――林間合宿、三日目の午後。

「……っしゃァ、南北!もう一本!」
「……っ、行くよ……!」

 気合を入れ直すように自分の両頬を叩いた鉄哲くんに頷いて、額の汗を拭った手をそのまま地面に着ける。どっしり身構えて金属化した彼の体めがけて、地面伝いにS極みぎを走らせた。
 制御は安定している。明後日の方向へ飛んでいくことも、想定以上の出力に難儀することもない。デク達が教えてくれたことを頭の中で強く念じ続けた成果が出ているらしい。確かな手応えを感じながら、わたしは改めて昨日の記憶を掘り起こした。









「――知っての通り、僕も最初の頃は“個性”をコントロールできなくて」

 半袖から伸びる傷だらけの腕を摩りながらデクは言う。
 朝五時半からの特訓を熟し、わたし以外は夕食もお風呂も済んだ夜。みんな早く部屋に帰って寛いだり遊んだりしたいだろうに、親切にも色んな人がわたしの相談に付き合ってくれて、ボイラー室前の広めの廊下にはちょっとした人だかりが生じていた。壁際に立つわたしを中心に何となく輪になった男子たちの中、正面に立つデクは神妙に続ける。

「初めて人に向かって“個性”を使って……その時無意識に力をセーブできたのがきっかけで、体を壊さない程度に出力を調整するやり方を覚えたんだ」
「それが、“卵の殻が割れないイメージ”……?」
「僕の場合はそうだったけど、その辺は人によると思う。ほたるちゃんにとって思い浮かべやすい、“個性”の具体的なイメージがあったりは……」
「……蛇口、かな」

 誰に言われた訳でもなく、無意識にそれを思い浮かべることが多かった。実際の挙動は違うかも知れないけれど、わたしは自分の“個性”を、掌という源泉から湧き出る液体のように捉えている。自分の意思である程度広がる先をコントロールできる、さらさらしつつも粘着性のある液体……みたいな感じだろうか。正直そんなことを強く意識したこともなかったから、改めて問われるとなかなか難しかった。
 「蛇口の調整……」と、デクは顎に指を添えて真剣に考え込み始める。きっと自分でいう“卵の殻が割れない”に相当するイメージを、蛇口の場合に置き換えて探してくれているんだろう。わたしも他のみんなもそれぞれ頭を悩ませ始め――やがて、口を開いたのは上鳴だった。

「ドバッと出して絞る、とか?」
「ドバッと?」
「蛇口ひねるのってさ、最初っからこんくらいの水圧で!って狙ってやるモンでもねーじゃん」
「確かに……閉まり具合の差もあるし、一発で狙い撃つの難しいな」
「だからさ、まずガッと適当に開けて、そっから適量まで締めてけばいいんじゃね?普通はそうじゃん」

 自分が現実の蛇口をひねる時のことを思い出してみる。確かに急いでいる時なんかは適当に捻って、水圧が強過ぎたら絞ったりするかも……上鳴にしては冴えた意見だ。問題はそれが“個性”の場合でも可能かどうか、という点なのだけれど。顔を曇らせたわたしに、デクが記憶を探るように斜め上へ視線を滑らせながら呟いた。

「たぶんほたるちゃんは、いきなり高出力の“個性”が出ちゃうことに焦ってるっていうか……驚いちゃってると思うんだ。そういう経験が今までほとんど無かったから」
「……う、うん。確かに……」
「こう考えるのはどうかな――“最初は最高出力が出て当然・・・・”なんだって」

 ほたるちゃんの“個性”は手のひらで触れたものに付与される――蛇口を開けるだけ・・、掌に磁力ちからを蓄えるだけの段階なら、水圧が高くても事故は起こらない。だから何にも触れていない状態で全開にして、そこから絞るっていうのを意識して……動揺さえなければ、いつもみたいにきちんと制御できると思うんだ。

 デクの言葉に、みんなの視線がわたしの方へ集まる。そういえば昨日のルービックキューブの時は、蛇口を少しだけ・・・・開けようとして失敗したんだっけ。開く時の力を意識するんじゃなくて、その後、絞る時の方に全部を集中させる――。
 物は試し、何も考えずにS極みぎの“蛇口”を捻ってみる。途端にばちりと痺れるような痛みが一瞬手のひらを刺して、右手いっぱいに赤い輝きが溢れ出した。突然のことに「うお!?」と目を見開いた上鳴の顔を横目に見つつ、精一杯心を落ち着けてイメージを固める。大丈夫、焦るな。右手いっぱいに溢れて当然、ここから少しずつ絞ればいい――!

