「南北〜〜〜!」
「ど〜こ〜だ〜!!」

 廊下の向こうから聞こえてくる声に身を竦ませながら、たまたま目の前にあったボイラー室の扉の中に素早く体を滑り込ませる。程なくしてトタトタと軽快な足音がいくつか扉の前を横切って、すぐそこで止まった。軽く息を弾ませながら、憎々しげな声が言う。

「あいつめ、また逃げたな!」
「昨日もいつの間にかどっか行っちゃってたもんね〜、相変わらずつれないなあ」
「そんな躍起になって追いかけなくても……」
「だってー、逃げられると追いたくなるじゃん!」

 扉越しに聞こえる会話は、わたしを探してそこら中を駆け回っているミナちゃんと葉隠ちゃん、そんな二人に付き合って歩いている耳郎じろちゃんのものだろう。けらりと笑ったミナちゃんは、すぐにまた不機嫌そうな、けれどどこか悪戯じみた声音で言う。

「こうなったらとっ捕まえて無理やり連れてくか――もしくは就寝前に恋バナの刑だ!」
「いいねー恋バナの刑!」
「よーし決まり!イヤホンジャック、索敵お願いします!」
「はいはい、なんでもいいけど……補習組は急がないと時間なくなっちゃうんじゃないの?」
「うっ」

 何やら不穏な盛り上がりを見せていた会話だけれど、耳郎じろちゃんの一言にミナちゃんが小さく呻き、途端に空気が萎れる気配がした。ミナちゃん達補習組は深夜帯、就寝時間を削ってみっちりしっかり相澤先生の特別授業を受けることになっている。具体的にどんな内容なのかは流石にわからないけれど、“居残り補習よりキツい”という先生の弁はきっと嘘ではないだろう。ぶーたれたミナちゃんを慰めるように、葉隠ちゃんの声が優しく言った。

「しょうがないね、遅れる前に大浴場行っちゃおっか」
「むうう……女子みんなでお風呂入りたかったのにー!」
「恋バナの刑で我慢しよ!」
「なら尚更急いで、補習前に南北捕まえるよ」
「「おー!」」

 賑やかな会話を交わしながら、二人分の足音が遠ざかっていく。残った一人分は少しの間その場に留まり――「じゃ、あとは上手くやんなよ」という耳郎じろちゃんの小さな呟きを残して、二人の後を追うように動き出した。
 耳のいい彼女には、わたしの居場所なんてとっくに筒抜けだったらしい。三人の気配が消えたのを確認してから扉をそっと押し開け、入った時と同じように音もなく元の廊下へ滑り出る。何だか前にもこんなことがあったような覚えがあるなあ――どっと疲れたような気がして、わたしはため息と共にその場へしゃがみ込んだ。
 三人(というか主に二人)がわたしを追いかけ回していたのは、もちろんとっ捕まえて大浴場に連行するためだろう。この宿泊施設なんと露天風呂温泉付きの豪華仕様で、昨日は女子と男子が同じ時間にまとめて入浴したせいで性欲の権化が大暴れしたりといろいろあったらしいのだけれど――わたしは例の如くみんなを避けて一人でお湯を貰っていたので、その辺のことはよく知らなかったりする。
 どうもミナちゃんや葉隠ちゃんはわたしが恥ずかしがっているのだと思っているらしく、ふん捕まえてひん剥こうと夕食後から執拗に狙って来るのだ。わたしもわたしで、何か適当にそれっぽい理由を付けて断ってしまえばいいのに、変なところで嘘が吐けないというか……そういうところで急に小心になる己が憎い。おかげで夕食のカレーを食べ終わってからこっち、こんな風にこそこそと施設中を逃げ回る羽目になってしまっていた。

「(ただでさえくたくただってのに……)」

 肉体的にも、精神的にも。うっかりしゃがんでしまったせいで立ち上がる元気も湧いてこず、行儀が悪いのは承知でついその場の床に座り込んでしまう。抱え込んだ膝にくったりと頬を乗せれば、脳裏に浮かぶのは先刻までの特訓の情景。

