選の合間の何気ない一幕を切り取ったらしいその中で、屈託のない笑顔が眩いばかりに咲いている。鬱陶しいほど幸せそうなその顔を見ていると、別に思い出したくもない情景が次々に脳裏を掠めていって。
USJで対峙した彼女の表情。恐れながらも、怯えながらも、最後まで戦意を失わなかった瞳の輝き。
木椰区で再度
見えた時のこと。全く同じように、強張る全身を奮い立たせてこちらを睨みつけたあの双眸。
“あいつは、ヒーローなんかになるべきじゃない”
身勝手にそんなことを宣うどうしようもない
敵の男と、ムカつく程に心根がヒーローの色をしているあの少女との間に、血の繋がりがあるだなどという事実が馬鹿馬鹿しくて仕方なかった。笑える程に、いっそ哀れなほどに似ていない。顔も性根も何もかも。
自分の肉親が憎き
敵連合に与していると知ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。想像すると愉快なような気もするし、堪らなく不愉快なような気もした。わからない。やはり彼らのことを考えていると、出所の分からない吐き気と痒みが身体中を虫のように這いずり回る。
「……」
顔面を覆う大きな掌を自分の手でぎゅうと押さえ込めば、まるでこめかみを鷲掴みにされているような感覚。不快感は決して消えない――が、これで幾分ましにはなる。
(……どうでもいいんだよ)
何故だかわからない。わからないけれど、とにかく
ざわつく。理由を辿ろうとしても、それはたちまち霧のように形を失い、不快なノイズとなって思考を阻む。だからもう、理由を追いかけたり、解決しようとするのはとうに諦めた。
今はただ。
(どうでもいいから――さっさと終わらせてくれ)
どんな形であれ、決着がつけばこの感情も終わるはずだ。あのガキが死ぬか、それとも捕まってこちらの手に落ちるか――どちらにせよあの男にとって
敵連合は用済みになる。利用するだけした後は、切り捨てるまでもなく厄介払いができる。
このむず痒さも吐き気も、どうしようもなく邪魔な思考のノイズも――きっと治まる。
だから――。
「……顔色が優れませんね」
気付けば随分と思考にのめり込んでいたらしい。目の前のカウンターにグラスを置きながら、黒霧が異形の瞳を窺うように細める。
死柄木は何も答えず、天板の上に置かれた二枚の写真から少女の笑顔だけを引ったくるように取り上げて、その五指でぐしゃりと握り潰した。
ずっと前から、その予感はあったのだ。
釘を刺す機会は何度もあった。ただの考え過ぎだとしても、備えておくに越したことはない。だから言っておくべきだった。彼自身、そんなことは痛い程に理解していたのに。
それでも言えなかったのは、
ただの予感のままであって欲しかったから。
言葉にすると、絶対に、何があっても起こって欲しくないそれが、現実になってしまうような気がしたから。
くだらない願望だ。唾棄すべき感傷だ。
言うべきだったのだ。だって、言葉にせずともそれは現実になった。ならばいつものように躊躇なく彼女に言っておくべきだった。
“おまえ――母親に似てるんだな”
再会した彼女に告げられたという死柄木弔の言葉。それを聞いた時に覚えた粟立つような違和感。
それは――
父親に似ていない、そういう意味だったのではないのかと。
「――爆豪!!」
円場を背負ったままの轟が、引き止めるように叫びながら右足を踏みしめた。足元から迸る氷の波が、飛び出しかけた爆豪と彼を害そうと迫る刃の間に割って入る。拘束具の男の口元から枝分かれするように飛び出した無数の刃は、氷壁に阻まれてどうにか動きを止めた。
「ちょっと待てよフィッシュ、そっちは俺が殺る。おまえはあっちだあっち、半分の方」
「ああ、うるさいな……早い者勝ちなんだろ」
「まあそうなんだけどよォ、そこをなんとか……」
「――……下がれ、突っ込むな!」
相手の片割れ、義足の男の方は、緊迫した状況に似つかわしいのかそうでないのか、世間話でもするように呑気な口振りで物騒な交渉を試みている。足並みが揃っていないらしい今のうちに、冷静に状況を整理しなければならない――突っ込むなどもっての外だ。轟は今にも飛び込んでいきそうな爆豪の背中を小声で呼び止めながら重い足を前に進め、その腕を掴んで少しでも後ろに引き下げようとした。