「――っ」

 ぎゅ、と、蛇口を閉める時の手応えがあった。
 固唾を飲んでみんなが見守る中、胸の前に掲げたわたしの右手から、次第に赤い光の波が引いていく。間欠泉のような勢いで湧き出ていたそれは、ついにはちょっとだけ水が出ている公園の水飲み場くらいの出力にまで落ち着いた。思わず明るい声が口を衝いて出る。

「いけるかも……!」
「やったじゃないか!流石のアドバイスだな、緑谷くん!」
「いや、僕は別に……!すぐモノにできちゃうほたるちゃんも凄いよ!」
「あと何とかしなくちゃなんねェのは……例の爆発・・問題か」

 わたしとデクの肩を叩いて喜ぶ飯田くんの隣で、お茶をちびちび飲んでいた轟くんがぽつりと呟く。そうだった、出力以上に悩みの種になっているのがもう一つ――今まではそんなこと無かったくせに、急に意図せず隙間に染み込んでしまうようになった磁力の問題だ。
 出力さえ適度に弄れれば、ものを内側から破裂させてしまうような事態は起こらなくなるとは思うけれど……それでも、例えば他人の体の中にうっかり磁力を入り込ませてしまったりしたら、どんな事故が起こるかわからないし怖くて使えたもんじゃない。人知れず身震いしたわたしの様子には気付いた風もなく、上鳴は不思議そうに首を傾げた。

「でもさァ、結局あれっきり爆発起こってなくね?今日の特訓中とか、別にそんな騒ぎになってねーし」
「それこそ鉄哲くんにんげん相手に“個性”を使ってる訳だから、無意識にセーブが掛かってるんじゃないかな。こっちも制御方法を考えないと、根本的な解決にはならないかも……」
「――あー!!南北!!」

 突然割り込んできた女子の声に、各々考え込んでいたみんなが一斉に廊下の一方へ振り返る。通路の向こうではよく目立つピンク色の人影が一度ぴょんと跳ねて、そのまま小走りにこちらへ突っ込んでくる様子が見えた。

「こーらー!どこいってたの!!」
「探したんだよー!!」
「ミナちゃ――ギャーッ葉隠ちゃん!?」

 ぷんぷん怒り顔のミナちゃんに気を取られている隙に、薄手のTシャツ姿で隠密性がいつもより高い葉隠ちゃんがわたしの体をがっしりと確保する。勢いの良さに呆気に取られて固まる男子達の向こうから、「まだこんなトコに居たんかい……」と呆れ気味の耳郎じろちゃんの姿が見えて――更にその背後にはお茶子ちゃんや梅雨ちゃん、八百万やおちゃんの姿もあった。みんな湯上りスタイルな所を見るに、大浴場で合流して全員一緒に上がってきたところらしい。何か妙に怪しかった峰田くんは何ともなかったんかな……。呆然としながら色んな思考を巡らせるわたしの耳元で、葉隠ちゃんがわっと大きな声を上げる。

「やっと捕まえたんだから!お風呂まだ入ってないの?急いで急いで、補習前に恋バナなんだよ!」
「ほ――恋……なんて!?」
「待ちたまえ、今良いところなんだ!南北くんのキリがいいところまで邪魔は控えてくれないか!」

 慌てた飯田くんの制止に、葉隠ちゃんと、彼女に続いてわたしを確保しようとしていたミナちゃんが揃ってきょとんと目を瞬かせる。後ろから他のみんなも追いついてきて、結局クラスの半分以上がこの場に出揃うことになり、デクがこれまでのかくかくしかじかを掻い摘んで説明してくれた。
 一通りの話を聞き終えて、お茶子ちゃんが腕を組みながら難しそうに唇を尖らせる。

「なるほど〜、確かに爆発は厄介だよね……」
「南北さん自身にも、やはり原因の心当たりは無いのですか?」
「何ていうか……どういう理屈でそうなってるのかは全然わかんない、かな」