 鉄哲くんの激励もあって、迷いを振り切り彼と一緒に特訓するに至り、金属化した鉄哲くんの体をわたしの“個性”で捻じ伏せながら熱々あつあつに熱する作業が始まった――まではよかったのだけれど。
 内容は酷いもので、自分でもびっくりするくらい“個性”の制御がうまくいかない。自分では落ち着いてきたと思っていた“個性”の調子もあくまで“普通にしていれば”の話で、相手が鉄哲くんになった途端酷い有様だった。幸い先日のように“隙間から磁力が染み込む”ことはなく、鉄哲くんを内側から爆発させるような事態にまでは至らなかったものの、垂れ流しの“個性”は結構離れた位置に居た轟くんの方まで届いてしまったようで、あやうく彼の浸かっているお風呂を本物の熱湯にしてしまうところだった。磁力の加減を間違えて鉄哲くんを土の中にめり込ませてしまったのも一度や二度ではない。
 とはいえ彼もわたしと対峙するのは二度目、“個性”がわかれば対策の取りようもあるわけで、危なくなったら自ら金属化を解いて“個性”を回避してくれたりもして。それに「先生やばいです止まらないです!!」と叫べば相澤先生もわたしを見て・・くれる。……十数分に一回くらいのペースで叫びまくったおかげで喉もカッスカスになってしまったけれど。
 覚悟はしていたものの、まさかここまで難航するとは。貧血の名残でふらつく頭をごろりと膝の上に預けて、自分の脚に大きな溜息を吐きつける。落ち込むというよりは、どうしていいのかわからない――途方に暮れている、というのが正しい。

 ぐったりと座りこんだまま考え込んでいると、不意に硬い何かがわたしのスリッパの横っ面にぶつかった。驚いて顔を上げるともう一度、わたしのものと同じ施設備え付けのスリッパの爪先が、ごつんと音を立ててわたしの足の側面を叩く。
 気が付けば、座りこんだわたしの頭上から差す影がひとつ。恐る恐る見上げると、よく見知った顔が半ば呆れたようにわたしを見下ろしていた。

「何やっとんだ」
「……休憩?」
「……」

 何と答えて良いか分からずとりあえず適当にそう述べると、爆豪あいつはもう一度爪先でわたしの足を強めに小突いた――というか、さっきからわたしはこいつにドスドス蹴られているらしい。考え事に夢中で全く気付かなかった、いつの間にこんなに近くまで来ていたんだろう。ちらりと見回してみたけれど、左右に伸びる廊下のどちら側にも人の気配はない。どうやら爆豪こいつ一人らしかった。

「通り道で休憩すんな」
「疲れてるとさぁ……根っこ生えちゃうじゃん」
「ババァか」
「口が悪い……」

 二言三言交わしながら、爆豪あいつはズボンのポケットから財布を取り出し、廊下の少し先にある自販機の方へ歩いて行った。ラフなタンクトップ姿、首にはタオルがかけてあり、よくよく見ればツンツンの毛先はほんのりと湿り気を帯びている。歩いてきた方向からしても、大浴場に行ってきた帰りです、という感じの風体だ。多分他のみんなは今まさに入浴中だと思うのだけれど、爆豪こいつは少し早い方に時間をずらして入ってきたらしい。確かにみんなでお風呂とか面倒くさがりそうだもんな……お風呂上がりの飲み物目当てでここまで来たんかな。
 そんなようなことを考えつつ、座りこんだままぼんやりとその後ろ姿を見守る。自販機の前で立ち止まった爆豪あいつはさして悩む様子もなくさっさとボタンを押し、適当に選んだらしい炭酸の缶を取り出し口から引っ張り出して、元来た方にくるりと方向転換。すたすた歩いてそのまま目の前を通り過ぎ――て、行くものとばかり思っていたら、何とわたしの前で減速。ぎょっとするわたしの足元に同じ色のスリッパが並び、持ち主はそのまま完全に立ち止まって壁に背を預けた。
 まるでそこが最初から定位置でしたとでも言わんばかりに、至って自然な素振りで。わたしの方はといえば、意外な行動に開いた口が塞がらない。

「……」
「……」

 爆豪あいつは何も言わない。わたしも何を言って良いかわからず――というか何でこんなことになっているのかわからず、口を半開きにしたまま何となく視線を泳がせてしまう。頭上の方でぷしゅ、と炭酸の気が抜ける音がした。
 暫くの間沈黙が続いた。そっと視線を上の方へ向けると、爆豪あいつはやはり無言のまま、別に何でもないような顔でごくごく喉を鳴らしながら缶の中身を流し込むばかり。こっちは昨日の件もあって微妙に気まずいっていうのに――などと思ったところで、不思議と嫌な雰囲気を感じていない自分に気付く。

(……、もしかして)