が、それは想像以上に強い力で振り払われる。背後の轟を振り返ることすらしないまま、爆豪は怒りに声を震わせながら吠えた。
「何しに……来やがった」
「……」
「偶然なわきゃねえよなァ……!?今更あいつに何の用だ!」
「相変わらずうるせえガキだよ……」
義足の男は、今にも獲物を求めて暴れ出しそうな相方を「どうどう」と宥める傍ら、辟易するように肩を竦めて少年を睨む。燃えるような怒りの視線を一身に受けながらもまるで悪びれる風はなく、黙っていれば温和そうにも見える黒目が嘲りを孕んだ笑みを浮かべた。
「父親が娘に会いに来ちゃ悪いのか?」
「笑わせんな……どの面下げて父親だァ?」
「言いたいことはまァ分かるけどよ……おまえにそんな口利く権利があんのかい、勝己くん」
「あァ……!?」
じりじりと間合いをはかりながら、思いもよらぬ言葉を投げかけられた爆豪は眦を一層険しく吊り上げた。義足の男は相も変わらず癇に障る笑みを讃え――そこに隠す気もない嫌悪を滲ませながら言う。
「いつも蹴ってただろ、当たり前みたいに殴ってただろ。子供のケンカって言や可愛く聞こえるけどよ……あの子が一度でもやり返したことがあったかよ?」
「……てめェ――」
「角が立つんで大目に見てやってたが……結構ムカついてたんだぞ、これでも。たった一人のかわいい娘だからな」
何を言われているのか、少年は一瞬理解できなかった。目の前の男が――自分の記憶にある限りではこの上なく最低野郎だった人間が、突然真っ当な父親ぶって真っ当な言葉を吐いたから。固まる爆豪を見下しながら、男は小さく鼻で笑った。
「しかもおまえ……
知ってて救けなかったんだろ?」
その言葉に、少年の息が詰まる。
男は彼の様子を気に止める風もなく、ただ小馬鹿にするような笑みを貼り付けたまま、淡々と続けた。
「その気になればいつでも救けられたはずなのに、ずっと黙って見てたんだろ。酷い話だよな」
「――」
「挙げ句の果てには“個性”使って殴ったんだもんな!凄いな、俺と一緒じゃねえか!痛そうだったなァあの傷は!可哀想に!」
「……ッ!」
耳を貸す必要などないと分かっているのに、浴びせかけられる言葉の一つ一つが胸の辺りを抉るように貫く。何を言われているのか――理解はできるが、わからない。わからないけれど、これ以上は堪えられそうにない。
掌をぶすぶすと燻らせながら、堪らず駆け出そうと足に力を込めたその時――そんな少年を背後から追い抜くように、刺すように冷たい突風が男目掛けて一直線に吹き抜けた。
常よりもより鋭く冷えた氷の波が、怒涛のように容赦なく押し寄せ男たちを飲み込んでゆく。嗤う義足の男はそのまま氷の中に消え、拘束具の男は口から飛び出した薄く硬い刃を巧みに操って、脱力したままの体をぶらりと空中へ逃す。
「――黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって」
はっと我に返った爆豪が振り返った先で、もう一人の少年は隠しきれない怒りと共に白い息を吐いた。左右色違いの瞳が、微かに咎めるような色を宿して爆豪を見る。
「……おまえも。言われっぱなしはらしくねェだろ」
「……うっせ」
飛び出すな、落ち着けと散々引き止めようとしておいて、先に堪忍袋の緒が切れたのは轟の方らしい。最大出力とまではいかないものの、その冷気は彼の感情と呼応するように、刃の如き鋭さで冴えている。
結果として、“交戦するな”というマンダレイの言いつけを思い切り破ることになってしまったが、この際致し方無し。口振りからして相手はこちらの命を狙っているのだ、進むにしろ退くにしろ、衝突自体は避けられないだろう。
保須での苦い経験を思い出しつつ内心そう言い訳した轟の背筋を、あの寒気にも似た特有の感覚が不意に襲った。次いで、脳裏に響き渡ったのはやはり聞き覚えのある女性の声。
『A組B組総員――プロヒーローイレイザーヘッドの名に於いて、戦闘を許可する!!』