 八百万やおちゃんの問いかけにも首を振るより他に無い。
 根本的な原因・・、つまりクソ親父の話は一旦置いておいて――件の爆発、染み込む磁力の謎問題については皆目見当もつかないというのが本音だった。それこそ今まで意識すらしたことのなかった部分で起こった問題だ、これも捉えようによっては伸び代・・・なのだと思いはするのだけれど……いかんせんヒントが無さすぎる。
 再び場には沈黙が降り、わたしを含む誰も彼もが神妙な顔で脳味噌を捻り始める。そんな中、“もう逃さんぞ”とばかりにわたしの手を握って隣に陣取っていたミナちゃんが、ふと思い付いたように口を開いた。

「南北の“個性”のイメージって、蛇口なんだよね?」
「?うん」
「てことは、磁力の流れも水みたいにコントロールしてる感じ?」
「まあ……そう言われてみれば、そうかも」

 これも今までそれほど明確に意識したことはなかったものの、先に考えたように、重力に逆らって意のままに動ける粘着性のある水、みたいな感じで間違ってはいない気がする……なんだかややこしいけれど。曖昧ながらも頷くと、ミナちゃんはパッと表情を明るくしてわたしの方へ身を乗り出した。 

「じゃあ、それってさ――!」











「“個性”のコントロール、どうやら上手く行ってるようだな」

 楽しげな声に一旦思考を切り上げ、数メートル先で仁王立ちする鉄哲くんの方へ視線を向ける。陽光とは違う熱を帯びた彼の体の周りで、蜃気楼が水面のようにちろちろと揺らめいた。

「昨日は何べんも地べたへ這いつくばらされちまったが、今日はいい感じに適度だ!これなら俺も動けそうだぜ」
「よかった――じゃあ、やっと本格的・・・に始められそうかな」
「ああ――そんじゃ、いっちょ死合うとするかァ!」

 足元の磁力に引かれながらも、鉄哲くんは鋼鉄の体で屈伸数回、肩のストレッチ数回を熟し――景気良く膝を叩いて、勢い良く地を蹴った。わたしも一旦地面から手を離し、首回りにセットしてある捕縛布の端を掴んで身構える。

“――今は“個性”の扱いで精一杯のようだが”

 昨日の訓練終わり、相澤先生に掛けられた言葉を思い出した。

“そんな様子じゃ特訓にならん、まずは磁力の制御を取り戻せ。おまえ達の本当の訓練は、実戦形式・・・・が望ましい”

 わたしと鉄哲くんに課せられた特訓は、単にわたしの磁力と熱を鉄哲くんにぶつける――だけで終わりではない。
 わたしはそれで十分“個性”を使えるだろうけど、鉄哲くんの方はただ重りを体に着けただけ。その状態で動いて・・・こそ高負荷に耐えうる持久力が身につく、というのが先生方の弁。
 これまではわたしの力加減が滅茶苦茶だったせいで動くどころじゃなかったけれど、昨日みんなにアドバイスを貰った甲斐あって、今日は“暴走”以前と同じ程度に上手くコントロールできている。磁力と熱による負荷を絶えず受けながら、鉄哲くんはわたしの体のどこかにタッチし、わたしは“個性”を緩めないまま鉄哲くんのタッチを死ぬ気で回避する――というのが、わたしたちの本当の特訓内容だった。
 どちらかが倒れるまで、なんてルールはないけれど、形式的には鉄哲くんの望む体育祭のリベンジマッチと言っても過言ではない。わたしも――負けるわけにはいかない。

「当たんなよ!」

 強い力に引かれた鉄哲くんの一歩は、大地を割るような力強い重みを伴いながらも、決して重鈍な訳ではない。昨日さんざん最高出力の重みを喰らっていた訳だし、今日は寧ろ体が軽いような気さえするとか何とか午前中に言ってたっけ。全力でこちらに飛び込みながらも裏腹な言葉を口にするのは、彼の全身が高熱を帯びているからこそだろう。肩口から微かに煙が立ち上っている――多分今は500℃くらい、ピザ窯ならさっくり美味しく焼けるくらいの熱さだ。どこであれ触れてしまえば火傷は免れない、だからわたしも全力で逃げなければならない。

(って言っても――結構キツいんだよなあ……!)