 ――“次はねえ”っつったぞ、俺ぁ。

 いつぞやの電車の中、こちらを見ないまま告げられた言葉が脳裏に蘇る。あの時と状況は違うけれど、しゃがみ込むわたしの隣に黙って居座るその姿は――話を聞こうと寄り添って・・・・・くれているとも、取れないこともないような。

(――いやいやいや流石に)

 都合が良すぎるというか、願望が過ぎるというか……爆豪こいつの様子が何かおかしいのは今に始まったことでもないし。小さく頭を振って都合のいい解釈を吹き飛ばし、合宿が始まってからの彼の様子をひとつひとつ思い出してみる。
 森でわたしをぐるぐる巻きにした時は割と普通だったっけ。その後、夕食の辺りから妙だったというか、気が付いたらこっちをじっと見ていたり、かと思ったら何か言いたげな様子のまま目を逸らしたり、何かよくわかんないことをぽろりと溢したり――そこまで考えて、はたと思い至った。

「……ねえ」
「あ?」
「知ってたの?わたしの特訓があれ・・だって」
「……知るかよ」

 でも、想像はつく。
 そう言いながら、爆豪あいつはとうとうその場に胡座を掻いて座り込み、既に空になってしまったらしい缶を床に置いて頬杖を突いた。湯上りの香りがふわりと漂う。

「てめェのクソ弱っちい“個性”、鍛える要素しかねェとはいえ……目下最大の弱点っつうならあれ・・だ。B組との合同合宿でそこをやらねェ理由がねえ」
「……もしかして、相談乗りに来てくれた?」
「……別に」

 まさかなあ、なんて思いつつ試しに尋ねてみると、足元の缶を睨みつけていた赤い眼がギュッと細まった。苦虫を噛み潰したような渋い顔で一度口を噤んだ爆豪あいつは、やがてもの凄く嫌そうに絞り出した声で言う。

「特訓中のてめェが煩すぎて、こっちが集中できねんだよ」
「あんただって“クソが!!”って叫びまくってんじゃん」
「うるっせえなクソ……てめェのは実害アリ・・・・だろが、自覚あんのか?」
「あ、うん……」

 “南北、ドラム缶が焼けちまって触れねえ……”と、珍しく困った様子で訴えてきた轟くんの顔を思い出して何も言えなくなってしまう。確かに、あの場で特訓していた一年生の中で、周りに迷惑を掛けながら暴れていたのは多分わたし達のペアだけ――それも主犯はわたしだ。何も言わなかっただけで、もしかして爆豪こいつのとこのお湯もわたしのせいでグツグツ煮立ったりしていたんだろうか。
 反省の意を込めて項垂れるわたしを一瞥して、彼は小さく呟いた。

理由・・知ってんのも俺だけだ――だから余計ムカつく」

 なるほど――納得だった。
 爆豪こいつは、爆豪こいつだけはやっぱり、わたしの“個性”がどうして急に言うことを聞かなくなってしまったのか、その理由に気付いていた。知っていたから様子がおかしかったんだ。わたしの方をじっと見たり、目を逸らしたり――うちの父親の件は爆豪こいつにとってもかなり不快な思い出のひとつだろうから、張本人の様子が気に障って仕方なかったんだと思う。
 謝ったらまた怒られそうな気がして、わたしは喉まで出かけた言葉をぐっと飲み込んだ。爆豪あいつはふてぶてしく頬杖を突いたまま吐き捨てるように言う。

「いつまであのクソ親父にビビってんだ」

 ――……、

「ヒーローになんだろ、おまえは。もう一方的にブン殴られるだけのガキじゃねえんだろが――」
「違うの」

 ぽろりと、ほとんど無意識のうちに否定の言葉が口から漏れた。驚いたように言葉を切って、爆豪あいつがわたしの方に視線を向ける。わたしは抱えた膝に目を落としたまま、胸の奥から溢れてくる取り留めのない言葉をそのまま零す。

「違うの、わたし……怖いのもあるよ。確かにあるんだけど」

 血の繋がった家族の思い出は、真っ赤な苦痛と恐怖に塗り潰されている。
 思い出すと足が竦んだ。恐ろしかった。全然関係ない赤の他人の、ただの鋼鉄の腕に触れられただけで、我を忘れてみっともなく喚き散らしてしまう程度には。
 けれど今は、それ以上に抑えられない感情がある。ずっと胸の奥に燻っていた――鉄哲くんと出会って、あの頃のことを色々と思い出すにつれて、鮮明に蘇ってきた強烈な思いが。