マンダレイからのテレパス。瞬間低く身構えた爆豪の様子からして、彼にも同じ内容が届いているようだ。どうやら
自衛の術としての戦闘行為は認められたらしい――この暗く広い森の中、敵の狙い、総数、その他何もかもが不明の状況で生徒全員の身を守るためには、むしろそうせざるを得ないのだろう。
何にせよ正式に許しが出たのだ、まずはこの場を切り抜けて先生達の居る施設まで戻る必要がある。先ほど氷漬けにした義足の男はともかく、“フィッシュ”などと呼ばれていたあの不気味な拘束具の男にはどう対処すべきか――考える間にも、男は唾液まみれの口元を歪に引きつらせ、鋭く伸ばした歯の刃を容赦なく二人に差し向ける。
「っ、下がれ!」
「チッ――」
咄嗟に隆起させた氷の分厚い壁、歯刃はそれすら貫通するほどの鋭さでもって少年たちの体のすぐ側を掠めていく。跳び退る爆豪の姿を横目に、足元を突き抜ける刃から背中の円場を庇いつつ、轟は歯噛みした。
薄さとしなやかさを兼ね備えながら、大の男の体重さえ支えるほどの強靭さ、加えてこの斬撃の威力。明らかに常軌を逸した言動といい、この男も只者ではない――状況は芳しくなさそうだ。
『――それから、
敵の狙いの一つ判明!!』
と、冷静に分析する轟の頭の中で、本日四度目にもなるテレパスが聞こえた。どうやら伝達事項はまだ残っていたらしい。相変わらず緊迫した、それでいて少し戸惑うようなマンダレイの声が――思いもよらぬ内容を告げる。
『――生徒の「かっちゃん」!!』
「……!?」
「――」
『わかった!?「かっちゃん」!!「かっちゃん」はなるべく戦闘を避けて!!単独では動かないこと!!』
聞き覚えのありすぎる呼び名。マンダレイがわざわざそれを連呼しているのは、その名前が誰を指しているのか知らないからだろう。恐らく彼女に情報をもたらしたのは、日頃から頻繁にその名を口にしている幼馴染みの緑谷――あるいは南北という可能性も無くはないが。
「……聞こえたか、おまえも狙われてるってよ」
「……」
横目で伺った爆豪は轟の言葉を敢えて無視しているのか、険しい表情のまま前方の氷塊を睨み付けている。先ほど轟が丸ごと凍てつかせた男が、そこに埋もれている筈だった。
――筈、だったのだが。
「……なんだ、もうバレてりゃ世話ねえな」
堅固なはずの氷の塊を、赤い光を帯びた手がぐしゃりと無造作に払い退ける。はっと息を呑んだ轟の視線の先、崩れ落ちた氷の中から、上半身を赤く光らせた男がにたりと意地悪く笑んだ顔を覗かせた。轟の脳裏に浮かんでいた幾つかの仮定がすべて確信に変わる。
(――やっぱ、
そうか)
男の肌に触れた氷の水分が、じゅうじゅうと音を立てながら蒸発していく様が見える。赤く熱した鉄の体と、爆豪との間で交わされた言葉の数々――最早疑いようもない。
轟の脳裏にいつかの夜の情景が蘇った。夜の縁側で膝を抱えながら語る少女の横顔。本人は自覚していたのだろうか――膝の前で堅く握り締められたその拳の微かな震えを。
「てめェ、南北んとこのクソ親父だな」
「……そういう君はあの人の息子だね。エンデヴァーの」
「狙いは南北じゃねェのか」
「
俺の狙いはな……でも、
俺らの
標的はそっちだよ」
足元を阻む氷を無造作に蹴り退けて、男は上半身を赤く光らせたまま悠々と歩を進める。あまつさえ自分達の目的まで平然と漏らすのは余裕の現れか――それも無理からぬことだと、轟は口元を歪めた。今の状況、あまりにもこちらに分が無さ過ぎる。
「(退こうにも後ろはガス溜まり――何とか撃退、でなけりゃ隙を作って上手いこと離脱するしかねえが……)」
「――見せて」
考える時間さえ奪い去るように、月を背にした拘束具の男が歯刃を踊らせた。伸縮も分岐も自在の刃を巧みに操ることで、彼自身はその場から微動だにしないまま、雨のような斬撃を二人の頭上に降り注がせる。
身を躱してどうにかなる次元の攻撃ではなく、周囲に引火する危険がある以上“爆破”や“炎熱”での反撃も命取り――となれば取れる手立てはひとつ、轟の“氷結”で防ぎながら耐えるしかない。それだけでも防戦一方、かなり不利な状況であるにも拘らず――。