 わたし自身も反発を使って飛び退き、着地ざまに鉄哲くんが取るであろう進路へ新たなS極みぎを巡らせる。
 コントロールのためのイメージを常に意識しつつ、自分がどこにどれだけ磁力を張っているのかという管理にも思考を割かねばならず、おまけに高温を保つために消費し続ける鉄分が徐々に集中力を奪い取っていく。鉄哲くんの機動を読んで、自分自身も激しく動きながら、そのすべてを並行して処理するのはなかなか骨が折れる作業だった。でも、確かに実戦形式は為になる。

(考えてる暇がないから、考えなくても出来るようにならざるを得ない・・・・・・・・……!)

 本当に負荷を受けているとは思えないスピードで突っ込んでくる鉄哲くんの右腕を、咄嗟に仰け反りながら捕縛布でいなす。以前に比べれば攻撃を避けるのも大分意識できるようになってきたなあ、などと独りごちながら、ほんの少しだけ“蛇口”のハンドルを緩めた。突然増した負荷に鋼の体が一瞬揺らぎ、けれどすぐに持ち直して、先ほどとは反対の腕が斜め下から掬うようにこちらに迫り来る。
 仰け反ってしまったせいで、既に体勢は崩れている。ここから持ち直して躱すのは難しい――自分でも意外なほど冷静に考えながらも、胸の内にはほんの少しの高揚があった。
 出力の方は大分安定してきている――もう一方、試すなら今だ。


“――粘度・・なんじゃない?”


 両手の人差し指を突き出して、その先からちょっぴり酸を垂らしながら、あの時ミナちゃんはそう言っていた。

“私の酸、粘り気も調節できるんだー!ほら見て、こっちはネバネバめ、こっちはサラサラめ”

 ピンク色の指先から垂れる二種類の雫。粘って落ちない大粒の酸と、あっという間に表面張力に負けて滴り落ちる透き通った酸。

 ”染み込んだり染み込まなかったりするのって、こういう感じなんじゃないかなって!えーっと、調節の仕方は――”

 使っていなかったN極ひだりの手を足元に突く。その指数本分先には、地面から半分ほど顔を出した大きめの石がひとつ。青い光がその表面を駆け抜けたのを見届けてから――、

““個性”のを小さくする感じかな?網目をギューッと細かくするっていうか!”

(粒を――小さく!)

 “個性”の粘り気・・・を、一気に落とす。
 瞬間、埋まった石の下で青い光が爆ぜた。隙間に染み込んだ磁力が反発しあって、角ばった石はわたしの足の間を擦り抜けるようにして吹っ飛ばされる。

「――ッ!?」

 それは鉄哲くんの目元に直撃した。鋼鉄とは言え目は急所、何かが飛び込んでくれば怯んでしまうのが人体の反射だ。差し向けられていた腕がピタリと動きを止めた、その一瞬の隙を突いてもう一手。
 投石に使ったN極ひだりの蛇口だけを、思いっきり捻り開ける――!

「うぉッ――」

 突如左腕を持っていかれた鉄哲くんが大きく体勢を崩し――それでもわたしのどこかを捕まえようと必死な指が足元すれすれまで延びてきて、わたしも息を詰めながら精一杯体を捩って躱そうとした。突いたままの左手を支点に、地面を蹴ってくるりと体を一回転。入れ替わるように落ちてきた鉄哲くんの左腕は、めごっという鈍い音を立てて地面に食い飲んだ。

「――っだぁぁクソ、取れねえ!」

 片腕をびったりと地面に押しつけた格好の鉄哲くんがどうにか磁力から逃れようともがいているけれど、最高出力のN極ひだりに捕まったそれはちょっとやそっとの力では引き剥がせない筈だ。彼の指が掠った靴底から微かに漂う焦げ臭さを感じつつ、額から滴る汗を拭う。
 自分の意思による“浸透”と、動きながらのピンポイント出力解放――なんか良くわかんないけど、出来たっぽい。