「許せない」

 口にした途端、それは明確な形を持ってわたしの中に落ちる。不快な重みを伴って、腑の底にごろりと転がる生々しい感触を残して。

「痛いよりも、怖いよりも、それなんだ」

 力が暴れて止まらないのは、怯えのせいだけじゃない。
 焼けた指に腕を掴まれる苦痛。わたしを取り返そうと足掻いた母さんを殴る父親あいつの横顔。あの頃の記憶をなぞるたび、喉の奥が焼けたように熱くなる。視界が隅から焼けるように赤白く狭まってゆく。許せない。わたしの大切な人に一生消えない傷を刻んだあの男を、わたしは死んでも許せない。
 かた、と軽い音がした。視線をそちらへ動かすと、爆豪あいつが足元に置いた赤い空き缶が小刻みに震えているのが見える。膝の上で握った自分の右拳を見れば、きつく合わさった指の隙間から微かに赤い光が漏れ出ているようだった。
 まただ――我慢できない。

「許せないの。わたし、あいつをぶちのめしたい――そういう気持ちが、……抑えられない」

 ――これは、憎悪・・だ。

 わたしにとって、父親あいつのことを思い出すという行為は、恐怖や苦痛の追体験である以前に、怒りと憎しみの反芻だった。
 鉄哲くんの鋼の体に奴の面影を見出すたび――熱を持った空気の中であの輪郭をなぞるたび、理性が感情に押し負けそうになる。弱くて小さくて何も出来なかったあの頃、胸の内にひたすら募らせた憎しみの全てを、ありったけの磁力と熱ちからに乗せてぶつけたくなってしまう。
 怯えて動けないよりもなおたちが悪いような気がした。恐怖なら勝ちようがある。歯を食いしばりながら耐えて、自分を奮い立たせることなら昔から得意だから。けれど、抑え切れない大きな憎しみを――持て余してしまうほどの激情をどうすれば抑え込めるのか、そういう方向に我慢・・したことがないわたしにはわからない。

 べこりと音を立てて空き缶が凹んだ。いつの間にか磁力が中に入ってしまったらしい――これ以上はダメだ。両手を合わせて深呼吸するわたしの横で、爆豪あいつはいつの間にか頬杖を解いて、無残に歪んだ缶を難しそうな顔で睨みつけている。互いに言葉はなく、自販機が低く唸る音だけが、少しの間廊下の片隅に響いていた。

「……だったら、好きなだけブチのめしゃいい」

 先に口を開いたのは相手の方だった。長く溜めた割には何ともない風の、いつも通り不機嫌そうな声色。しかも内容は身も蓋もない、いっそ投げやりにさえ聞こえる言葉で。
 今回ばかりは流石に呆れられたかなあ――内心そう独りごちつつ首を振る。そんなことをして良いはずがない。制御できない“個性”をそのまま、それも明確な憎悪でもってぶっ放したりした日には、きっと昨日のようなかわいい騒ぎでは済まないだろう。それはどう考えたって、ヒーロー・・・・のやって良いことではない筈だから。

「そんなの無理でしょ、周りにどんだけ迷惑かけちゃうか――」
「――いついかなる時でも救いようのねえ馬鹿だな、てめェは」
「……はぁ!?」

 突然ボロクソに貶されて思わず顔を上げる。既にこちらから視線を外していた爆豪あいつは、凹んだアルミ缶を片手で拾い上げ、とどめだとでも言わんばかりにぐしゃりと握り潰した。

「憎い、許せねえ――それの何が悪い・・・・?」
「えっ……」
「外道を許す良い子ちゃんだけがヒーローなんか?んな訳あってたまるか。クソヴィランをブッ飛ばすのがヒーローの仕事だっての」

 ぽかんと呆けるわたしの方は見ないまま、爆豪あいつは一度言葉を切った。それまでの言葉の調子とは裏腹に、その沈黙に責めるような重みは無いように思える。少しの静謐の後、ぽつりと投げ掛けられたのは、何だか意外な言葉で。

「……どうせ母親が大事だからそう・・なってんだろが」
「……、」
「それに、前提が間違ってんだよてめェは」

 最早原型を留めていない缶が、呆けるわたしの顔の前で見せ付けるようにふらふら揺れる。その向こう、こちらを流し見る赤い目にはもう不機嫌の色は無く――ただひりつくような真剣な色だけを宿していた。

「いいか――許せねえ奴ほど、確実に・・・仕留めんだよ」
「……!」
「普通に考えろ。絶対ぜってー倒したい奴、負けらんねえ奴……そういう奴が相手の時ほど冷静に、確実に、周到に、作戦練って息の根止めに行くモンだろーが。勝ちてえならまず考えろ――感情任せに全部ブッ放すタイミング・・・・・を」
「タイミング……」