「――ご愁傷様だなぁ」
哀れむような声と共に、左側を守る氷の壁を真っ赤な腕が貫いた。男が笑う。歯刃の雨を防げるだけの厚さを持った氷壁を、熱したナイフでバターでも切るようにすいと切り崩して。
「相性最悪だ」
「――殺す!」
「っ、待て!」
眼前に現れた男の姿を前にして、とうとう爆豪が掌を爆ぜさせながら地を蹴った。が――幾度目かもわからない静止の声を轟が上げたのと同時に、対峙した二人の間を割るようにして歯刃が飛び出してくる。「危ねえなフィッシュ、ちゃんとよく見て――」と相方へ文句を垂れた男に向かってすかさず“氷結”を放ち、轟は再び強引に爆豪の腕を引いて距離を取った。
「相手は鉄だ、生半可な爆破じゃ仕留められねえ!火力出せば木に燃え移って死ぬし、そうじゃなくても隙ができりゃもう片方に刺されんぞ!」
「じゃあてめェが防御に専念しろ!俺が最大火力でまとめてブッ飛ばす、木ィ燃えたら速攻氷で覆え!」
「爆発はこっちの視界も塞がれる!仕留めきれなかったらどうなる――」
「――仕留めんだよ!!」
轟の腕を振り払って爆豪が叫ぶ。振り向いたその赤い目は怒りに血走り、かすかな焦燥に揺れていた。
「クソ野郎はここで仕留める……あいつの視界に入る前にブッ殺す……!!」
「……、そうしてェのは山々だが」
気持ちは痛い程に理解できた。ここであの男を野放しにして、結果件の少女と鉢合わせるようなことにでもなれば、それはまさに最悪のシナリオのひとつと言っていい――こんな状況でなければ轟も迷わず応戦しただろう。
だが、現状その行為はあまりにも無謀だった。歯刃の攻撃を辛うじて防ぐだけで手一杯な上、轟の見立てが正しければ、どんなに温度を下げたところで熱鉄の男には“氷結”が
通用しない。
ちらりと見やった前方、振り返る爆豪の肩越しに、またも易々と切り崩される氷の壁が見える。じりじりと後退しながらどうにか距離を取り続けられているのは、無差別に放たれた歯刃が時折彼の行手を阻んでいるから――相手方の
連携の弱さに救われているに過ぎなかった。悔しいことに、攻撃に転ずるだけの余裕が今の轟たちには無い。
「――ッ!」
考える間にも、氷の隙間を縫うようにして歯刃が足元の地面へ突き刺さる。膝を掠めかけた切先を間一髪躱し、抉れてしまった氷壁を上書きする轟の右半身には、度重なる“氷結”によって既に白く霜が降り始めていた。この調子では体の方も長くは持たない――舌打ちする轟に背を向け、爆豪は静かに拳を握り締める。
「――義足狙え」
「……!」
「体直接凍らせても秒で溶かされる……
義足ならちったァ時間稼げんだろ」
「爆豪やめろ、あいつの周りは熱で氷が薄い――」
「黙ってろ――あいつはここでブッ殺す!!」
制止を振り切って、ついに少年は駆け出した。咄嗟に伸ばした手は虚しく空を掻き、轟は舌打ちを漏らしながら右足を踏み鳴らす。熱鉄の男に向けて一直線に走る彼の姿を隠すように、歯刃の男との間に氷の山を走らせ――しかしそうなると、轟自身の周囲の守りが疎かになる。
粗くなった防壁の目を潜って、頭上から数本の歯刃が突き立てられた。ひとつが反射的に仰け反った轟の頬を掠め、別のひとつがふくらはぎの辺りを浅く切り裂いていく。視界の隅には熱鉄の男に飛び掛かる爆豪の姿、そして彼を狙って氷を掻い潜る無数の歯刃――。
(守りきれねえ――)
ひやりと冷たい予感が轟の胸中を占めた――その時。
「――いた!氷が見える……交戦中だ!」
聞き覚えのある声と共に、地鳴りのような轟音が不意に轟の耳に届いた。はっと振り向いた先――ごうごうと音を立てて薙ぎ倒される木々の向こうから、夜闇の中を見知った姿が必死に駆けてくるのが見える。
「爆豪!轟!どちらか頼む――光を!!」
叫びながら真っ直ぐ突き進んでくるのは障子、その背に負ぶさっているのはどうやら緑谷らしい――どちらもあちこちに傷を負い、泥に汚れたぼろぼろの有り様だ。
と、轟と爆豪に差し向けられていた歯刃がぴたりと止んだ。どうやら拘束具の男も闖入者の存在に気付き、一旦そちらに狙いを移したようだった。ぎこちなく首を回して振り向いた男が、その口元から新たな刃を二人に向けようとした――刹那。