「調子戻ってきたな」

 肩で息をするわたしの背後から、それまで他の生徒にあれこれ発破をかけていた相澤先生の声が掛かる。割と好感触な言葉に思わず表情を明るくしながら振り返ったのだけれど、先生の顔はいつも通りの仏頂面――どころか、何だかいつもよりちょっと怖いような気さえする。そんな直感を裏付けるように、血走った目がギロリと釣り上がってわたしを睨みつけた。

「だがそれが当然・・のラインだ。わかっちゃいるとは思うが」
「うぐッ……はい!」

 ですよね、この程度で喜んでる場合じゃないですよね!姿勢を正しながらやけくそ気味に答えると、今度は容赦のない指摘と指示の嵐がズバズバわたしに降り掛かる。

「そもそも鉄哲を動けない状態にするのはルール違反――今のおまえは、磁力に関して言えば上限・・の方にコントロールがブレてんだ。まずは生かさず殺さず、丁度よくフラットな感覚を体で覚え込み直すこと。そこから徐々に負荷を上げていけ」
「はいっ」
「熱の方は常にトップで出し続けろ。鉄分消費で発動するのは八百万や砂藤と同じタイプだ、使った分だけおまえの力になる。キツくても緩めるなよ……補給も忘れずに」
「はいっ!」
「達成感は大事だが、満足なんかしてるうちはまだ自分を虐め足りてない証拠――他の連中にも言ったが、気を抜くな。みんなもただの反復だと思ってダラダラやるなよ」

 言いながら、相澤先生は改めて辺りをぐるりと見回す。呼びかけを聞いたみんなが、各々息も絶え絶えになりながら微かに顔を上げた。さらりと見渡した風でいて、その実一人一人の瞳を順繰りに捉えながら、先生は厳しくも頼もしい声音を空に響かせる。

「何をするにも原点を意識しとけ、向上ってのはそういうもんだ――何の為に汗かいて、何の為にこうしてグチグチ言われるか、常に頭に置いておけ」

 ――原点。
 その言葉を聞くたび、脳裏にあの鮮烈な炎の色が蘇る。わたしの憧れ。死にかけていたわたしの心に火を灯した、はじまりの炎。あれは間違いなくわたしの原点だと、今でも確かにそう思う。
 でも、もしかしたらそれだけ・・・・じゃないのかもしれないと思い始めている自分がいた。

“――どうせ母親のことが大事だからそう・・なってんだろが。”

 あの言葉に驚いてしまったのは、爆豪あいつの口から急にそんな内容の話が飛び出してきたからというのもあったけれど――あまりにも当然過ぎて殊更に意識したことさえなかったそれを、改めて目の前に突きつけられたから。そっちの方が大きかった。

(憧れたのは、ああなりたいと思ったのは――大好きで、守りたい人がいたから)

 ただ強いだけの力に惹かれたんじゃない。
 わたしの大切なものを守って、わたしの大嫌いなものを焼き払ってくれたちからに、どうしようもなく惹かれてしまったんだ。
 同じようで随分違うなと、先生の言葉を噛みしめながら思う。憧れ、愛情、憎悪――全部がわたしの“原点”。そう思うと、不思議と心が落ち着くような気がした。
 憧れが挫けそうになっても愛情がある。愛情が負けそうになっても憎悪がある。憎悪が萎れそうになっても憧れがある。複雑に混じり合った感情が、それら全ての原点が、わたしを色んな方向から引っ張り上げてくれる。

(だから、わたしは――この憎悪とも、きっとうまく付き合っていける)

 鉄哲くんの体を見ると、未だに少し胸が騒つく。けれど、これも自分の力になるのだと受け入れてしまった今、かつてのように憎悪に呑まれそうになることは無くなりつつあった。
 不安はある。何せ今日まで色んな偶然が積み重なってこんなことになってしまっているのがわたしの人生だ、今後どんな些細な切っ掛けでどういう方向へ転ぶのかまるで想像がつかない。
 ――でも。

“――それの何が悪い・・・・?”