 目から鱗、とはこのことだった。
 体育祭の件、昨日の暴走、今日の難航した特訓。どれもあまり良くない記憶だったし、そもそも原因が原因だったから、よくないもの、抑え込む・・・・べきものだと頭から思い込んでいたのだ。
 けれど。

“――どう受け取るかは自由だが、客観的に見れば伸び代だぞ”
“――できることが増えた・・・・・・・・・ってことだ”

 相澤先生やデクに言われた言葉が脳裏に蘇る。そうだ、確かに“制御”はできていないけど――現状頻繁に、日常的に起こっているそれは、最早ただの“事故”や“暴走”ではない。

 それは、引き出されたわたしの最大出力・・・・。わたしの“個性ちから”。

「そっか、抑え込むことに躍起になってたけど……もっと違う……“必殺”のタイミングで……放つ……」

 忌むべきものとして押さえ込むんじゃない。轟くんの穿天のように、爆豪あいつの最大火力のように――自分の意のままに、狙ったタイミングで、意思を持って放つべきもの。

 どん詰まりだった思考がすっと広がって、頭の中に重苦しく立ち込めていた靄が晴れていくようだった。どうしていいかわからずにずっと途方に暮れていたけれど、無理に全部押さえつけるんじゃなく、我慢して我慢して最後、狙った一点で一気に開放してしまえばいい。そんな風に考え方を改めれば、今までよりも上手に制御できるような気がしてきた。
 ――“個性”も、感情・・も。

「っ、なんか……わかってきたかも……!」

 高揚を隠せないまま顔を上げると、爆豪あいつは一瞬固まった後、顔の前でぷらぷら動かしていた缶の残骸を投げ付けてきた。大して痛くもないそれからわたしが顔を庇う間に、釣り上がった赤い両眼は顔ごと向こうに背けられて見えなくなってしまう。
 想像以上に、わたしの都合のいい勘違い以上に――文字通り腰を据えて真っ当に、わたしの悩みに寄り添ってくれた。その理由が単に“うるせェ”とか“気が散る”とかだったとしても、わたしにとっては十分すぎる事実で、堪らなく嬉しくて。
 さっきまでのベコベコに凹んだ心境が嘘のように、心臓が心地よい脈を全身に巡らせている。今のわたしは無敵かもしれない、そんな訳の分からない思いが頭の中を通り過ぎていった。

「ねえ、ねえ」
「……んだよ!」
「ありがとね」

 煩しげに振り向いた爆豪あいつの方へ手を伸ばして、タンクトップの裾を軽く引く。感謝の言葉を聞いた途端どこか居心地悪そうに揺らいだ赤い目は無視して、緩む頬を引き締められないまま告げる。昨日の夕食どき、人知れず抱いた決意をもう一度噛み締めながら。

「わたし、絶対できるようになるから――見てて」

 誰よりも、この人に見ていて欲しかった。
 何だかんだ言って、ずっと気にかけてくれているのが伝わってくるから。何にも悪くない癖に、幼い頃の負い目を六年経った今でも心のどこかに抱えてしまってるんじゃないかって、そう思うから。
 そんな必要はないということを示したい。わたしが父親あいつに勝てるってことを――大丈夫・・・だってことを、証明したい。

 けれど、わたしの言葉を聞いた爆豪あいつの顔は微かに強張ったように見えた。てっきりもっとつれない反応をされるかと思っていたのに、その硬い表情の奥に何か思い詰めるような気配を感じた気がして、わたしも思わず口を噤む。
 逸らされた視線が斜め下へ落ちる。少しの沈黙を挟んで、爆豪あいつの唇がぴくりと震えるのがわかった。
 まただ。何だろう、この煮え切らない態度は。首を傾げながら見守るわたしの目の前で、彼は何か言いたげに小さく口を開き――、


「なァーーーーーーにを……」


 聞こえてきたのは地の底を這うような恨めしげな声。次いで、わたしと爆豪あいつの間に割り込むように足元から飛び出してきた小さな頭。一瞬何が起こったのかわからず固まるわたしの目の前で、完全に“無”の表情を浮かべていたその顔が、突如物凄い形相に様変わりして絶叫した。