それは森の木々を薙ぎ払い、高く聳えた氷の山を砕きながら、無数の刃ごと男を叩き潰した。
「――」
絶句する轟の眼前に聳え立つ巨大な
影。木々の背丈など易々と超える程大きな
怪物。俄には信じ難いが、轟はその中に級友の“個性”――
黒影の面影を見た。
「早く“光”を!!常闇が暴走した!!」
どうやらそういうことらしい。複製腕の叫びに納得しつつ、轟は再度素早く右足を踏み込んで声を張る。
「――爆豪!!」
流石に唖然としながらこちらを振り返っていたらしい彼は、はっと我に返って自分の敵に向き直ったようだった。熱鉄の男の方は大騒ぎに気を取られて、まだ呆然と
黒影の巨躯を見上げている。
想定外の乱入者に全員が目を奪われたことで生じた隙。厄介な歯刃の男も組み伏せられて行動不能――つけ入るなら今、この瞬間しかない。
爆豪が爆風で跳躍、その足元を吹き抜けた氷の波が男の傷んだ義足を捉え、足を地面に縫い止められた彼の頭上に爆豪の掌が迫る。数瞬反応の遅れた男だったが、すぐさま体を赤く熱して応戦の構えを取った。
(並の爆破じゃ威力が足りねー……かと言って火の粉飛ばしゃ燃え広がって詰む)
少年の脳裏に、つい最近自分の口から出たばかりの言葉が蘇る。
それを聞いてみるみる明るさを取り戻した、少女の面差しと共に。
(
絶対倒したい奴ほど――
確実に)
男の焼けた手が少年を迎え撃とうと空に伸びた。すると、それまで男の頭に狙いを定めていた少年の腕がぐんと引っ込んで、後ろ手に小爆発を繰り出した彼の体は弧を描きながら男の背後に回り込む。
めくられた――男が振り返るより早く、少年の掌が斜め下を向く。狙い済ましたのは彼の脚――焼けた鉄と化していない生身の片足。向けた掌に添えたもう片方の手を筒にして、発射口を絞るようにぎゅうと細める。
溜めろ。一点に引き絞れ。
そして――。
「――死ねや!!」
範囲を狭めて溜めた分、その衝撃は深く、鋭く。
徹甲弾の如き必殺の威力を持った爆破は、男の無防備な脚を容赦なく貫いた。
「ぐぅッ……!?」
片足から血を噴き出し、苦悶の声を上げた男が、堪らず“個性”を解きながら土の上に倒れ込む。何故全身を固めて守らなかったのか――遠目に見ていた轟の疑問に答えたのは、身動き取れぬよう男の義足を踏みつけて地面に縫い付けた爆豪の言葉だった。
「てめェのは、一度に変化できる
面積が限られてるクソ雑魚“個性”だろうが……相性最悪だァ?ふかしてんじゃねー」
確かに思い返してみれば、男が
全身を赤く光らせたことは一度もない。大概は上半身のみ――生身でない義足に熱が及ぶのを避けているのかと思っていたが、爆豪の口振りからして元よりできぬ芸当だったらしい。考えてみればそうだ。そうでもなければ、滅多なことでは片足を失う筈がなかった。
常に全身を守ることができるわけではない――それを知っていた爆豪は、轟の作った隙を利用して頭を狙う
ふりをして、その守りを上半身に集中させた。そしてすぐさま背後に回り込み、どこに狙いを付けているか悟らせぬまま、火の粉を散らさない一点集中の爆破で生身の脚を撃ち抜いたのだ。
男は何を言い返すでもなく、地面に這いつくばったままその口元に小さく弧を描いた。途端、義足を踏みつけていた爆豪の足ががくりと落ちる。
「!?」
「……俺はさ……救けたいんだ」
驚愕する爆豪の足元で、男の体がどろりと溶けるように崩れだした。生身の部分だけでなく、力一杯踏みつけていた義足までが泥のように脆く溶け落ちる。
「なんだ――」
「――強請ルナ」
その有り様を目撃した轟もまた驚愕に目を見開いていたが――背後から響く地を這うような声にはっと我に返る。
振り向いた先には益々その大きさを増した
黒影――そして、その爪にぐしゃりと握り潰された拘束具の男。
「三下」
どうやら拘束具の男に攻撃された
黒影が、容赦皆無の反撃を繰り出そうとしているらしい。男を握った黒い腕が鞭のようにしなり、為す術もないままのその体を森の木々に叩きつける。へし折られた幹の木片と、ズタボロになった男の歯刃の破片、そして血の飛沫が視界の隅に踊った。