 本人にそんなつもりは無かったのかもしれないけれど――そう言って背中を押してくれた彼のことを思い出せる限り、これからもきっと大丈夫。
 そんな風に思えた。

「ねこねこねこ……それより皆!今日の晩はねえ、クラス対抗肝試しを決行するよ!」

 悪戯っぽく笑うピクシーボブの言葉にハッと我に返る。向こうの岸壁の方で打ち込みをしていた拳藤さんが手を止めて「ああ……忘れてた!」と声を上げ、隣で同じくイヤホンジャックを打ち込んでいた耳郎じろちゃんも「怖いのマジやだぁ……」と項垂れ、いつの間にか特訓場所の洞窟から出てきていたらしい常闇くんが「闇の狂宴……」と意味深な呟きを残す。肝試し――よくよく思い返してみると、確かにしおりのタイムテーブルにそんなようなことが書いてあったような気がする。ミナちゃん達が楽しみにしてたっけなあ。
 実を言うと怖いのは嫌いじゃない。それに、体育祭はバトル色が強かったし、学校では基本的にちゃんとした授業ばかりだったし――もしかしなくてもクラス全員で臨む初めてのレクリエーション的なアレなんじゃないだろうか。
 そう思うと俄然やる気が漲ってくるもので、先ほどまでの疲労が心なしか和らいだような気がした。和らぎついでに張りっぱなしだったN極ひだりも緩んだのか、腕をひっぺがして勢いよく立ち上がった鉄哲くんが気合いの声を上げる。

「やっと取れ――たァ!!っしゃ南北、こっからが本番よ!ガンガン負荷上げてくれ!!」
「うす!」

 構えを取った彼に続いて、わたしも意気込み新たに磁力を張り直す。ようやく物事が思い通りに動き始めて、合宿が始まった時の暗い気持ちが嘘のよう、わたしの心は微かに弾む素振りさえ見せていて。

 夏の空はからりと青く晴れ渡っていた。
 ――音もなく忍び寄る暗雲のそのひとかけらさえ、おくびにも出さぬまま。









「うわああ堪忍してくれえ!!試させてくれえ!!」

 悲痛な叫び声を残して、捕縛布にふん縛られた五人が相澤先生にずるずると引きずられながら暗い森の奥へと消えていく。痛ましげに目を背けるデクの隣で、わたしもそっと両手を合わせて目を伏せた。合掌。

 三日目の訓練を終え、飯田くんの指揮のもと作り上げた最高の肉じゃがを平らげて――時刻はいよいよ逢魔時。オレンジ色に染まった太陽もほとんどが木々の合間へ沈み、空は朱から青紫へ今まさにその色を変えようとしていた。
 待ちに待った肝試し、ほとんどの生徒がそれまでの疲れも忘れて大はしゃぎしていたのだけれど――先に引き摺られて行ったミナちゃん、上鳴、切島くん、瀬呂くん、砂藤くんの五人組は、本当に残念なことにこれから相澤先生と楽しい補習の時間が待っているらしい。“日中の訓練が思ったより疎かになっていたから”と先生は言っていたけれど……何てむごい……。

「くっ……補習は仕方ない……彼らの分まで俺たちが精一杯楽しもう……!!」
「そだね……」
「キティたち!ルール説明始めるよ!」

 無念を顕にする飯田くんに同意しつつ、こちらに向かって声を張り上げたピクシーボブの方を振り向くと、マンダレイが何やらがさがさと音のする箱をこちらに差し出しながら口を開く。

「脅かす側先攻はB組、A組は二人一組で三分おきに出発。ルートの真ん中に名前を書いたお札があるから、それを持って帰ること!」

 説明を聞くに、どうやら円を描くような一本道をぐるりと回るルートらしい。ちらりと見遣った森の入り口は墨で塗り潰したように真っ黒で、なるほどこれは普通に怖いぞ……と心臓が俄かに騒ぎ始める。マンダレイが持っている箱の中にはペア決めのくじが入っているようだ――「創意工夫でより多くの人数を失禁させたクラスが勝者だ!」とかいうばっちい勝敗条件を聞き流しつつ手を突っ込み、最初に触れた紙を引っこ抜いて開く。丸っこい筆致で書かれた数字は“G”だった。

「えーと、八番の人……」
「あ、僕!」

探し人はすぐ隣にいて、控えめに挙手したデクは同じく“G”と書かれたくじを掲げながら、少しほっとしたようにはにかんだ。わたしも思いがけない巡り合わせに表情が和らぐ。