「イチャついてんだおまえらはァァァァ!!」
「ぎゃー!?」

 化け物じみた狂気を滲ませながら吠えるその人影は、紛うことなく峰田くんその人だ。裾から手を離して飛び上がるわたしと、“何だこいつ”と書いてある爆豪あいつの顔面を交互に見遣りながら、地獄の亡者の如き怨嗟を身に纏わせた彼はこめかみの青筋をぴくつかせながら更に叫ぶ。

「これから天国パラダイスに向かおうってときに変なモン見せつけんなよなァ!?最高だったテンションが一気にどん底なんだよこっちは!他所でやれ他所でェ!!」
「うるせえ」
「キャフン」
「(天国パラダイス……?)」

 何だか(日頃の行い的に)嫌な予感がする単語をちらほら交えつつ騒ぐ峰田くんを、至近距離で大声を出されて一気に不機嫌度が増した爆豪あいつの裏拳が容赦なくふっ飛ばす。可愛らしい悲鳴を上げながら宙を舞う彼の体を視線で追うと、廊下の向こう側、大浴場の方からやってくる人影がちらほらと見え始めた。

「何の騒ぎだ?」
「峰田じゃね?おまえまァだ風呂入ってなかったんかよー」
「あっ――爆豪!おめー上がんの早ェよ、いつの間にか消えててビビったぜ!」

 どうやら風呂上りの男子集団――の一部のようだった。飯田くん、上鳴、切島くん、後ろの方にはデクと轟くんの姿もある。ほかほかとした空気を纏いながら声を上げた切島くんの顔を見るなり、爆豪あいつは面倒臭げに舌打ちを溢しながら立ち上がって、そのまま踵を返して廊下の反対側へ歩き出した。「ちょ、待てよー!」と後を追う切島くんの後ろ姿を茫然と見送るわたしの背後から、やや戸惑い気味の飯田くんの声が掛かる。

「大声が聞こえたようだが――というか南北くん、女子のみんなはついさっき大浴場に入って行ったみたいだぞ。一緒に行かなくていいのかい?」
「ああ、うん、えっと……もうちょっと自主練してからにしよっかなって」

 素朴な問いかけに言葉を濁してしまったけれど、今は全部が嘘というわけでもない。話を聞いてもらったお陰で掴んだ糸口を、見失わないうちに何か掴んでしまいたいというのは本当のことだった。湿り気を帯びていつもよりモジャついた頭のデクが、廊下の向こうを歩く爆豪あいつの後ろ姿をちらりと気にしながらわたしに問う。

「かっちゃん……だったよね?何か話してたの?」
「……まあね、アドバイスしてもらっちゃった」
「あいつがァ!?……ふーん、良かったな〜?」

 上鳴が大袈裟に驚いた後、ニマニマと腹の立つ笑顔を浮かべてわたしを見下ろした。目の前まで近づいて来たその脛を軽く蹴飛ばしながら、右手で拾い上げたぺしゃんこの空き缶と、反対側の空いた掌を改めて見遣る。

「いってー!?」
「おかげで何か掴めそうなんだ。“個性”の威力がうまく調整できなくて困ってたんだけど……押さえつける方じゃなくて、全力で解放するタイミングの方を計るっていうか……問題はその瞬間までどうやって出力を絞るか……」
「――卵の殻が割れないイメージ……」
「へ?」
「意図せず最大出力が出ちゃって、通常時に適度な力加減が保てないってことだよね?それならやっぱり、僕が少しは力になれるかも……!」

 何かに気付いた様子のデクが明るい面持ちで言った。その背後、いつの間にか自販機でお茶を買っていた轟くんが、ペットボトルのキャップを捻りながらぽつりと呟く。

「……“熱”の方なら、俺も何かわかったかもしれねェ」
「……!ほんと!?」
「ああ。おまえの“個性”がこっちに漏れてきたとき――」

 頷いて、彼もわたしの“個性”について思い当たることを語り始めてくれた。慌てて立ち上がりその言葉に耳を傾けながら――ふと、脳裏に先程の爆豪あいつの顔が過ぎる。
 物言いたげに開きかけた唇。一瞬思い詰めたように強張った表情。

 ――何か、とても大切なことを言おうとしていたような、そんな気がして。

 峰田くんのせいですべてはうやむやになってしまった……その峰田くんもいつの間にか居なくなってるし。天国パラダイスってまさかそういうことじゃないでしょうね、いい加減にしろよ。
 内心毒づきながら、視線はつい廊下の反対側を流し見てしまう。亜麻色と赤のツンツン頭が連れ立って消えたその向こうには、もう誰の姿も見えなかった。

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