どう見ても男は再起不能――だが
黒影の方は益々荒ぶり、意識を失った男の体をボロ雑巾のように放り捨てて吼える。
「ンァァァァァ!暴レ足リン――」
「――っ、爆豪!!」
「……!」
足元の泥を呆然と見下ろしていた爆豪が呼び掛けに気付き、踵を返しながらその手に小爆発を纏わせた。反対側に走った轟も左手に炎を奔らせ、二人で
黒影を――常闇を挟み込むようにして光を放つ。「ヒャン」と情けない悲鳴を上げながら、荒ぶる影はみるみるうちに萎んで小さくなり、息を切らせて膝をついた常闇の中に吸い込まれて行った。
「俺とおまえの相性が残念だぜ……」
「――……?すまない、……助かった」
黒影から解放された常闇は、黒い顔に心底の悔いを滲ませながら皆に謝罪する。怒りに任せて“個性”を解き放ってしまった己の未熟を深く恥じて。無論、今彼を責めようとなどと考えるものは居ない。「そういうのは後にしろ――と、おまえなら言うだろうな」と彼を助け起こしたのは、暴走の切っ掛けを作ってしまった障子だった。
その大きな背の向こうから、既にぼろぼろの顔が歯を食いしばりながら顔を出す。体中を負傷し最早自力で動けない状態の緑谷だ――身じろぎするだけでも酷い痛みを伴うだろうに、それでも焦った風に首を伸ばした彼と、常闇から視線を外した爆豪の目がばちりと合う。
「――ほたるちゃんは!?」
「――火照は!?」
口を開いたのは二人同時。互いが発した同じ問いが重なったことに、両者とも困惑して息を詰めた。先に口を開いたのは、怒ったように眉を顰めた爆豪。
「あァ!?組んでたのはてめェだろうがクソデク……!」
「えっ……あれ、でも」
緑谷は狼狽した様子で、何かを探すように霞む瞳を彷徨わせる。
「だってさっきそこに居たのって、熱鉄ヒーロー“スミス・ザ・レッド”――ほたるちゃんのお父さん、だよね……!?」
爆豪と轟の顔が強張る。何かとてつもなく
嫌な予感が、二人の背筋を駆け抜けていった。はっとして振り返った轟だが、視線の先にあるべき探し物がどこにも見当たらない。
「爆豪――あいつ、どうした」
「……
消えた」
「緑谷……どういうことだ?説明してくれ」
――爆豪が動けなくしたはずのあの熱鉄の男の姿が、どこにもない。
困惑と共に、漠然とした焦燥がじりじりと胸を焼く。硬い面持ちで問いかけた轟に答えた緑谷の顔もまた、冷たい予感に微かに強張り始めていた。
「だって――
僕らもさっき会ったんだ、ほたるちゃんの……お父さんに」
泥のように崩れて消える直前、男は微かに笑って言った。
「……俺はさ……救けたいんだ」
あれはヒーローなんてものになるべきじゃない。
なってはいけない。
「ヒーローってのは辛いんだ……守って当然、救けて当然、その癖誰も俺らのことは救けちゃくれない……」
何かしくじれば親の仇のように袋叩き。市民を不安にさせてはいけない彼らには、些細な弱音を吐くことも許されない。
それでもやる価値があると、言い切る者も居るだろう。けれど、どうしても。
泣き言ひとつ溢さずに、最後まで重荷を一人で追い続けた子供の姿を思い起こすたび――嫌だ、駄目だと心が軋む。
己の痛みを顧みず、誰かを救けるのが“ヒーロー”だと言うのなら。
“痛い”も“辛い”も決して口にしなかったあの子が、
そんなものになってしまったとしたら。
「――あいつは、誰に“救けて”って言えばいいんだ?」
男がどんなつもりでそんな話を漏らしたのか、少年にはわからなかった。
ただただ、この男の口から出た言葉がこんなにも胸を抉るのが不快で、悔しくて、厭で堪らなくて。
どろどろと崩れ落ちた男の背中が、風に攫われてついに跡形もなく消え去った。けれど、眼前で起こった不可解な現象への疑問よりも、名状し難い感情ばかりが肺腑の底で渦を巻く。
少年は顔を上げることができないまま、何も無くなった土の上を睨み付けながら、そうして暫く立ち尽くすより他なかったのだった。
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