「デクかー!何か子供の頃思い出しちゃうなあ」
「昔はよくわかんない廃トンネルとか森とか、色んなところで探検したよね……」

 ああいうのって昼間でも地味に怖いんだよなあ……なんてぼやく彼の表情もやはり明るい。子供の頃の彼は少し鈍臭くてよくすっ転んでいたものだけれど、今の彼と一緒に歩く森はどんな感じなんだろう。懐かしさと高揚に胸を弾ませつつ辺りの様子を見れば、他のみんなも着々とペアを完成させつつあるようだった。
 梅雨ちゃんとお茶子ちゃん、耳郎じろちゃんと葉隠ちゃんは女の子同士のペア。八百万やおちゃんは青山くんと組んでいて、尾白くんとペアになったらしい峰田くんがその青山くんに「代わってくれよ……」とにじり寄っている様子が見える。後は飯田くんと口田くんペア、常闇くんと障子くんペア……この二人に関しては怖がってるところが全然想像できない。逆に興味ある――と思いながら視線をずらした先で、ふとこちらを見ていた轟くんと目が合った。

「……?」
「南北」
「はい」
「代わるか?」
「へ?」

 謎の申し出に戸惑いながら差し出されたくじの番号を見ると、四つ折りの跡がついた紙には“A”の番号が記されている。訳がわからないまま顔を上げて辺りをキョロキョロ見回すと、今度は変な顔でこっちを見たまま固まっている爆豪あいつと視線がぶつかる。首だけ振り返る格好でこちらを見ている爆豪そいつは、どうやら目の前にいる尾白くんにペア交代を迫っていたようだった。ほぼ押し付けるような形で尾白くんの目の前に翳されたくじの番号が辛うじて見える。
 ――“A”。

「えっ……何で!?」
「おまえら最近仲良いだろ。一緒の方がいいかと思って……」
「仲……!?」
「――っざけんなてめェコラ、そんなとこでも舐めプ発揮してんじゃねェよ死ね!!」

 途端に爆豪あいつがすっ飛んできて、何事かキレ散らかしながら轟くんに掴みかかる。轟くんは轟くんでそんな状況もどこ吹く風、大層真剣な顔つきで「おまえもそっちの方がいいんじゃ……」と言いかけては「余計なお世話なんだわ!!」と一喝されて。

「上等だコラ、意地でもこのまま肝試したる……!!」
「よくわかんねえけど、おまえが良いならそれで」

 結局よくわからないまま、爆豪あいつは轟くんの襟首を引っ掴んで番号順に並ぶペアの列に戻っていく。ぽかんと呆けるわたしを気遣うようにちらちら見ながら、デクが小さな声で耳打ちしてきた。

「き、気にしないでいいと思う……昨日の晩ちょっと轟くんと色々あって」
「そ、そうなんだ……?」

 頻繁に喧嘩している二人……というか、片方が一方的に食ってかかることでお馴染みの組み合わせなので、そう言われればまた何かあったんだろうなと納得せざるを得ない。知らないところでわたし自身が微妙に巻き込まれてそうな感じが若干引っ掛かりはするけれど、様子からして深刻な喧嘩という訳でもなさそうだし、あのまま肝を試しに行っても大丈夫だろう……多分。
 嵐のように過ぎ去って行った二人の後ろ姿を目で追いつつ、ほっと息をつく。突然の申し出にびっくりした反動で、安堵したような、何だかほんのちょっとだけ、ほんとにほんのちょっぴりだけ、残念なような……。


 ………………。


「……ほたるちゃん?」
「何でもない!!」
「そんじゃキティたち、準備はいい?」

 黙りこくったわたしを不審に思ったのか、デクが首を傾げてわたしの名を呼ぶ。慌てて首を振るのと同時に、ピクシーボブがすっと片腕を夜空に掲げた。

「キッツイ訓練の合間、束の間のワクワクタイム!目一杯ビビって叫んで楽しんできなよ――戦慄恐怖の肝試し、スタート!」

 満天の星が瞬く空に、高らかな宣言が響き渡る。これから始まるひと時を思って、ある者は期待に胸躍らせ、ある者は泣きそうに顔を歪め、ある者は地べた引きずられながら無念の涙を呑み。

 そして――ある者達・・・・は、星明かりの元で人知れず嗤った。

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